雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

東京オリンピック マラソン代表内定

2019-09-17 06:36:10 | 発想$感想
★東京オリンピックには男女とも3人が出場するようだが、そのうちの2名が、一昨日の日曜日に、オリンピックと同じコースで、マラソンでは異例の残暑の環境の中で行われ決定した。

来年オリンピックが夏だから、『暑さに強い』ことも条件の一つになったのだろう。

  

 
MGC(マラソングランドチャンピオンシップ )という初めての仕組みで、一発勝負の緊張感の中での戦いで、従来にはなかった選出方法である。

従来のいろんな大会での成績からの選考は、もう一つ透明性がなく、何となくすっきりしないなと思っていたが、3名のうち二人が内定したので、
私は『コレでよかった』のかなと思っている。

昨日はテレビで実況を観ていたが、実力者だけの決戦マラソンで緊張感もありなかなかオモシロかったと思っている。

日本陸連が『この企画を持ち出した背景はマラソンの低迷』だという。

男子は瀬古・中山の時代から以降はずっと低迷だし、女子も有森裕子がバルセロナで銀、アトランタで銅、高橋尚子がシドニー、野口みずきがアテネで、共に金メダルを獲得したのは、もう遠い昔のことになってしまった。

 日本人には結構なじみ深いマラソンを東京オリンピックを前に盛り上げ、マラソンの代表選考も、一発選考で公明正大にやろうという考えのようなのだが、必ずしも賛成ばかりではなかったようだ。

こんな論評記事もあった。

MGCという一発選考が可能になったのは、単に80年代の瀬古や中山というスーパースターがいなくなったからだ。当時は、大会すなわち主催する新聞社が選手を奪い合い、「一発」に断固反対していたことを忘れてはいけない。
MGCは「東京オリンピックを盛り上げる」手段で、日本のマラソンを強化する目的意識はない。
結果論として、強化につながればいいという日本陸連の「奇策」に過ぎず、この竹やり戦術のような考え方に疑問を抱いている選手も多数いる。
オリンピック後、福岡国際マラソンや大阪国際女子マラソンなどの伝統レースはどうなるのか? 
オリンピックという真夏のイベントに、夏の種目でもないマラソンの将来を預けていいのかとの議論もある。』
というのである。
 

★「選手を成長させ、強化につながる」とは、瀬古利彦マラソン強化戦略プロジェクトリーダーの言だが、今回は翌年度の東京オリンピックと同じ舞台だったから、いろんな意味で『説得力』もあったが、今後も同じような選出方法となるのだろうか?


もう一つ、残り一人の枠については、スポーツ新聞にこんな記事があった。

“最後の1枠”となる3人目は、「MGCファイナルチャレンジ」で決定される。                 

●男子は、福岡国際(12月)、東京(来年3月)、びわ湖毎日(同)で派遣設定記録の2時間5分49秒以内
●女子は、さいたま国際(12月)、大阪国際女子(来年1月)、名古屋ウィメンズ(同3月)で派遣設定記録の2時間22分22秒以内の最速選手が最後の切符を手にする。
●派遣設定記録を誰も突破できなかった場合は、「マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)」3位の選手が代表に選ばれる。 

そんなことで、今後のマラソンにも目が離せないのだが、世界のトップレベルと比べたら、夏であっても『派遣設定記録』前後で走り切らないと、ダメかなと思う。

 昨日は、最後ダメになってしまったが、スタート直後から設楽悠太選手が飛び出し、独走してぶっちぎったのは、ある意味よかったのではと思っている。
 もう少し中盤あたりから調整して、残り5キロあたりまで余力を残せたら、『世界にも通用する』し、そんなことでないとなかなか『メダル』はムツカシイほど、世界のレベルは高いと思う。


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敬老の日   雑感

2019-09-16 06:32:27 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
★『敬老の日』 である。

 高齢の同居していた母親がいたころは、妹たち4人が母を長女の家に招いて女5人の会話を楽しむのが恒例になっていて、別に何とも思わなかったが、夫婦二人ともが『後期高齢者』となり『感謝される』側になってからは、何となく、『こんな日はなくてもいい』と思うようになったから、不思議である。

 一体、誰に感謝してもらうのか?
 もし『それが子どもたちだとすれば』それは余計に嫌である。
 昔と違って『核家族』となり、一緒に暮らしていないから、若し何かそれを形に表すとしたら『面倒この上ない』ことになる。
 そんな面倒な負担を『こどもに求める』のは、もう一つである。

 昨年までは、この時期は、少なくとも家内は10数年アメリカの娘のところに遊びに行っていて、ずっと2ヶ月以上『敬老の日』が続くような生活をしていたのだが、今年は久しぶりに、二人とも三木に居るので、改めて今まで意識しなかった『敬老の』についての感想を書いたりしているのである。


★『敬老の日』などいつできた祝日なのかと調べてみたら、こんなことのようである。

『敬老の日のルーツは戦後すぐの1947年(昭和22年)9月15日、兵庫県多可郡野間谷村が敬老会を催した「としよりの日」だと言われていて、その後全国に広まり、「老人の日」への改称などを経て、1965年(昭和39年)に国民の祝日「敬老の日」として制定されました。

敬老の日に「何歳から」のルールはなくて、「高齢者・65歳以上」がひとつの目安で、
特に対象年齢などを定めているわけではありません。
敬老の日を祝う=年寄り扱いと受け取られるのは、祝う側としても本意でないですから避けたいところ。
孫からのお祝いとすれば、「年寄り扱いすると嫌がるかも」といったことは、さほど気にしなくても問題ないでしょう。』

などと書かれていた。
 兵庫県が初めて制定したということも、初めて知ったし、当時は55歳以上が対象だったという。そんな時代だったのである。
日本だけではなくて、アメリカでもカナダでも、同じ趣旨の日はあるようだ。



★ これは『敬老の日』とは直接関係はないのだが、『結婚50周』の年にアメリカに遊びに行ってた時に、娘が撮ってくれた写真である。

 

 カラー写真なのに、わざわざ白黒のこんな写真にして額縁を創って贈ってくれたので、ゴルフの優勝カップなどと共に飾ってある。

  


 一番手前にある 『I Love MIKI』 のカップは、今行っている三木のスポーツジム・ランニングギャラリー・プールに75回行けば一つ頂けるもので、いま4個あるからもう300回も行っていて、もうすぐ5つ目が頂けることになっている。

家内はこの秋は、結婚以来初めて病院の検査など受けたりはしているが、お蔭様で、二人とも結構元気なのである。

 
なぜ『敬老の日』など思い出したのかというと、家内がスーパーで結構いい肉を買ったりするので、
何思って?』と聞いたら『敬老の日だからすき焼きをする』というのである。
確かに、二人で『高齢を祝う』のはいいのかも知れない。

