雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

山本隆 逝ってしまった  2

2023-10-19 08:23:20 | 発想$感想

★ 山本隆さんの息子さんで喪主の山本明さんは
  「故人の遺志により、殿堂入りしたレジェンドらしく盛大に送りたいと思っています。 」と言っておられたが、
  その言葉通りの立派なお通夜だった。

  お通夜には山本隆さんが理事長をしてくれているNPO The Good Times の事務局長の登山道夫さんの車で私と副理事長の渡部達也さんと
  ずっと昔、山本隆宅にいたこともあるというかってのトライアルライダー・山田乙三さんとの4人で出かけた。

 会場にはこんなバイクや


  

 山本隆の生前の写真もいっぱいだったし、

  



  生前彼が関係した諸団体や、著名ライダーなどからの供花が
  多数並んでいて、
  ほんとに大勢の参列者だったし、盛大な著名人らしい会となっていた。


  会の後、こんなメンバーで山本隆の生前を懐かしんだのである。


  


  お通夜には星野一義・宇野順一郎・吉田純一さんなど業界の著名人など、
  本当に沢山の方が参列されていていた。

 今日の葬儀にも私は出席しようと思っている。
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山本隆 逝ってしまった

2023-10-18 14:12:15 | 発想$感想

★ つい先日のことだが、山本隆が入院したというニュースが流れたのだが、
 すぐに元気に退院するだろうと思っていたのに、帰らぬ人となってしまった。

 人生ではいろんな人との出会いがあるのだが、
 私にとっては、山本隆とのお付き合いが一番長かったと思うし、
 その中身も濃いかったのである。
 
 彼がまだ20歳ぐらいの頃にカワサキとライダー契約を結んだのだが、
 その翌年に山本・歳森のBSとの仮契約事件があって、
 その対策に私は駆り出されて、レースの世界に入ることになったのである。

 そういう意味では、今でも何かと関係のあるレースの世界に私を
 導いてくれたのが山本隆なのである。
 そのお陰で、私の人生は非常に豊かなものになったと思っている。

★ その翌年、1966年1月26日に突然、山本隆から仲人を頼まれるのである。
  私自身が結婚したばかりの32歳の頃で、とても仲人などと思ったのだが、
  彼がどうしてもと言うものだから、仲人役を引き受けてしまったのである。
  結婚式は2月27日に明石市の公民館で行われ何とか仲人役も無事果たせて、ホッとしたのを覚えている。
  その頃は、山本隆もまだレース界にデヴューしたばかりの若手ライダーの一人だったのだが、
  その後の活躍は素晴らしく、3年連続全日本チャンピオンの栄にも輝いて、
  ごく最近だがMFJのモーターサイクルスポーツ殿堂入りに輝いたりしたのである。


  


★カワサキでも10年以上の長きに亘って、契約ライダーとして活躍したし、
 引退直後に加古川に『山本レーシング』を開店した時は
 私はたまたま国内担当だったので、その開店にはいろいろと面倒をみたのである。
 彼はMFJのトライアル委員長を永く務めたので、後年大阪で毎年開催されていたイベントには、私と一緒に出席したりしていたのだが、
 私が退職して、NPO法人 The Good Times を立ち上げる際には理事としていろいろと手伝ってくれたりしたのである。

  

 
  その頃のNPO法人の事務所での理事さんたちで、
  私の理事長の後、2代目理事長を引き受けてくれて、
  今年がその最後の年だったのだが、本当に残念なのである。
  

★ 彼は植物に興味・関心があって、
  若しレースの世界に入らなかったら、
  多分、農業関連の仕事をしたと思う。

  これは我が家にある無花果だが、
  昨年、山本隆がその苗を届けてくれて2年目なのである。
  もういなくなってしまったので、
  この無花果を山本隆だと思って大事に育てたいと思っている。
 
  
   
 

★ 今日は18時からお通夜である。
  それまでの時間にこのブログを書いている。

  彼は私よりちょうど10歳若くて、
  今年、まだ80歳のはずである。

  これは昨年11月、カワサキZ50周年記念祭の時の写真だが、
  これが彼の最後の公式行事になってしまった。
  みんな立派になられたカワサキの仲間たちである。


  


  
  この時も元気いっぱいだが、
  私はこの写真が、山本隆らしくて好きである。

  
   



  

