★ 『7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代』と題して、
『私の生き方、考え方&意見』というカテゴリーで、1990年代のことを書いてみる
と言ってしまったのだが、これからどのように進めたらいいのか? ちょっと困ってしまっているのである。
普通なら『時系列』に並べていけばいいのだが、『私の生き方、考え方&意見』というカテゴリーで、当時の私自身の発想などがベースなので『書くことが多すぎて、何からスタートしたらいいのか』迷ってしまっている。
この時期に限らず、現役40年間の記録は結構きっちり残っていて、当時がどんな時代で、何を考え、何をしてきたのかはほぼ正確に解るのである。
★ 父から特に多くのことを言われたわけではないのだが、
『男は自分の言ったことには責任を持て』と言われたことが、何故か心に残っていて,
ちゃんと責任を持つためには、自分で言ったことは『紙に書いて残す』のが一番だと思っていて、現役時代の自分の言ったことは、殆どが正確に残っているのである。
『7万台への挑戦』というテーマの講演会は冊子になって残っているが、それ以外での発言もいろいろ正規の書類として残っている。
社内でも、いろんな人がいろんなことを言われるのだが、
あとになって『あの時言った意味はな』などと言い訳するようなことも多いので、私はそんな訂正が出来ないように『紙に書いて残していた』のである。
もし間違ったら『間違っていました』と素直に謝ればいいと思っていた。
『そんな生き方』は、今も同じように続いている。
★ この時代の『7万台への挑戦』がスタートしたのは、1988年10月1日からなのだが、昭和で言えば最後の年昭和63年で、3か月後には平成が始まっていたのである。
そのスタートダッシュの時期は、ざっとこんなことをやったと纏められているが、
今見ても、大きな課題に取り組んでいるなと思うし、新会社ケイスポーツシステムも半年後の4月には設立されているのである。
私は少々大きな仕事でも『半年で目途は立つ』と思っていて、『半年で出来ないものは10年経っても出来ない』と思っていて、何事も一応は半年目途で対策することにしている。
ユーザークラブKAZEもこの時期に、KSSで本格的に取り組み、その会員カードは『JCBカードを使用することにしている』のだが、このことがホンダ・ヤマハ・スズキの各ユーザークラブが消滅する中で、ひとりKAZEだけが、30年経った今でも存続している理由なのだが、お解りになりますか?
流通業とは「自分の仮説の正当性を問うビジネス」と言われていて、当時私の建てた仮説が正しかったという証左なのだが、
その具体的な理由などはまたの機会に。
兎に角、『アタマを使って考える』
そんな『ソフトの分野』やそこから生まれる『新しい仕組み』こそが
利益の源泉だと考えていたのです。
★88年10月に『レースでも頑張る』と宣言してスタートしているのだが、
半年後の『鈴鹿4時間・6時間耐久』を優勝で飾っている。
その6時間耐久のライダーは、今でもFacebook でお付き合いのある当時はジュニアだった北川・鶴田組だったのである。
北川圭一は世界チャンピオンになったりしているが、京都の吉川健一くん(ヨシケン)に頼まれて、チームグリーンに私が紹介したのだが、長くレースは関係があったが、ライダーを紹介したりしたのは北川くんが最初で最後なのである。
そんなことで立派になった今でも当時と同じように付き合ってくれるし、鶴田竜二くんも二輪業界で成功されているが、今でもFBに毎日のように『いいね』を頂いているのである。
★ 私は、極端に『せっかち』でもたもたしてるのは嫌いだから、
この1988年10月に国内市場を担当しその1ヶ月目も相当精力的に動いている。
そんな記録もちゃんと残っていて、その1ヶ月がどんなものだったか、
明確に解るのである。
10月1日から国内担当なのだが、その日は『オリンピック閉会』などと書いているが、これは『ソウルオリンピック』にジェットスキー・チームでの参加をオリンピック委員会から要請されて、開会式の当日漢江でデモンストレーションを行ったのだが、その団長としてソウルを訪問していたのである。