すき焼き』は孫が来た時以外、二人ではしたことなどないのだが、
今夜は『すき焼き』を食うことになる、結構『元気な高齢者』なのである。



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チェリーヒルズクラブ と 田崎雅元さん 

2019-09-15 06:33:25 | 発想$感想
★昨日は『日本女子プロオープン at チェリーヒルズゴルフクラブ』なるブログをアップしている。

その中にも書いているが、家から近かったこともあるし、何度もプレーしたゴルフ場で、4月の桜の時期には、大学の野球部OB会のコンペをやったので絶好の時期のチェリーヒルズを知っているのである。

そのほかに、カワサキの単車事業部関連でも何回かゴルフコンペがあって、
確か、田崎雅元さんが何かをやったゴルフ場だった』ことまでは覚えているのだが『それが何だったのか』が思い出せなくて、ブログを書きながらいろいろ考えたのだが、思い出せなかったのである。

 ブログを始めた2006年9月以降のことなら、『〇〇〇〇〇雑感日記』と検索したら殆どのことは現れるのだが、それ以前のことは、日記で探し出すぐらいしかその術がないので、日記で調べることでもないと諦めてしまったのである。




★ 昨日、田崎さんから、突然メールを頂いたのだが、こんなメールだった。

古谷さん、貴方のチェリーヒルズ紹介ブログを読みました。
とても想い出のあるゴルフ場です。1996年2月12日、マーケティングミーティングで世界の販社トップを集め大コンペを開催しました。プリンスコースNo4で、私の国内初の
ホールインワンが出て大騒ぎになりました。
新年度の素晴らしいスタートで、幸先良しと意気軒高、お祝いは高くつきましたが、100万円の保険のバックアップもあり、楽しい思い出になりました。 ・・・・・
私のグッドタイムスです。    チェリーヒルズ様様でしょうか?』

そうだ、『ホールインワン』だったのである。
当時は私も国内の販売の責任者だったので、そのコンペは私も出場していたのだが『優勝だったかな?』とも思ったのだが『ホールインワン』とは気が付かなかったのである。
 頂いた『記念品』も忘れてしまったが、結構『いいもの』を頂いたこと、それを『100万円のホールインワン保険』が使えたという話は、聞くと思いだすので、人間の記憶は頼りないものである。


★1990年代は、川崎重工は大庭浩さんが社長、髙橋鐵郎さんが副社長、田崎さんはCP事業本部長時代で、みんな私のお友達のような親しい先輩、仲間たちが、川重の中枢を占めていて、私の担当していた国内市場も7万台の大目標を達成し、鈴鹿8耐にも初優勝するなど『絶頂期』と言われた時期で、大庭さんに指示されて、川重関連会社の全社長さんや川重全役員を前に『国内市場の独特の市況展開説明』などもした私としても絶頂期だったのである。

1996年には田崎さんは川重常務、97年には専務取締役CP事業本部長として、建機 精機 汎ガス 遅れて ロボット 事業を統括していた時代だった。


★いま思い出しても、いい時代だったなと思うのである。

田崎さんは、その後、川重社長になられたりするのだが、私と田崎さんの関係は、『私が1年先輩』だったこともあって、あまり職位などには関係なく、『いい関係』がその当時も続いたし、『同じような不意議な関係』が当時から20年以上経った今も続いているのである。

 私も田崎さんも、朝鮮・満州の大陸育ちで、ちょっと異質なところがあって、ある口の悪い後輩たちは『古谷・田崎は日本人じゃないから』と何事にも『物怖じしない』対応を評したりしていたのである。

田崎さんと『本音で付き合えた』のは、早く亡くなってしまったが『岩崎茂樹』を入れた『この3人』かも知れない。
川重の社長などになると、周囲がそのように、仕立ててしまうところがあるようだが、私と田崎さんの関係はずっと『若い頃のいい関係』そのままで続いている。

 

これは極々最近の写真だが、
岩崎茂樹さんのご縁で繋がった登山道夫さんとも
気軽に写真に納まってくれる田崎さんなのである。

  
   
 
 ご縁があって、今でもずっとメールのやり取りはあるのだが、
私は、しょっちゅう田崎さんのこと、このブログでアップしてるし、Facebook にも転写するので、結構私の友達は『田崎さんのこと』ご存じなのである。

 お互いもう80代だから、いつまで続くのかはよく解らぬが、70歳代に何年も病気で寝ていた田崎さん、突然、生き返って今はゴルフもなさるほどの回復ぶりで、会うと『昔通りの田崎節』なのである。

 ゴルフは私のほうがちょっとだけ上手かったが『ホールインワン』はしたことがない。
 お互い、いつまでも元気で、生きていたいものである。
 

 
 


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頂き物   雑感

2019-09-14 21:17:00 | 私の生き方、考え方&意見
★ こんな立派な梨 『二十世紀』が届いた。

 豊岡の青木隆さんから頂いたものである。

 


 


 いま旬の季節の梨なのだが、
 特に、『頂くようなこと』は何もしていないのに、誠に恐縮なのである。


 日本では『お中元・お歳暮』など、その時期、時期に贈り物をする風習があって、
現役時代には、そんな時期にはいろいろと贈り物を頂いたりはしたのだが、それは会社でのいろんな関係のあった取引先の方が殆どだったのである。

私自身は、逆にお中元やお歳暮などの贈り物をしたことは『仲人さん』以外には一切なくて、どうも贈り物をするのが『性に合わない』のだと思う。
人に贈り物をするよりは、その人にために『何かをする』ことのほうに熱心なのである。

 人間関係の良さを保つには、常に貸しが借りを上回るようなお付き合いの仕方がMUSTだと思っていて、『貸し>借りの形』を崩さないことだと思っている。

定年退職をして、会社などからは一切関係ない生活になっているのに、何となく『贈り物』が届いたりするのが不思議で、
今の生活からは、特に何の貸しを作るような活動は皆無だと思っている。


★ この20世紀を送って頂いた、『青木隆』さんは、ずっと昔から存じ上げている訳ではなくて、カワサキのバイク関係であるのだが、ごく最近のお付き合いなのである。

 『Lime Green Fan Club 』というClub の主催者で、こんなブログもアップされている。

  中味の濃い素晴らしいブログで、まだまだお若いと思っていたら、
 お孫さんもおられる『おじいちゃん』でもある。

 