  山本隆さん、
  本当にいろいろとありがとうございました。
  安らかにお眠りください。

  18時からのお通夜でお会いしましょう。
   
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FMみっきいのラジオ番組に出演

2023-10-18 05:15:08 | 発想$感想

★ 昨日は7時から三木のFMみっきいのラジオ番組に出演してきた。
 FMみっきいは、三木市役所の建物の中にある、こんな放送局である。
 
 


  テーマは『粟生線の未来を考える市民の会』の
  発足当時の経緯などについて話して欲しいというご依頼だった。

  粟生線というのは神戸電鉄の支線で、
  三木を通って粟生まで行っているのだが、
  ちょっと旧い話だが、2011年ごろに経営難でその廃線が検討されたことがあったのである。


  


 その当時に、三木の市会議員の板東しょうごさんに誘われて、
 『粟生線を残す』ような運動を展開しようとお誘いを受けたのである。
 そんな会合に出席してその後の展開を考えたのだが、
 『残そう会』などにすると賛成する人も勿論いるが、
 逆に廃線賛成の方も出てくるので、
 『粟生線問題を考える会』ということでスタートしメンバーを集めることとして
 その会長に山本篤先生を推したのである。
 すぐに快諾して頂いたのだが、その時、ネーミングを
 『粟生線の未来を考える市民の会』と決められたのだが、
 昨夜はそのことをご本人はすっかり忘れておられたようだった。

★ そのFMみっきいの番組は、私がゲストで、こんなメンバーでスタートした。

 ジーン景虎さんが総合司会で、
 山本篤先生といい音楽@みきのリーダー小巻健さんが質問役で

 私がそれに答えるという30分番組だったのである。

  

  
★番組の間には私の推薦曲・石原裕次郎の『勇者たち』が流れたりした。

 
  

  『なぜこの曲を』というご質問もあったのだが、
  石原慎太郎が私の1つ上、裕次郎が一つ下で、
  私の大学時代のデビュウーなのだが、そんな同じ年代だったので、
  何となく推薦曲としたのである。
  
  
★ 何の予行演習もなく、ぶっつけ本番だったのだが、
 私は、こんなことには結構慣れていて、
 何の問題もなくあっという間の30分だったのである。

 話の中心は『粟生線の未来を考える市民の会』がどんな経緯でスタートしたのか、ということだったのだが、
 2011年当時の日記で一応は調べていたので、
 先ずは、間違いない話が出来て
 『バッチリでした』と言って頂いたのである。

 ほんとは板東しょうごさんがこの話の発起人なのだが、
 市会議員という立場なので、出演がムツカシイのかなと思ったりした。

 2011年当時は私も結構三木市のいろんなことに関わっていて、
 板東さんも、小巻さんもその頃の仲間だったし、井上省二さんなども顔をだされていた。

 『粟生線の未来を考える市民の会』の新年会が翌2012年の1月に
 開催されているのだが、こんな写真が残っている。


  


  15名のメンバーが集まるのだが、

 



  勿論、私も参加させていただいた。


 


 あれからもう10年以上の歳月が流れているのである。
 ブログも重宝で、こんな写真が直ぐに現れるのである。
 私にとってもなかなかいい30分だったのである。

★ところでこの放送、昨夜のうちに流れてしまったのかと思ったら
 放送は11月3日夜7時が本放送。
  再放送は11月5日の夕方5時だそうで、まだ先のことのようである。
 それなら私も聞けそうだから、その日に合せてもう一度アップすることにしたい。
 FMみっきい、どの地域まで聞けるのだろうか?

 三木周辺の方は是非お聞きになってみて下さい。


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私の日記から   1955・1956年(昭和30・31年)

2023-10-17 07:14:23 | 自分史

★ 1955年大学3回生である。
  この年あたりは振り返ってみると大変な年だったように思う。
  この年の4月に伯父が脳溢血で倒れている

★ 3年前の1月2日に長年寝ていた父が亡くなって
  それまでは私は高校卒業したら就職するつもりだったのだが、
  伯父が『父の治療費が要らなくなったから大学を受けろ』というのである。
  父は私を大学にやるために1月2日に死んでしまったのかも知れない。
  それより遅かったら大学入試を受ける機会がなかったのである。


