★ この7万台の目標の中には、二輪車だけではなくて、
当時、日本では『新しい商品』であった『ジェットスキー』が1万台入っていた。
『ジェットスキー』というのはカワサキの商品名なのだが、
日本にアメリカから輸入されて、すぐに人身事故などあった時には、
国会では『エンジン付き海洋浮遊物』などと言う不思議な名前で呼ばれたりした。
そんな『ジェットスキー』に関連した当時の想い出話を幾つか。
『ヤマハ・メイト』が続いて上市されたが、これも商品名だから、
2社で『パーソナル・ウオーター・クラフト、PWC』と名付けて、
そのPWCの安全協会を設立して『PWSA』としたのだが、
一般の方は、どれくらいお解りになっているのだろう。
ヤマハさんとは、競合関係ではなくて、
新しい業界を発展させようと、ホントに仲良く活動をしたのである。
PWSA会長を務めたりしたのだが、
PWSA会長を務めたりしたのだが、
ヤマハの方から『社内会議のようだ』という評価を頂いたりした。
それが1990年の頃のことなのである。
★ この『ジェットスキー』は、非常に不思議な生まれ方で、
単車ではなく、エンジンを生産している『発動機事業部』が、
アメリカ人の持っていた『特許』を購入して、
発動機事業部がエンジンをアメリカのKMM(リンカーン工場)に送って生産し、
アメリカの販売会社KMCだけで販売をしていたので、
川崎重工業の製品ではなかったし、
明石の単車事業部は全く関係がなくて、
単車事業部には1人の担当者もいなかったのである。
私の企画室長時代に、企画課長だった武本一郎さんが、
『川重の正規の製品にすべし』と言い出して、
新しいことは何でも好きな私が、『その話に乗り』動き出しことになるのだが、
当時国内では、西武自動車が輸入してKATというカワ販の孫会社で
細々と年200台ほど販売はしていたのである。
西武自動車関連の方々で、レースなどもやられていて、
当時KATの社長を兼務されていた苧野豊秋さんに頼まれて、
アメリカのKMCにレース協会JJSBAを立ち上げる承諾を取りに、
アメリカ出張もしたのだが、KMC社長が田崎さんでその時の写真である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/d5/4e83261e6d087de2e78b7603d528aa19.jpg)
★ そんなちょっと変わった展開からのスタートだったが、
アメリカ以外のヨーロッパ、並びに日本市場などへの販売を試み、
私・武本一郎・鶴谷将俊・福井昇さんなどでプロジェクトを立ち上げ、
その時の国内市場を担当してくれたのが藤田孝昭さんなのである。
あの時あのメンバーが動かなかったら、
『ジェットスキー』のその後の展開は果たしてどうなっていたのだろう?
ちょうどその頃、オーストラリアの社長から戻ってきたのが鶴谷将俊さんで、
無理やり『ジェットスキー担当』を押し付けて、
企画室の中でスタートを切ったのである
発動機事業部にジェットスキーに乗れて、
レースもやってるという福井昇さんがいることが解って、
発動機に貰いに行って、メンバーに加わって貰ったのである。
特筆すべきはこんなカワサキのメンバーだけではなくて、
ジェットスキーに関係していた外の人たちがホントに援けてくれたのである。
今でもこの業界で活動されている大南勝也さん、
マウンテンライダースの50周年記念の時にお会いした写真である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/93/44e37d4de243684db3a068d6acae219d.png)
当時の日本の女子トップライダー、松口久美子さん。
今でもFacebook で繋がっている。
そして世界の頂点登りつめた金森稔さんは、今はアメリカKMCにいる。
何年か前にアメリカでお会いした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/01/0b0fed6f9b0d2e0a9c2c97bb751a0466.jpg)
★このプロジェクトのメンバーは、一言でいえば『ちょっと変わっていて』
よく言えば『個性派』ばかりなのである。
鶴谷将俊さんは、私も色濃く関係した開発途上国プロジェクトでは、
岩崎茂樹さんと二人で、イランを担当していたのだが、
その後係長の時代にオーストラリア社長担当などした実力派なのである。
国内市場については、
ジェットスキー販売を担当されていたのが元上司の苧野豊秋さんだったので、
私自身が担当し、藤田孝昭さんたった一人を指名して、
ジェットスキー独自の販売網設立を企画したのである。
福井昇くんは、初期のヨーロッパ市場開拓などにも携わっていたのだが、
その後国内でジェットスキー販売網を独自に展開する時には
川重を辞めて国内のジェットスキー販売1号店となったのである。
その後このプロジェクトは、企画から営業に移り、
鶴谷将俊さんが担当をしての世界展開となるのだが、
1988年にはソウルオリンピックに、オリンピック委員会からの正式な依頼で、
開会式当日に漢江で『デモンストレーション』を行ったりしたのだが、
このライダーはアメリカ・ヨーロッパ・オーストラリア・日本から
Topライダーを選んで対応し。
スタート以来のジェットスキー関係メンバーの
苧野JJSBA会長・鶴谷・藤田・福井さんや、上述の3人の方は勿論、
当時の日本のTOPライダーたちも集まって
私はその団長を務めたのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/19/01d653b06a28c7e48c8f63c2a6108b95.jpg)
★ この『ソウルオリンピック』から帰国したのが、
1988年10月1日だったので、
国内市場担当という新職務は、その翌日の10月2日からスタートしたのである。
この表は、『7万台への挑戦、新しいカワサキのイメージ戦略』の講演会で
私が喋った内容ですが、
当時、かっては200台であったジェットスキーが3000台となり、
さらにそれを1万台目標として対応したのだが、
それがもう少しで実現する、そんな時期だったのである。
この時期、国内のジェットスキー販売会社の社長は私が兼務していたし、
常務として旗を振ってくれたのが藤田孝昭さんである。
さらに言うと、その初期の実務を仕切っていたのが渡部達也さんだったのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/79/842ea1f91cabde8c9e9d4bf4f2777bde.png)
この時期に中心になって旗を振ってくれたのが鶴谷将俊さんで、
企画から営業に移りジェットスキー販売部門を担当し、
同時に、国内市場に関しても色濃く関与してくれたのである。
ジェットスキーという商品は、単なる遊びだけではなくて、
『レース関連』も非常に大きな分野を占めるのだが、
当時はその中心であったJJSBAの会長は初代苧野豊秋会長以下
2代目以降も、すべてカワサキ関係者が会長を務めたし、
そのレース規模も『琵琶湖』でアメリカからライダーを招いて、
『ワールドカップ』開催を図るなど、大規模に展開をしたのだが、
その中心になってくれたのが鶴谷将俊さんだったし、
福井昇くんなども、大いに手伝ってくれたのである。
今回、特に言いたかったのは、
『ものごとを実現する』一番のキーは、『何と言っても人』である。
それも単にメーカーや販社というこちらサイドだけではなくて、
業界・ライダー・ユーザーなどを巻き込んだ『大きなうねり』みたいなものが、
一番大事なのかなと思っているのである。
この当時のメンバーたちからも、このようなブログをアップすると、
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