 
 お会いしたきっかけが、山本隆さんのお店に行かれてバイクを買われた帰りに三木のNPO The Good Times の事務所にお寄りになってお会いしたのが最初である。
 それから何年も立ってはいないのだが、豊岡でも、東京でも、神戸でも、明石でもお会いしているし、勿論三木には何度も顔を見せておられる。

 どこにでも現れる動きは、まさに軽快なのである。



★こんなFacebook もおやりになっていて、 毎日必ずお会いしている。


 

 
 親しくして頂いていることは間違いなくて、Facebook のメッセージで

 『こんにちは!ご無沙汰しています。 例年ならアメリカ滞在の時節でしたね~ 。
敬老の日とは関係ないのですが、 旬を迎えた20世紀梨を本日発送しました。
 秋の味覚をご賞味ください。 まだまだ暑い日も続きますが、涼しくなりまたお会い出来る日を楽しみにしています。  青木より 』 

 とご連絡を頂いた梨が届いたのである。
 多分、青木さんのご両親と私は同じような歳なのである。


 いろんな方から、いろんなものを頂いたりはするのだが、
お返しは一切しない』のが、私の昔からの流儀なのである。
お返し』などしたら、折角のご好意を無にしてしまうと勝手にそう考えてしまうのである。
 
ご厚意』はそのまま頂いて、『貸し<借り』にならぬようなお付き合いに努めるのが、私流のやり方なのである。

それはそうと、ずっと前から青木さんは貴景勝を応援されていて、
私に貴景勝のことを教えて頂いたのも青木さんなのである。
貴景勝のお父さんが、カワサキのライムグリーンのマシンにお乗りのようで、
 そんなことでの繋がりのようである。

   
 
 カワサキファンの方、是非『貴景勝』を応援してあげてください。

 せめてもの青木さんの『ご厚意』に報いるために、
 青木隆さんの幾つかをご紹介するこんなブログをアップして
 『お礼状』に代えているのである。

 青木さん 『二十世紀有難うございました』 美味しかったです。


 
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日本女子プロオープン at チェリーヒルズゴルフクラブ

2019-09-14 06:48:23 | 発想$感想
★昨日の朝、ジムに行く道が不思議なほどの渋滞だった。
 毎日8時半のジムのオープンと同時に来るメンバーが何人かいるのだが渋滞で遅れてきた人もいた。

 なぜかな?
 『多分、日本女子プロ観戦に行くクルマで混んでたのだと思う。
 日本女子プロが行われる『チェリーヒルズゴルフクラブ』はこんな立地で、我が家は廣野ゴルフクラブのすぐ横の緑が丘だから、ホントに近いのである。

 ジムはこの地図で言うと左のほうの『三木山森林公園』のすぐ右手なのである。
 家からジムまでも15分ぐらいだから、チェリーヒルズも、同じぐらいなのである。

   


 ただ、ゴルフ観戦は、一般ギャラリーは『ギャラリー駐車場』にしか止められないので、今回はこんな二つの駐車場に向かっているのだと思う。
 


★それは兎も角、今回は全英オープン優勝の渋野も出るので大人気のようで予選から、大勢の観客が来ているようである。

 三木には25もゴルフ場があって、プロのトーナメントもよく行われるので、以前はよく観に行ったものだが、流石に最近はそんな元気はなくなった。

 チェリーヒルズゴルフクラブは、家からも近いし、何故か何回もプレーしたことがあるのだが、その名の通り桜の木がいっぱいで、4月初旬は誠に見事なのである。

これはゴルフ場のホームページからの写真だが、いまは緑で一杯なのだが、すべてのホールにいろんな種類の桜がいっぱいなのである。






  


 あまりに見事なので、ゴルフ場の方に
 『何本の桜があるのですか?』 と訊ねたら
 『枯れたのもあるかも知れませんが、5000本は植えました』という答えだった。

   入口からクラブハウスまでの、この長いエントリーロードの両側が全て桜で、 
 それは見事な桜並木なのである。



 

 

 そんなゴルフ場での、日本女子プロ選手権なのだが、
 残念ながら、渋野日向子は、まさかの1オーバーで、新記録を伸ばすことは出来なかったようだが、あと2日あるので、頑張って欲しい。

  


 ひょっとして、優勝争いに加わるようなら、
 日曜日に久しぶりに『ゴルフ観戦』でもしようかなと思ったりしている。


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日産西川社長   雑感

2019-09-13 06:25:36 | 発想$感想
★Yahooの意識調査で、日産の西川社長の辞任は妥当か?

 というのがあった。


  


 こんなの聞くまでもない。
 単なる辞任ではダメだなと思った。

 80%の人が『辞任は妥当』と言ってるが、
 10%強の人は『辞任する必要がなかった』と言ってるが、この人たちに感性はどうなっているのだろう?


  


 世の中にはいろんな人が居るのだが、
 私自身はゴーンさんの事件が明るみなった時に、『日産の異常さ』を感じたし、
 とりわけ、西川社長には『いい感情を持てなかった』のである。

 ゴーンさんはいろんなことがあったにせよ、一時は潰れかかった日産を立て直した功労者で、西川社長はゴーンさんが重用した取り巻きの一人だったはずである。

 日産がゴーンさんを訴えたことも、異常だと思ったし、そんな先頭に立った西川社長は、『私は嫌いだった』のである。

人の『好き嫌い』は、結構単純なもので、そんなに理由があったりはしないものである。
 『嫌い』になると何もかも嫌になって、
 西川さんのこんな写真の数々も『好きにはなれなかった』のである。


 ヘヤースタイルも、何か異常な感じだし、品性のカケラも感じられないように思った。



  


 大企業の経営者の中で、『一番嫌なタイプ』であることは間違いない。

 今回の辞任では、多分普通の退職金も貰って辞めるのだろう。
 日産の業績をダメにしてしまったのだから、
 『退職金は辞退します』とぐらい言えばいいのだが・・・・



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山本隆 くん のこと

2019-09-12 06:16:45 | カワサキワールド
★『想い出を共有する人たちを仲間という
 
私の仲間の定義なのだが、いろいろ考えてみて、人生で一番長く付き合っていて、一番多くの想い出を共有している仲間は、
ひょっとしたら『山本隆くん』なのかも知れない。

彼とのお付き合いは、カワサキのライダーとして、私はその契約者として始まるのだが、その頃はまだ単なる加古川の一ライダーだったのだが、全日本チャンピオンになって以降、レースは勿論、いろんなことで繋がっている。

