★ 私の日記・1954(昭和30年)は大学3回生である。
前年の11月に突然肺浸潤の宣告を受け、そんなことから日記を書くようにもなったのだが、
この年からは当然だが日記帳に書いている。
世は吉田茂内閣時代で、不景気で就職難の時代である。
学生たちは勉強して優の数を一つでも多く取ろうとするのだが、
これはひとえに就職に有利になるようにということなのである。
どうもそんなことがイヤで、私は逆に勉強はしなくなってしまった。
そんなこともあって、この年の日記は『野球のこと』ばかり書いている。
★ この時期には兵庫県では高校のOBチームの大会が新年早々甲子園球場で行われている。
先ずはこの大会で明石高校と芦屋高が優勝を争い、見事明石が優勝を飾っている。
そんな写真が日記帳に貼ってある。
残念ながら『肺浸潤』になったところだったので、
この時期は大人しく寝ていたので、
現場に行っていないし、チームにも参加していない。
2月にはこの頃は巨人が明石球場で練習してたので、よく見に行っている。
川上・別所・千葉・宇野の時代で、広岡が新人で巨人に入団した年である。
新人ながら広岡の守備は見事だった。
この年の前半6月までは『肺浸潤』のこともあって大人しくしていたのだが、
病状は安定して落ち着いていた。
7月になって9か月ぶりにユニホームを着て、大学の練習にも参加するようになった。
加えて、こちらは準硬式のアマチュア野球だが明石高校のOBチームに参加して草野球を楽しんでいる。
明石高のOBばかりだから当たり前だが強くて、いろんな大会に優勝している。
9月の秋のリーグ戦に備えた合宿にも参加し、
3回生だったのだが秋からのキャプテンにも選ばれて、
秋のリーグ戦はベンチでの指揮を任されるのだが、
10月19日にはショートで復帰している。
これが秋のリーグ戦の予想だが、春には5位に終わった神商大だが、
記事には『古谷のカムバックで』内野陣がまとまり、
打力も上がってと2位を狙う位置にあると書いてもらっている。
結果は3位で終わるのだが、
リーグ戦が終っても、明石高校のOB野球にはずっと参加していて、
11月には神戸2中OBとの試合も14-5で圧勝し、この試合では5打数3安打と記録にあった。
神戸2中も明石高校もその時代の甲子園出場チームで、
そのOB戦は、そんな甲子園球児がメンバーなので、
そこそこの野球を展開していたのである。
明石OBは私と同期の完全試合投手の溝畑が主として投げていたし、
翌年の兵庫県OB大会の予想も『優勝候補』として
新聞にこんな記事が載ったりしていたのである。
メンバーは慶応で朝日スポーツ賞を取った山本治投手や
日生の大津・国賀・西村など錚々たるメンバーで、
このメンバーなら当時の日本の実業団チームでも優勝候補になるかも知れないほどのメンバーが揃っていたのである。
そんな大学3回生・21歳の私の1年は『後半は野球漬け』だったと言っていい。
この時期肝心の『肺浸潤』のほうは経緯は良好で落ち着いていたのである。
そんな1954年だった、
日記を読み返してみると、
ほんとに忘れてしまっていることが多いのに驚いた。