★ 昨日は小学生時代の記憶について記したのだが、
終戦になってその年の12月に日本に引き揚げてきた。
この年の4月に中学生になっていたのだが、
翌年にもう一度中学1年生に再入学したのである。
英才教育で名高い旧制神戸一中に入学したのだが、
なぜか『無試験』で入学できたのである。
小学校の時も、勉強はしていて小学校卒業の際には『知事賞』に当たる
『京城府伊賞』なども頂いていたので、試験を受けても入れたかも知れぬが、
父から『無試験で入れたのだから勉強はちゃんとするように』と言われて、
神戸一中時代は本当によく勉強はしたのである。
その結果、中学2年までは結構『いいところ』にいたのである。
京城の桜ケ丘国民学校もなかなかレベルの高い学校だったが、
神戸一中は、これは優秀な生徒が揃っていたし、
授業のレベルが高いというか、進み方が早かったのである。
入学した時は旧制中学の最後の学年で男子ばかりだったのだが、
3年になるときに、男女共学になって県一女と一緒になったのだが、
一緒になってからは、女子のレベルに合わせたので、特に英語・数学辺りは
『1年間逆戻り』したようなことになったのである。
★どんなレベルだったかというと、
英語などもスタートは、This is a pen.から始まったのだろうが、
1年の夏休みの宿題に『「舌きり雀」の物語の英文』があって、
それはこんな英文から始まるのである。
Once upon a time, there lived an old man and his wife. They treated the bird tenderly as if it were their child. ・・・・・
『as if it were』と言う表現は、 初めての方もおられるかも知れぬが、
ホントに『it』の後ろが『 were 』で合ってるのか、確かめてみたのだが、
こんな例題が出ていて
これは『まるで』という意味で『まるで自分の子供のように可愛がった』
ということなのである。
こんな英文を何故か80年経った今も鮮明に覚えているのである。
数学は『対数』辺りまで中学2年生で進んでいたので、
『対数』については、中学生の頃に2度習ったし、
高校は学区制になって、明石高校に移ったので3度教えて貰ったのである。
★そんな小学校・中学校での学習だったのだが、
逆に言うと、そこで私の学校での勉強は終わってしまって、
高校時代も、大学でも『新しい知識の取得は皆無』だと言ってもいい状態で
『私の記憶のレベル』は神戸一中の2年生までなのである。
だから私の学歴は『中学卒業』だと思っている。
それ以降は学校には行っていたが、一生懸命やってたのは野球なのである。
そんなこともあって、学校時代のことで覚えていることと言えば
『野球のルール』と『神戸一中の校歌』ぐらいである。
小学校の校歌も、高校の校歌も全然想い出さないのだが、
『神戸一中の校歌』はなぜか覚えている。
昔の言葉が並んでムツカシイのだが、2番までは今でも歌える。
この校歌を、大勢の人の前で歌ったことがある。
それは私の結婚式の披露宴でのことだが、
高校・大学の野球部の連中がいっぱいいて、
結構、賑やかな『披露宴』だったのだが、
仲人さんが、突然『君も歌え』と仰るのである。
突然のことだったのだが、
たまたま、家内も神戸高校の卒業だったこともあって
神戸一中の校歌の一番を歌ったのである。
『群巒色(ぐんらんいろ)は紫に 金波さ揺らぐ茅渟(ちぬ)の浦
東大野を瞳々と 朝日子昇る曙や
希望の光輝ける 我が世の春に似たるかな 』
の歌詞もいいなと思ったのである。
『これは秀逸』と褒めて頂いたのを想い出すのである。
★ 小学校・中学校での記憶のことをアップしてきたが、
高校・大学と殆ど何も覚えなかったのだが、
会社に入ってからの現役時代はからは『結構勉強した』と言えるのである。
以前にも書いたが、会社の入社試験の面接は、
『君は成績悪いね』から始まったのである。
『臆することなく、会社の仕事なら他人に負けずにやれます』などと
答えたものだから、積極的にいろいろ覚えたし、
入社早々『IBM での償却計算・機械化』など会社で誰もやらなかったことに
取り組んだし、『広告宣伝課』で本格的なマーケッテングを覚えたし、
営業では大学時代取らなかった簿記について、
特に資金繰り関連での勉強などに取り組んだのである。
★ 学生時代に勉強をしなかっただけで、
『知識の取得』には興味がある方だと思う。
定年後はネットをいろいろ覚えたし、今でもいろいろ『新しいこと』を
覚えるのだが、どんどん忘れてしまうのである。
小学生・中学生の頃に覚えたことは、なぜ忘れないのか?
ホントに不思議に思って、こんなことを書いてみたのである。