● MCFAJ の全日本でカワサキが初めて優勝
● 東京オリンピックの年伊豆丸の山で、当時の久保・荒井の両巨頭を抑えて優勝
● カワサキが初めて鈴鹿をロードレーサーで走ったライダー
● 星野一義のお師匠さん
● 私が初めて4輪免許を取った時の運転の先生
● 当時のカワサキの諸活動をいろんな形で応援してくれた
● そんなこともあって、私は山本隆の仲人をしている
● カワサキが特約店制を敷いた時、山本レーシングは兵庫最初の特約店である
● 定年後もいろんな活動で繋がって、最初は『どこ竹の竹とんぼ』
● ON ANY SANDA in ANNEX MIKI Park のモトクロス
● NPO The Good Times の立ち上げ&理事さん
● 私の後の理事長を引き受けてくれている



★昨日はひょんなことから、新幹線と並走する『A1/250』に乗る山本隆のこんな写真をブログやFacebook にアップすることになった。


  


 この写真にもいろいろ想い出があって、この写真を私が初めて見たのは、
加古川の山本レーシングを、松澤さんんと登山さんの3人で訪ねた時なのである。

 その時書いたブログの一部だが、
 

 
このブログは、さらに山本隆ファンのKakogawalionyaさんと山本隆さんと私のコメントが延々と続いたのである。

 



その一部をご紹介する。
岐阜羽島の道で、新幹線と並走する写真を撮るための物語が詳しく語られている。


●その写真は見たことありますよ。店に貼ってあったのか?写真を見せてもらったのかを思い出せないのが不思議なぐらいですが、その写真ははっきりと頭の中に残っています。
おっちゃんがこの投稿を読んでいたら、コメントありそうですね。新幹線を徐行してもらう訳にはゆかないでしょうから大変だったでしょうね。                         
2007/8/19(日) 午前 11:41      Kakogawaionya
                                                                                                                                                 
●6枚か12枚綴りのカレンダーになりましたから、張ってあったんだと思います。
岐阜羽島の駅からこだまがスタートするのにあわせて、丁度カメラを構えたところで新幹線のアタマと並ぶようにA1を走らせるのですが、ホントになかなか上手くタイミングが取れずに大変でした。
1時間に1本とか2本しかチャンスがないものですから、逆のこだまにチャレンジするかということになったのですが、これは無理でした。この写真はと説明したには、その時のことを思い出したからです。 山本君は多分このブログを知らないでしょう。                         
2007/8/19(日) 午後 1:20        rfuruya
                                                                                                                          

●何をおっしゃる!岐阜羽島の新幹線カレンダー撮りは、鮮明に覚えています。
先ず明石から星野がA1をライディング、養老サービスエリアから私がバトンタッチ、ランプから加速してミラーを見たら赤色灯が回っていて御用!
そこへカローラのrfuruyaさん到着、カワサキで白バイ云々、彼方は関係ないよ駐禁切るよと一括取り付く島なし。
もう一つは当日富士スピードウエーでジャパンインディーレースが開催されていて、私と星野はテレビを用意してもらう約束で撮影協力、カローラ車中でテレビに見とれて新幹線の数少ないチャンスを逃したりで、二日間の撮影でした。
 今思うとあの時のTV観戦が星野を日本1早い男にした始まりかも?
確か昭和41年だったと思います。                                     
2007/8/20(月) 午後 2:50                      [ 60おじさん! ]                                                                     

●60おじさん!からのコメント、非常にリアルですね。rfuruyaさんの投稿に対して本人からのコメントで、その当時にタイムスリップしたようなライブ感!これがブログの面白いところですね。
それにしてもそんないわく付きの写真(カレンダー)は実に貴重ですが、よくよく考えたら、新幹線と一緒に撮ろうなんて明らかにスピード違反前提の企画ではないですか!
捕まったのは撮影以前ですよね?そのお巡りさん、これから何を撮ろうとしているのか知っていたのでしょうか?それにしても、カワサキはよくやりますね。またカワサキが好きになりなした。
もう時効だと思うので白状しますが、実は私も20年ほど前、殆ど通行の無い山陽自動車道でたまたま新幹線と並んだ瞬間、何を思ったのかつい本気で競争(加速)して新幹線を追い抜いたことがあります。今は本当に安全運転の中年ライダーですのでご安心下さい。                         
2007/8/21(火) 午前 11:37           Kakogawalionya
                                                                                                                            

 ●いや、岐阜羽島の駅は橋の直ぐ東ですから、そこからスタートするこだまのスピードはそんなに早くはないのです。橋を渡りきる、丁度その辺からの加速が微妙でなかなかあわわなかったということです。
100キロ以上で走る新幹線と併走した訳ではありません。
よくこんないいロケーションを探してきたものだと思いました。                         
2007/8/21(火) 午後 3:50                  rfuruya
                                                                                                                                
いろんな想いでの中でも、この岐阜羽島での撮影ロケ、確かに大変だったのだが、
いろんなことがあったので、私もよく覚えている。

 この写真を見て、松浦さんが『金谷さんですか?』とコメントされたのだが。
 山本隆さんがこのようにお答えになっている。
 
          
                         
                         
 確かに、50年前は山本隆も、スマートだったのである。





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浜田光夫と吉永さゆり とカワサキB8T

2019-09-11 06:45:25 | カワサキワールド
★ 昨日、『カワサキの昔話2』の中で、
 昭和39年(1964)の昔々の『浜田光夫とカワサキ』のことを書いたのだが、Facebook にアップしたら、沢山のコメントなど頂いたのである。


 
★まずは、カワサキワールドを担当されている吉田高広さんが
 こんな『浜田光夫と吉永さゆり』がカワサキB8Tに乗ってる写真をアップして、

 『 今年のモーターサイクルフェアで掲示されてました。』
  とコメントされたのである。

   50年以上も前のことだから、浜田光夫も吉永さゆりも若いし、カワサキB8Tもなかなかかっこいい。 B8Tは、125B8をツーリングスタイルにした、カワサキでの『初のスポーツタイプ』のバイクなのである。

  



★これはホントに、いい写真である。
風と樹と空と』 日活映画 と書かれている。
この『風と樹と空と』の映画上映挨拶に、浜田光夫が明石日活に来た時に、
カワサキの明石工場も訪ねて、テストコースで単車にも乗ったりしたのである。

 『ホントにこんな写真、どこから探してきたのだろう?』 
 というのが正直な感想である。

当時カワサキは日活と密接な関係があって、日活映画にはカワサキのバイクはいっぱい登場したのだが、
 こんな日活との関係は、当時の川崎航空機との関係ではなくて、
 『カワサキ自動車販売の広告宣伝課が密接に関係』していて、
 カワサキ自販の広告宣伝課長は小野田滋郎さん、直接の担当は下の名前は忘れてしまったが、下原さんが担当されていて、日活関係は下原さんが取り仕切っていたのである。

