★ いつもFacebook に旧い二輪の写真をいっぱいアップされる
『忠幸 松本 (Tadayuki Matsumoto)』さんが、こんな懐かしい写真をアップされた。
こんなコメント付きである。
カワサキ 本格的に量産体制に川崎航空機工業明石工場では、1960年からエンジンと車体組立を含む二輪単車の一貫生産を開始。
85J1や125B1等のロータリーバルブ車の人気も高まり、...日本全国へと出荷が続きました。 写真は、明石工場から全国に向けて、日野の二段トラックに積み込まれるカワサキオートバイ。
85J1や125B1等のロータリーバルブ車の人気も高まり、...日本全国へと出荷が続きました。 写真は、明石工場から全国に向けて、日野の二段トラックに積み込まれるカワサキオートバイ。
★非常に懐かしいので、その当時のこと『カワサキ単車の昔話』を少し。
昭和35年(1960)に明石工場の一貫生産は始まった。
最初に出たのがB7、この車はぜんぜんダメだったのだが、次に出たB8がよかったので、カワサキの単車事業も何とかなったのである。
この写真の125B1やJ1 は、J1が昭和40年の秋、B1はもう少し後だったと思うので多分昭和42年頃の写真なのだろう。
85J1はモトクロスでも速かったし、確かこのエンジンをベースに鈴鹿のロードレースにも出場することになったのである。
★私自身が関係したカワサキJ1の想い出としては、
この車は富士山の頂上まで登ったのである。
こんなブログにも纏めているが、
松島裕さんがこんな旧いオートバイ誌の記事を見つけて、アップしてくれている。
これは、別に会社の計画でやったのではなくて、
当時の品証にいた連中が、『JIで富士山に登る』ので、
費用をちょっと面倒見てくれないかというものだから、
『成功して頂上での写真を撮ってきたら』 と言うことで始まったプロジェクトなのである。
私に言ってきたのは福ちゃん、福田康秀クンで、品証のこんな連中が一緒だったようである。
因みに福田君は昭和46年カワサキに初めて『単車営業』が出来て、
私がそこに異動した時、サービス3人も一緒で、その中の一人が福ちゃんだったのである。
私が『頂上での写真を撮ってきたら』と言ったものだから、
それは大変だったようで、
最後はロープで引っ張り上げたなどと言っていた。
富士山山頂での写真である。
今でもお付き合いのある二輪車新聞の衛藤誠さんにお願いして、
オートバイ誌と二輪車新聞の記事にして貰ったのである。
上の松島さんの写真はサイクリストさんのようだが、当時は二輪雑誌はオートバイとサイクリストの2誌だけの時代なのである。
当時はレースも担当していたので、このJ1はレース職場で松尾勇さんがエンジンをチューンし、モトクロスタイヤを装着したのだが、戻ってきたときはタイヤはつるつるになっていた。
私も未だ30歳前だったのだが、
こんなことを上にも相談など一切せずにどんどやっていた、
そんな雰囲気が当時のカワサキにはあったと思う。
★さて、松本さんが紹介された二輪運搬の専用車だが、
ここに書かれているロゴ『カワサキオートバイ』も私にとっては非常に懐かしい想い出なのである。
国内でカワサキが一番最初に創ったロゴなのである。
当時私はカワサキの広告宣伝課を担当していて、びっくりするような予算1億2000万円も持っていたのである。
その広告宣伝をするうえで、一番根幹になるのが『カワサキ』というロゴなのだが、潤沢な予算を持っていたので、広告代理店の大広さんが、オリンピックのポスターなどデザインした『亀倉雄策さんに頼みましょうか』と言われるので一度はOKしたのだが、そのデザイン料が7000万円だと聞いてびっくりして止めてしまったのである。
広告宣伝の考え方は、同じ文字数のデザインでも、その骨格になる『カワサキ』などの場合は、それなりに高くて、会社の商標などは、大体1億円が相場のようなのである。
そんなことでこの『カワサキオートバイ』のレタリングはカワサキにいたデザイナー榊栄一郎くんの作だから、費用は1円も掛っていないのである。
こんな裏話を知ってるのは多分私だけである。
★私は広告宣伝の後、昭和42年(1967)からは、東北仙台に『仙台事務所を創れ』という社名を受けて、それこそ一人で仙台に異動したのだが、
当時は『実用車のカワサキ』時代で東北6県が一番多く売っていたのである。
当時の二輪の運搬は、この写真にあるような専用車で各県の代理店に配っていたのだが、1台のトラックに6~70台積めるので各県の幾つかの代理店に配り歩いていたのである。
東北6県は想像以上に広くて仙台から隣の盛岡までが200キロ、盛岡から青森が200キロなのである。 因みに神戸から名古屋がちょうど200キロで、兵庫・大阪・滋賀・岐阜・愛知と5県にまたがっていることからも、その広さはお解り頂けると思うのである。
そんな広大な東北で、大きなトラックで、順次台数を下ろしながら配送するのは極めて非効率なので、仙台に事務所を創りそこに倉庫を創って、東北6県には20台積みの小型トラックで配送するようにしたのである。
日本で一番売っていたのが岩手カワサキだったから、盛岡には専用車が直送することもあったのだが、他県は専用車一車分の台数を引き受けるところはなかったのである。
それでも、夏の最盛期には毎日明石から専用車が来るほど、当時の東北は台数を売るのは『日本一』だったのである。
仙台事務所は別に『運送屋』だけをやっていたわけではないのだが、久しぶりにカワサキの専用車の写真を見たら、遠い昔を思い出したのである。
★そんな『実用車のカワサキ』時代も、昭和44年(1969)年頃までで、1970年代には『中大型のスポーツのカワサキ』に変身したので、
1971年からは私は日本で一番売れていなかった大阪地区の担当に異動して1973年には日本で初めての特約店制度をスタートさせたし、同じ年Z2が上市されて、文字通り『スポーツのカワサキ』がスタートしたのである。
松本さんの専用車の写真を見て、
『懐かしい旧い時代の昔話』を想いだした次第である。