雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

昭和20年(1945)8月、終戦当時の想い出 幾つか

2020-06-20 05:40:26 | 発想$感想

★ 朝鮮半島の北と南の対立が激しい。
 このままではどのような事態になるのか、心配である。

   


 
突如として、世の中の状況は変わったりするのを体験してきただけに、
今回の事態についても心配するのである。

1945年8月15日、所謂『終戦の日』には私は中学1年生で、京城(今のソウル』にいた。
終戦の勅諭を中学校の校庭で直立不動の姿勢で聞いたのだが、
よく聞こえなかったのだが『日本が戦争に負けた』ということだけは解ったのである。

当時の朝鮮は日本だったし、南北などには分かれていなかったのである。
内地(日本のことをそう呼んでいた)では空襲がひどく、
本籍の明石なども爆撃でやられていたのは知っていたが、
当時の朝鮮には空襲もなく、食料事情なども何の問題もなくて、
戦争の実感はあまり感じてはいなかったのである。

この年中学校に入学したのだが、
4月からは殆ど学校には行かずに『学徒動』に駆り出され、
近くの山で松根油をとるために松の根を掘っている日の方が多かったのである。

日本の本土が爆撃を受けるようになってからは、
この戦争に勝ち目はないなどとは思っていたが、
8月になって状況は激変したのである。

広島・長崎の原爆投下があって、
確か8月8日だと思ったが、ロシヤが満州で参戦したのである。

そして8月15日、突然の終戦となったのである。


このニュースは朝鮮の人はひょっとしたら知っていたのかも知れない。
私が『終戦の勅諭』を聞いたのは12時なのだが、
そのまま家に戻ろうとすると、
京城の市電は朝鮮人に占拠されて、所謂韓国の旗がいっぱいで、
日本人は市電に乗ることも出来ずに家まで歩いて帰ったのである。


いま南北が対立している『38度線』も8月15日に即座に引かれて、
朝鮮半島は南北に分かれ、
北はロシア、南はアメリカの統治となったのである。

私の京城の家の斜め前のおうちのご主人は、
8月15日の直前に北の方に出張されたのだが、
8月15日に南北に分断されてしまって、家に戻れなかったのだが、
どうなってしまったのだろうか?

幸い、南はアメリカの統治だったので、
特に大きな問題も起こらずに、平穏無事ではあったのだが、
日本への引き上げの際は、
ひとり当時の金で1000円だけを持ってその他は背中に担いだ荷物だけで、
家も家財道具もそのままに日本に戻ってきたのである。
 
あの当時の日本人の財産は一体どうなってしまったのかと思うのである。
 

当時、自転車が100円ほどだったから、
1000円はそれなりの価値があったのかも知れぬが、
日本に戻ったら『闇米』が一升100円もしたので、
殆ど生活の足しにはならなかった額なのである。
因みに朝鮮では米1斗が100円だったと覚えている。



★ 朝鮮の人たちにとってみれば、
この南北分割は世界の大国の意志でそうなっただけで、
朝鮮民族が望んだわけではないのだが、
まさに『不幸な出来事』であったことは確かなのである。

それから5年後、昭和25年(1950)6月25日に突然朝鮮戦争が勃発して、
これは今でも終わったわけではなくて『一時中断』の状況なのである。
 
この戦争は突然始まって、
北が圧倒的に攻めて、9月には殆ど南の釜山あたりまで攻め込んでいたのだが、
国連軍が仁川に上陸して、押し戻し、元の38度線に納まっているのである。


     


 
そんないろいろあった『朝鮮半島』なのだが、
なかなか無事に、民族統一で一国となるのはムツカシそうである。

長い歴史の中で、いろいろとあった朝鮮民族なのだが、政治体制が異なるし、
そのバックにいる中国・ソ連とアメリカという世界の大国の思惑の中で、
今後も大変だとは思うが、
今回の問題は、どんな決着になるのだろうか?


 


コメント
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