ちょうど昭和39年にカワサキは単車事業に本格的に乗り出すことになって、
当時のカワサキ自販の広告宣伝課の業務を川崎航空機の単車事業部の広告宣伝課が引き継ぐことになって、私がその担当となったのである。

   
 
 
そんなことで、川崎航空機の広告宣課は全くの素人の私などでスタートしたのだが、その当初は『小野田滋郎』さんがホントに親身に後押しして頂いたし、
下原さんにもその後何年かは広告宣伝業務を手伝って頂いたのである。
小野田さんは、あのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんなのである。

当時の川崎航空機は、末端ユーザーに車を売るなどという経験など全くなくて、当時の市場は国内だけだったのだが、メイハツやメグロ出身のカワサキ自販の人たちに、ホントにお世話になったのである。
こんな日活との『映画でのタイアップ』なども、『下原さんと日活の関係』がなかったら、実現できていないことなのである。


★カワサキの創生期のレース活動もB8の青野ヶ原のレースがスタートのように語られているのだが、
実際には一つ前のB7の時代に『カワサキ自販』が三吉一行などのライダーでMCFAJの全日本モトクロスに出場しているし、
ヤマハから三橋実を引っこ抜いて『カワサキコンバット』というクラブチームを厚木に創ったのも小野田滋郎さんなのである。

   


当時のカワサキコンバットのメンバー(三橋・安良岡・岡部・梅津)と、
神戸木の実クラブのメンバー(山本・歳森)で構成された、カワサキのファクトリーチームだった。
左から4人目は、まだ契約していない新人時代の星野一義なのである



★もう一つのコメントは、池田賢一さんから寄せられたもので、

映画花咲く乙女たちの台詞に「どや、カワサキ85の乗り心地はよ」聞かれた山内賢が親指を立てて応える。確かラストは山内賢が組を抜ける為、指を詰め、包帯巻いた指で、バイクに乗って去っていくシーンだったと思う
 
というコメントを頂いたりもしたので、『映画をご覧になったのですか?』と聞いたら

私はこの映画のDVDを持っているんですよ。なんと最後は新幹線ひかり号とバイクが並んで走ってるシーンでした

そうだったのか、最近はDVDなどと言うものがあって、映画はどこでも観ることができるのである。

新幹線ひかりとバイクが並んで走るシーン』と聞いて、
カワサキでもカレンダーに使う写真に『ひかりとバイク』を並走させるシーンを岐阜羽島の駅のすぐ西側の長良川の鉄橋の横の道で、ロケしたことがある。
『ひかり』はとても並んで走るところなど撮れないのだが、『こだま』は岐阜羽島駅をスタートしたばかりのところだから、何とか並走場面が撮れたのである。

この撮影に参加してくれたのは、契約ライダーの山本隆と星野一義くんだったのだが、 岐阜羽島駅をスタートしたこだまでもなかなか速くて、バイクとの並走シーンを撮るのに、大変苦労したのである。

 その写真、山本隆くんが持っていた。

  

 『花咲く乙女たち』のロケは、岐阜県尾西市で行われていたから、日活さんも多分この場所で撮られたのではなかろうか?
写真はなかなか大変だったが、映画の場合は動画だから、何とかなったのかも知れない。

★世の中、いろんなことがいろんな形で繋がるものである。
 この二つのコメントを頂いた、吉田高広さんも、池田賢一さんも、定年後お会いした仲間たちで、いろんな形で繋がっている。

 吉田さんは、カワサキワールドを担当されていて、『ミニSL』などのイベントを一緒にスタートさせた仲間だし、池田さんは車椅子ながら、びっくりするほど活動的なのである。

SNSの世界では、直接お会いしていなくても、毎日自然に繋がっているのがいい。
何か話題を提供すると、そこからどんどん繋がっていくのである。
もうカワサキの現役を離れてから20年にもなろうとしているのに、
未だに『カワサキ』がそんな仲を取り持ってくれてるのは嬉しいことなのである。

一昨日から、昭和39年(1964)年という50年以上も前の出来事から、いろんなことで、いろんなことが繋がるオモシロい世の中だと思う。
 

 
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台風15号による災害 いろいろ

2019-09-10 07:59:06 | 発想$感想
★台風15号は関東に大きな被害をもたらしてあっという間に去っていった。

 大都会の災害は予想もしないことが起きるものである。

 『台風15号被害』と検索すると、こんなページが現われる。

   




あっと言う間に上陸し、去ってしまった台風だが、大都会での被害は九州などの被害とはまた違ったいろんな大被害を与えたようである。

 



 中でも、ちょっと想像外だったのは、『ゴルフ練習場のネットの倒壊』である。
 それが近隣の住宅を損傷して、想像以上の大被害になっている。

 

ある記事からの抜粋である。

強い台風15号が関東地方に上陸した9日未明、千葉県ではゴルフ練習場のネットが支柱ごと隣接する住宅街を直撃して女性が重傷を負うなど、各地でけが人が出た。
市原市のゴルフ練習場「市原ゴルフガーデン」では午前3時ごろ、ネットを支えていた高さ10メートル以上の鉄製の支柱が複数本倒れた。
ネットとともに長さ約140メートルにわたって隣接する民家約10棟の上に覆いかぶさるように倒れ、住宅内で下敷きになった20代女性が重傷を負った。
「すぐ近くで雷が落ちたような音がした」
近くに住む男性(70)はすさまじい音を耳にした。明るくなって外を見て「あぜんとした」。
被害は想像以上に大きく、多くの民家が被害に遭い、他の支柱に関しても倒壊の恐れがあるとして、周辺の住民は避難を余儀なくされています。

台風などの自然災害は、誰に文句を言うことも出来ず、国や公共機関からの補助があるぐらいだが、
この場合の『修理代や損害賠償はどうなる?』は誰しも思う関心事である。

ゴルフ場は、このような災害による損害賠償のために保険に加入していることが多いようだが、
なぜゴルフ場はネットを降ろさなかったのか、ネットを降ろしていれば今回の事故は防げたと考えられます。』
 とあるように、ホントに何故ネットを下ろさなかったのだろう?


★いずれにしても、被害に遭った人たちは、『損害賠償』して貰って当然のよう気がするのだが、火事の場合は、保証しなくていいように法律で規定があるらしい。

 『火事が隣の家に延焼!火災保険から賠償されず隣家は泣き寝入り?』

 このゴルフ場の場合は、ホントにどうなるのだろうか?