『家も見れたのは印象的』とあるのは、戦前子供の時に住んでいたソウルの家を見に行ったら、見つけることが出来て写真を撮ってきたりしたのである。
だから、国内の販社担当は実質2日からだが、
この月もざっと見るとやらねばならぬことは殆ど全てこなしているし、
全国を飛び歩いて忙しく過ごしているのである。
この中で特筆すべきは、15日に一泊どまりで行った
『竹園ホテルでのレースOB会開催』である。
こんな会合を最初のイベントとして開催したのは、今後のカワサキのレース活動を本格的にやるという『私の決意表明』みたいなものだったのである。
そんな意気込みを25年前のレース創生期を担当した錚々たるメンバーに、
明確に表明したかったし、二輪車新聞の衛藤さんも招いて、記事として全国に報道されたのである。
これくらい大きくやり且つ新聞記事などにすると、と中途半端なレース活動など出来ないので、自らをそんな立場に追い込むのが『私自身のやり方』なのである。
その時集まったメンバーだが、
こんなブログにもアップしたので、ご覧になった方もおられるだろう。
既に、この世を去られた方も多いのだが、
今も尚、ネットなどを中心に繋がってる人たちも多くて、
『私自身の生き方』のベースは、どんな方とも『お付き合いのあった時代のままに』お付き合いすることをモットーにしていて、ここにお集まりも方たちも、社会的な地位の高くなられた方や、有名ライダーばかりなのだが、ずっと昔のレーススタート当時と同じようなお付き合いが続いていたのである。
Facebook で毎日のようにお会いしている山本隆・多田喜代一・大槻幸雄さんもおられるし、和田も宗和も杉本もいるし、平井稔男さんも、田崎雅元さんもいる。
この日のOBライダーでは星野と清原が一番若くてOBの席では二人が末席だったのである。
★ 人の人生は、その人の実力・努力もあるが、『運かな』と思ったりもする。
私はご縁があって川崎航空機に入社するのだが、3年目に肺浸潤で1年程入院し、退院する時にちょうどカワサキの単車の営業部が出来たのでそんな新しい部門に異動になったのである。 入院がなかったら多分違う部門には異動したような気がする。
これなども『運があった』と思うのだが、
若し単車に行かなかったら、
単車でも担当がレースとか販売第1線でなかったら、
ライダーやレース関係の人とも出会えていないし、販売店の人たちとの出会いもなかったので、
結果的にはこんなオモシロい人生にはなっていなかったような気がするのである。
レースで出会った人たちは山本隆も金谷秀夫も星野一義もみんな超有名ライダーになるのだが、それぞれ持って生まれた才能や本人の努力も勿論だが、何となくそれぞれ『好い運』をお持ちだったと思う。
特に金谷や星野は、彼らの給与が月2万円からのお付き合いなのだが、周囲のライダーたちのふとしたことから、その『デビュー』が待っていたりして、そんなご縁を不思議に思うのだが、私も当時ライダーの契約関連を担当していたので、それをジャッジする立場にはあったのである。
そういう意味では、私自身にも運があったし、何となく私に出会った人たちも好運だったような気もする。
振り返ってみると、私と出会ったというか、密接に関係のあった方たちは、
川重では大庭さん田崎さんと社長になられたし、山田さん、髙橋さん、佐伯さんと3人の副社長もおられるし、成功された方は多いのである。
レース界では、ロードの金谷秀夫、モトクロスの山本隆、4輪の星野一義など、
販売店では、仙台の服部、堺の伊藤、ジェットスキーの福井さんなど、
その若い当時をよく知っているので、不思議なほどの大成功なのである。
定年後、ふとしたことから、KAWASAKI Z1 FAN CLUB の登山道夫さんに出会って、今もいろんなお付き合いがあるのだが、
登山さんがKZFCを作られた時、私も会員になったのだが、
その時頂いた会員カードのNOが、『No. 29』 なので『なぜ?』と聞いたら
『福の神』だと仰るのである。
Kawasaki. Let the Good Times roll !
髙橋鐵郎さんはそれをいつも
『Kawasaki に出会う人たちがハッピーになるように展開します』と言われていて、
何となく Kawasaki を 古谷に置き換えて、
『私に出会う方が、ハッピーになるように行動したいな』とは思っていたのだが・・・
第3話は、こんなところで。