★ 山本隆さんが突然亡くなってしまった。
公式には昨年11月のZ50周年記念にこんなに元気に
出席していたのだがそれが最後になってしまった。

彼が21歳の頃(1963)からのお付き合いなのだが、
私が一生に出会った人の中で
ひょっとしたら、彼が一番長く密接にお付き合いがあった人かも知れない。
現役時代は勿論、退職後もずっと密接に繋がっていたのである。
若い時はレースで繋がっていて、
私がレースの世界に入ったのも、
その原因を創ってくれたのは、山本・歳森のBSとの仮契約問題だったのである。
この事件は神戸木の実クラブの片山義美さんの一喝で、無事元のさやに納まるのだが、
そのことから私はレースの世界に足を踏み入れたのである。
★ それ以来の継続したお付き合いだから、
山本隆の写真も手元にいっぱいある。
旧いと思われる順番に並べてご紹介してみたい。
先ずは現役時代、カワサキがはじめてライダー契約をした当時で
左から岡部・歳森・山本・三橋・梅津だが、
岡部・歳森はすでに逝ってしまって、山本も続いてしまった。
三橋・梅津は音信不通である。

これが伊豆丸の山高原で行われた、MCFAJ全日本モトクロスで、
山本隆は当時の久保・荒井の両雄を下しての優勝だった。
この優勝でカワサキのモトクロスが一人前だとレース界認められた優勝なのである。
東京オリンピックの開催式当日のことである。

1955年5月には、カワサキのライダーではじめて鈴鹿サーキットに出場し
ホンダに次いで3位入賞、
『ヤマ3、シオ8、セイコウ、カワ』の電報が川合さんから送られてきた。
そんなことからカワサキはロードの世界にも進出し、
金谷秀夫との契約もスタートしたのである。
そう言う意味でカワサキのロードレースの祖でもある。

現役時代は文字通りカワサキのエースライダーとして活躍し、
3年連続・全日本チャンピオンの栄にも輝いたのである。

これは僚友、歳森康師とモトクロスのお弟子さん星野一義とのスリーショットだが、加古川の河原での練習風景である。

これがF21Mが出た時の青森での全日本の時の写真で、
1966年の年である。

モトクロスライダーとしては、1973年ごろまで現役ライダーで活躍し、
華麗なライデイングを披露した。

その後、トライアルにも出場したりしたしたが、


自ら『60おじさん』と称してモトクロスにも長く出場した。

これは荒井市次70歳・山本隆63歳の時だが、
三木アネックスパークで、二人は昔同様の見事な走りを見せたのである。

当時も現役時代と同じような見事なライデングで、

若いアマチュア諸氏などは寄せ付けない、
見事なライデングだったのである。

そんな山本隆だが
晩年は、私の後のNPO法人The Good Times の理事長も引き受けてくれていたし、

これは私と一緒に東京に行った時の写真だが、
星野一義がかってのお師匠さんにご馳走してくれた時の写真で
シャッターを切ったのが私である。
岡部能夫も金子豊もこの時が最後になってしまった。

これはマウンテンライダースの50周年記念パーテーに
京都に金谷・清原とも一緒に出掛けた時の写真だが、
安良岡も金谷もこの日が最後になってしまった。

同じ日に北川とも太一ちゃんとも一緒に、
私の80歳の誕生日だったので、いまから10年も前である。
ところで、山本隆は私よりちょうど10歳若いのでこの時は
70歳だったはずである。

これは神戸木の実クラブの記念祭だが、
片山義美もまだ健在だった。
彼とはいろいろ繋がっていて、私がライダーと一番初めに言葉を交わしたのは片山義美なのである。
何故か何となく気が合って、その後もいろんな形で繋がっていたのである。

これはその片山義美を偲ぶ会での山本隆である。

そしてこれが昨年の11月だが、
これが最後になってしまった。
全く元気そうな山本隆である。

★彼は若しライダーにならなかったら、植物の世界に入っていただろう。
植物が好きで、これは昨年彼が我が家に届けてくれたイチジクである。
今年はここまで大きくなった。

山本隆の想い出として大事に育てたいと思う。

山本隆の写真はいっぱいあるのだが
これが一番山本らしさが出ているなと思っている。

それとこれは彼がただ一度だけ
鈴鹿を走った時の3位入賞のトロフィーである。

カワサキのロードレースの道を最初に拓いたのは
モトクロスライダーの山本隆だったのである。
いろいろと長いお付き合いだったがほんとに有難うございました。
安らかにお眠りください。