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カワサキ単車の昔話 2

2019-09-09 06:16:08 | カワサキ単車の昔話
★昨日『カワサキ単車の昔話』をご披露したら、皆さんの反応も良かったので、
 あの当時のあまり皆さんご存じない話を。

 これも『J1での富士登山』をやった福田康秀クンも叉絡んでいるのである。

 昭和39年(1961)年の話で、当時のカワサキは日活と身近な関係にあって、日活映画にはよくカワサキが登場していたのである。

 『花咲く乙女たち』 という映画のロケが岐阜県尾西市であったのだが、そのロケにカワサキの車を提供したのだが、若し止まってしまった時のために、サービスを一人つけて欲しいと仰るのである。
 それを福ちゃんに頼んで、私も一緒に現場を見に行ったのである。


 『花咲く乙女たち』 と 
 Google 検索するとこんな写真が現われるから不思議である。 


  
 


尾西市で行われたロケには、当然主役の舟木和夫なども来ていて、日活の映画館が是非舞台で挨拶を、などと交渉していたり、
当時はめちゃ有名だった『喜劇俳優堺俊二』の息子の堺正明も下っ端で来ていて『堺俊二の息子』も出てるなどと思ったりしたのである。

    

 
現地では特に何もなくて、当時の日活の笠井プロデユーサーに映画界の話などいろいろ聞いたりして、福ちゃんと二人、いい旅館に泊めて頂いて、違う世界を経験したりしたのである。


★そんな日活との関係が続いていた昭和39年(1961)だが、
 たまたま明石日活に『風と樹と空と』という吉永小百合・浜田光夫主演の映画上映があって、『浜田光夫が挨拶に来ている』という話を聞いて、

   

 
突然、明石日活に行き、
浜田光夫に『明石工場に来ませんか?』と誘ったら、『お伺いします』と仰るのである。
   
 

    

 
この年の7月14日のことだが、
当時の大スター 浜田光夫と松原智恵子がカワサキの明石工場にやってきたのである。

 そんな突然の話だったが、当時の塚本本部長に対応して頂いて、その録音を録ろうとしたのだが、録音器を持ち込むのがほんの少しだが遅れてしまったのだが、
 浜田光夫は、全く自然に『最初の挨拶』から頼みもしないのに『やり直して』くれたりしたのである。
 そんな対応が自然に出来るのは『流石だな』と今でもそう思っている。

 そんな話の後、『テストコースで単車に乗りませんか?』 と言ったら『乗ります』と言われて、テストコースにご案内したのだが、
浜田光夫が来るらしい』とは、いろんなところに伝わっていたらしく、
テストコースはちょうど発動機工場の横だったので、発動機の女工さんたちがラインを離れて、群がって見に来たものだから、発動機のラインが止まってしまったのである。
 当時の勤労部長に文句を言われたりしたのだが、
これは発動機の管理体制の問題で、文句を言われる筋合いはないと思ったりした。

 今思うと、『よくやったな』と思うし、浜田光夫も『よく単車に乗った』ものである。
 どのように『お礼をしたらいいのか?』よく解らなかったが、3万円を謝礼に包んでいる。 3万円か?と思われるかも知れぬが、その年の私のボーナスが6万円の時代なのである。

 浜田光夫には、明石日活の劇場の壇上では、カワサキのバイクの話を詳しく話して貰ったし、広報担当の私としては大満足の出来事だったのである。



★昨日の『J1の富士登山』の話もそうだが、
 『咄嗟の判断』で動くことが大事だな、と思っている。

 この『浜田光夫』の件も、前日に課の女子社員が『浜田光夫が明石日活に来るらしい』という一言で、始まっているのである。
 日活を訪ねた時は、まさか『明石工場にやってくる』とは全く思ってもいなかったのだが、動いてみないとできるものも出来ないのだということは、こんな若い時代に経験できて、 私自身はこんな『咄嗟の判断』で動くことは多いのだが、段々と勘が
よくなって、『実現力』に繋がっていると思っている。

 そういう意味では、『計画』が動きをツマラヌものにしているような気がする。
 企画畑も長かったので『計画』はよく創ったが、その通りにやるので、オモシロくならないのだと思っていて、刻々と世の中は変化するので、その変化に合わせた『計画の修正』が一番大事だと思っている。

 カワサキの創生期は、単車が新しい事業だったこともあって、若い人たちが第1線で『咄嗟の判断』が許されるそんな体制だったので、カワサキ自体がオモシロく育っていったのだと思っている。

 
★そんな昭和39年だったが、『源平芸能合戦』でテレビ出演したのもこの年の8月のことで、この年は『イベント屋』みたいな動きをしている。
 この時も、本社の岩城部長以下が応援してくれて、ホントに当時の川崎航空機はオモシロい会社だったと思っている。

  

 こんなブログに、その『さわり』だけをアップしているが、
 応援団で手伝ってくれたのは、後川重社長にもなった田崎雅元さんである。
 

 オモシロいと思うので、時間のある方は、お読みになって下さい。

 
 昭和39年(1961)は私は29歳、まだ30歳前の若手だったが、いろんなことが出来て、この1年は、結構オモシロい年だったように思うのである。
 川崎航空機という会社自体が『若かった』のかも知れない。


 


 
    


   

 
    
 
  


   

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カワサキ単車の昔話

2019-09-08 07:50:27 | カワサキ単車の昔話
★ いつもFacebook に旧い二輪の写真をいっぱいアップされる
忠幸 松本 (Tadayuki Matsumoto)』さんが、こんな懐かしい写真をアップされた。
  

  

こんなコメント付きである。

カワサキ 本格的に量産体制に川崎航空機工業明石工場では、1960年からエンジンと車体組立を含む二輪単車の一貫生産を開始。
85J1や125B1等のロータリーバルブ車の人気も高まり、...日本全国へと出荷が続きました。 写真は、明石工場から全国に向けて、日野の二段トラックに積み込まれるカワサキオートバイ。


★非常に懐かしいので、その当時のこと『カワサキ単車の昔話』を少し。
 
昭和35年(1960)に明石工場の一貫生産は始まった。
最初に出たのがB7、この車はぜんぜんダメだったのだが、次に出たB8がよかったので、カワサキの単車事業も何とかなったのである。

 この写真の125B1やJ1 は、J1が昭和40年の秋、B1はもう少し後だったと思うので多分昭和42年頃の写真なのだろう。

 85J1はモトクロスでも速かったし、確かこのエンジンをベースに鈴鹿のロードレースにも出場することになったのである。


★私自身が関係したカワサキJ1の想い出としては、
 この車は富士山の頂上まで登ったのである。

 こんなブログにも纏めているが、

松島裕さんがこんな旧いオートバイ誌の記事を見つけて、アップしてくれている。
 


 これは、別に会社の計画でやったのではなくて、
 当時の品証にいた連中が、『JIで富士山に登る』ので、
    費用をちょっと面倒見てくれないかというものだから、
 『成功して頂上での写真を撮ってきたら』 と言うことで始まったプロジェクトなのである。

 私に言ってきたのは福ちゃん、福田康秀クンで、品証のこんな連中が一緒だったようである。
 因みに福田君は昭和46年カワサキに初めて『単車営業』が出来て、
私がそこに異動した時、サービス3人も一緒で、その中の一人が福ちゃんだったのである。

 


 私が『頂上での写真を撮ってきたら』と言ったものだから、
 それは大変だったようで、
 最後はロープで引っ張り上げたなどと言っていた。

  

 
 富士山山頂での写真である。
  
  

 
今でもお付き合いのある二輪車新聞の衛藤誠さんにお願いして、
オートバイ誌と二輪車新聞の記事にして貰ったのである。
 上の松島さんの写真はサイクリストさんのようだが、当時は二輪雑誌はオートバイとサイクリストの2誌だけの時代なのである。

当時はレースも担当していたので、このJ1はレース職場で松尾勇さんがエンジンをチューンし、モトクロスタイヤを装着したのだが、戻ってきたときはタイヤはつるつるになっていた。

私も未だ30歳前だったのだが、
こんなことを上にも相談など一切せずにどんどやっていた、
そんな雰囲気が当時のカワサキにはあったと思う。


  


★さて、松本さんが紹介された二輪運搬の専用車だが、
ここに書かれているロゴ『カワサキオートバイ』も私にとっては非常に懐かしい想い出なのである。

  

 国内でカワサキが一番最初に創ったロゴなのである。
 
当時私はカワサキの広告宣伝課を担当していて、びっくりするような予算1億2000万円も持っていたのである。
 
その広告宣伝をするうえで、一番根幹になるのが『カワサキ』というロゴなのだが、潤沢な予算を持っていたので、広告代理店の大広さんが、オリンピックのポスターなどデザインした『亀倉雄策さんに頼みましょうか』と言われるので一度はOKしたのだが、そのデザイン料が7000万円だと聞いてびっくりして止めてしまったのである。

広告宣伝の考え方は、同じ文字数のデザインでも、その骨格になる『カワサキ』などの場合は、それなりに高くて、会社の商標などは、大体1億円が相場のようなのである。

そんなことでこの『カワサキオートバイ』のレタリングはカワサキにいたデザイナー榊栄一郎くんの作だから、費用は1円も掛っていないのである。
こんな裏話を知ってるのは多分私だけである。


★私は広告宣伝の後、昭和42年(1967)からは、東北仙台に『仙台事務所を創れ』という社名を受けて、それこそ一人で仙台に異動したのだが、
当時は『実用車のカワサキ』時代で東北6県が一番多く売っていたのである。
 
当時の二輪の運搬は、この写真にあるような専用車で各県の代理店に配っていたのだが、1台のトラックに6~70台積めるので各県の幾つかの代理店に配り歩いていたのである。
 
東北6県は想像以上に広くて仙台から隣の盛岡までが200キロ、盛岡から青森が200キロなのである。 因みに神戸から名古屋がちょうど200キロで、兵庫・大阪・滋賀・岐阜・愛知と5県にまたがっていることからも、その広さはお解り頂けると思うのである。

 そんな広大な東北で、大きなトラックで、順次台数を下ろしながら配送するのは極めて非効率なので、仙台に事務所を創りそこに倉庫を創って、東北6県には20台積みの小型トラックで配送するようにしたのである。
日本で一番売っていたのが岩手カワサキだったから、盛岡には専用車が直送することもあったのだが、他県は専用車一車分の台数を引き受けるところはなかったのである。
それでも、夏の最盛期には毎日明石から専用車が来るほど、当時の東北は台数を売るのは『日本一』だったのである。

仙台事務所は別に『運送屋』だけをやっていたわけではないのだが、久しぶりにカワサキの専用車の写真を見たら、遠い昔を思い出したのである。

★そんな『実用車のカワサキ』時代も、昭和44年(1969)年頃までで、1970年代には『中大型のスポーツのカワサキ』に変身したので、
1971年からは私は日本で一番売れていなかった大阪地区の担当に異動して1973年には日本で初めての特約店制度をスタートさせたし、同じ年Z2が上市されて、文字通り『スポーツのカワサキ』がスタートしたのである。

松本さんの専用車の写真を見て、
懐かしい旧い時代の昔話』を想いだした次第である。

 
 
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クロマグロの稚魚3000匹が1匹に?

2019-09-07 10:23:44 | 発想$感想
★ こんな記事が載っていた。

 


 青森市の水族館で、3000匹もいた クロマグロの稚魚 が1ヶ月の間に次々死んで、とうとう1匹になってしまったというのである。

 その記事の一部抜粋である。
 
同水族館によると、5日には残り4匹だったが、6日朝までに3匹が死んだという。
大部分の稚魚の死因は
壁に衝突して顎を負傷し、餌を食べられなくなったことにある」と推測。
「最後の1匹は顎にけがをしておらず、餌の食い付きもいい。水温管理を徹底しながら、成長を見守りたい」と話した。

 確かに海にはガラスの壁などはないから、
 初めてのそんな『ガラスの壁に激突する』のは思い当たる節がある。


★これは我が家のメダカの小さな水槽だが、家で生まれたメダカの仔どもを初めて水槽に入れた時は、みんなガラスのところにアタマをつけて泳ぎ回るのである。

これは3日ぐらい経っていて、少しは環境に慣れたところなのだが、
それでもガラスにアタマをつけて泳いでいる。

 
 

 もっと大きな水槽で勢いよく泳いできたマグロの稚魚が突然ガラスにぶち当たって、『口を怪我する』など、思わぬ出来事だとは思うが、今後は対策をした上で育てて欲しいなと思うのである。
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安全運転  雑感

2019-09-07 06:32:50 | 発想$感想
★車の免許を取ったのが30歳の頃だから、もう50年以上車の運転はしている。

 カワサキの二輪車関係に従事し、国内の販売関係を担当した時期も長かったし、レースなども担当したし、海外市場にも関係があって、世界をレンターカーを借りて走り回ったりしたものだから、その走行距離は普通の方よりはだいぶ長いのではと思う。

 東北や北海道を担当したりしたので、1回の走る距離は100キロを超えることは普通で、500Kmぐらいを1日で走ったりするのは、そんなに珍しくはなかったのである。

運転自体が好きだし、86歳になった今も、短い距離ではあるが、車を運転する毎日なのである。
 最近の運転は特に『安全運転』には徹していて、違反行為などは全くしないと言っていい。

若い頃は、『違反行為』などしなかったとは言えないのだが『事故歴』は一切ない。

カワサキの安全運転本部長になって以来は『違反も皆無』だし、ずっとゴールド免許を頂いているからもう30年以上も続いている。


★ 車の安全運転について言うなら、運動神経などよりは、『性格』が一番関係するのではと思ったりしている。

 会社の業務で運転することが多かったので、当時会社で『運転適性検査』なるものを実施したりしたのだが、私自身は、この適性検査の最高点に近い点数を頂いたりして、これは頭脳とか技量とかではなくて『性格』が安全運転にあっているのだと思っている。
せっかちのくせに、決してイライラしたりはしないし、長時間同じ作業を継続することなど、得意分野なのである。

なぜ今更『安全運転』など、と思わるかも知れぬが、事故など一瞬のことで起きるのだろうから、こんなことをアップすること自体が、自分自身の運転に幾らかでも寄与するのではないかと思ったりしている。

 『安全運転』で私自身が非常に役に立っているというか実行していることで、お勧めしたいことの中から、
ただ一つ上げるなら『ブレーキは直線上でしか使わない』ように走ることである。
 
どんなカーブでも『カーブ上はアクセル』に足を置いている。 
車でも二輪でもアクセル状態が一番安定していているのだから、危ないカーブは、車が安定するアクセル状態が一番安全なのである。
 
そんなこと?』と思われる方が多いと思うが、カーブでアクセルに足を置けない方は、『カーブに入る前のスピードが速すぎる』のだと思う。

カーブの前の直線で、『ゆっくりカーブに入れるような速度』まで落とさないからカーブに入って、ブレーキに足がいったりするのだと思う。


レーステクニックでも、カーブは『スローインファーストアウト』なのである。
公道上はレースではないのだが、カーブに入る前の直線でブレーキを踏んで、十分に速度を落とし、『ゆっくりした安全な速度=アクセルを踏める速度』カーブに入ること お勧めなのである。


★ こんなことを『安全運転』のためにやっているのだが、
 今まで『事故皆無』で来られたのには『』もあったのだろう。

 そんな『』を呼び込んでいるのは『お守り』かなと思っている。

 私の車にはこんなお守りが二つぶら下がっている。


   

 
こちらは、カワサキで安全運転を現場でも長く指導された『平井稔男』さんに頂いたもので、長く車についている。
平井さんは私と同い年なのだが、カワサキの安全運転コースの初代の責任者が平井稔男さんなのである。
そんな方に頂いたお守りだから、これは『特別だ』と思っている。


  

 
もう一つは今年、
吉田純一さんに頂いた『オートバイ神社』の『開運厄除』のお守りなのである。

   
 
 これも「オートバイ神社」という安全運転には密接に関係あるお守りだから、
 ご利益があって当然と信じているのである。


 これもご縁だが、平井さんとは一番長いと言ってもいい旧友だし、
 吉田純一さんは、今は業界を代表する偉いさんだが、
 カワサキ時代は『平井門下生』なのである。

そんなカワサキ時代の仲間から頂いたお守りのお蔭で、
これからも『安全運転』が続けられるように頑張りたいと思っている。


 
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御坂サイフォン  雑感

2019-09-06 15:02:55 | 発想$感想
★ 昨日に続いて、三木防災公園の中を走ってきた。

あまりご存知の方は少ないと思うが、公園の中にこんな疎水が流れている。
 
 延々と20数キロを流れてきた水で、防災公園の中を通り、私の住んでいる緑が丘町の下を通って、廣野ゴルフ倶楽部の南側の池のほうに繋がっているようだ。

  
 



 こんな急な坂を水は登ってくるようだが、そのあたりを動画に撮ってきたので、ご覧ください。
 






★『御坂サイフォン』・『淡河川・山田川疎水』などと呼ばれて、




 東播の水田の水として供給されているようだ。




Google で検索した説明文の抜粋だが、

淡河川疏水の一部をなし、山から谷を渡って川を越え、向かいの山へと水を運ぶ石造アーチ橋で、竣工当時としては画期的な事業であった。 
逆サイフォンの肝となる鋼管の全長は約752mに及び、三木総合防災公園の下を芥子山隧道で通り抜け、山田川疎水と合流し播磨平野に至る。 
  • 長さ:約26.3km
  • 始点:兵庫県神戸市北区木津川
  • 終点:兵庫県加古郡稲美町
米作への転換の目的で新たな農業用水が必要となり、明治21年に淡河村木津から淡河川疏水工事に着手、3年4ヶ月を費やして明治24年4月に完成する。設計は、内務省技師の田辺義三郎と横浜水道の計画・建設者であるイギリス人ヘンリー・S・パーマーが担当した。

とある。

 御坂サイフォン橋は有名だが、水はこの橋の中を通って、防災公園まで登ってくるのである。



  

 創られた時代が明治時代、今と違って機械もそんなになかった時代だから、主として人力でやり上げたのだが、昔の人は偉かったなと、ホントにそう思うのである。

 
 
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三木防災公園 を走ってきた

2019-09-06 06:26:59 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
★木曜日は体育館の休館日でジムはお休みである。

 どうしようかなと迷ったのだが、9月も5日だし久しぶりに「三木防災公園の周回路」でも走ってみるかと出かけていたのである。

 スマホで撮った写真がパソコンに取り込めて、ブログにアップできるかどうかも確かめたかったのも、もう一つの目的だった。

 9月に入って幾らか朝のうちは大丈夫かなと思ったが結構暑かったが、8時過ぎから約1時間、スロージョッギングと50メートルダッシュを何本かやったら、4キロ・6000歩と表示されている。

 以下はもう一つの目的だったスマホの写真がパソコンに取り込めて、ブログにアップできるかどうかのチェックの結果なのである。

 
 この前の駐車場に車を止めて
  

 
 こんな周回路をスロージョッギングでスタートした。





 サッカー場の周りの緩やかな坂道を下って、



 こちらは逆に緩やかな登りである。



 ここまでくるとほぼ1周、約1.8キロぐらいで、




 ここまで戻ると1周である。
 そのあとこの芝生の上でダッシュして、
 もう一周、今度は逆回りを1.8キロ走ったら、合計で6000歩・4キロと記された。
 


 流石に走ってる人は未だ少なくて、夏草がいっぱいに生えていたが、あちこちで草刈り作業が始まっていた。

 広いからすべてを綺麗にするのは大変だが、多分10月には綺麗な防災公園が戻ってくるのだろう。

 汗いっぱいになったが、外を走るのも気持ちがいいものである。
 これからは、週に何回かお世話になるだろう三木防災公園である。


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