  父と伯父は本当に仲のいい兄弟で、父が病気で寝ていたころは多分今の保険もなかったのだろう。
  治療に要るマイシンの注射が1本2000円もしたのだが、
  その費用を伯父は上ノ丸の土地を売ってずっと治療代に充ててくれていたのである。
  まだ土地ブームなどは起こっていない時代で、
  後には1坪100万円もした上ノ丸の土地一坪2000円の頃で、
  かっては2000坪もあった上ノ丸の土地が半分になってしまっていたのである。

★ 伯父は戦前は祖父が創った朝鮮の電力会社を引き継いで、
  確か当時は日本で一番大きかった南鮮合同電力の副社長をしていた財界人だったのだが、
  戦後は朝鮮の資産はすべて失って、
  我が家も朝鮮から引き揚げてきたし、大変だったのだと思う。

  これはまだ戦前の頃の写真だが、
  当時にこんな服装をしていたのである。
  左が伯父で右が父である。

    


  そんな伯父が脳溢血で倒れて
  5月には他界してしまうのである。

  私自身は肺浸潤を患っていたし、
  いま思い返しても大変な環境だったと思うのだが、
  私は病気の体で野球は続けているのだが、とうとう空洞も出来てしまって、
  翌年の4回生の時には、伯父の葬儀の時に来て頂いて
  『卒業してほかに行くところがなかったら、うちにいらっしゃい』と言って頂いていた、
  川崎航空機の当時の副社長の砂野仁さんも、
  今年は不景気で人も取らないから、もう1年卒業を延ばしたらと
  仰るし、
  私も体調がもう一つなので1年卒業延ばすことにしたのである。

★ 1年卒業を延ばしたのだが、
  すでに単位だけは取れていて、新たに単位を取る必要もなく
  この年の4月に野球部の部長だった田中教授から『野球部の監督』を依頼されて、それを引き受けることになったのである。

  振り返って考えてみると、呑気なものである。
  ちょっと自分の体調もおかしいから卒業を延ばしたのに
  野球部の監督を引き受けて、結構ちゃんとやっている。
  お陰で秋のリーグには近大に次い2位になったし、
  小山修身投手は当時の学生野球記録53イニング連続無失点を記録している。

  どうも私は人に頼まれたら断れなくて、
  自分のことよりそれを優先してしまうのである。
  そんなことはその後も一生続いている。

★ ただ人には運があると思うのだが、
  『私はホントにツイている』と思っている。

  前年までは極度の就職難の時代だったが、
  この年は一転「神武景気」になって、各社とも大量な人を取ったのである。

  川崎航空機工業も多くの新入社員を採ったし、
  私も砂野さんコネだったから問題なく入社出来たのである。

  これが入社試験の一つ、英語で
  ちゃんと訳せたのかどうかはよく覚えていないが、


  
  


 すぐに 『合格』という電報が届いたし、



  


  こんな正式の採用通知書が届いている。


  
  
 
 こんなものがあったとはすっか忘れいたのだが、
 今回、日記を読み返していたら出てきたのである。

 こんなことで私の学生生活は終わるのだが、
 振り返ってみると、
 小学生時代は卒業時に知事賞に当たる『京城府伊賞』を頂いたし、
 名門・神戸一中でも2年生まではずっと10番以内にいた。
 それが3年生の時に、男女共学になって県一女と一緒になるのだが、
 英語や数学が1年以上逆戻りして、
 勉強する必要がなくなってしまったし、
 高校は学区制で明石高校に転校したら、ここでもまた戻ってしまって
 それ以来は学生時代に『勉強した』記憶はなく
 野球一筋の学生生活だったのである。


★ そんなこともあって、川崎航空機の入社試験の面接では
 『君は成績悪いね』という一言から始まるのだが、
  何の物怖じもせずに「会社の仕事なら人に負けずにやれると思います」
 堂々と言ってのけたのだが、何となくそんな自信はあったのだと思う。
 神戸一中には実は砂野仁さんの勧めで入学していて、
 砂野さんは当時の私の成績はご存じなので、
此奴はアタマは悪くない』と思っておられたのだと思う。
 面接時にも『ところで君は野球をやってたな』と話題を切り替えて頂いたのである。
 
 まあいろいろあったのだが
 一言で言うと『ツイていた』と言える2年間だったと思う。 

 若し、無理して卒業していたら、
 カワサキ以外の会社に勤めることになっていたのである。
 どちらがよかったかは解らぬが、
 カワサキの40年間も、普通のサラリーマンとは全く異なり
 ホントに面白かったのである。
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カワサキ単車の昔話   25    X11に関わった人たち

2023-10-16 04:53:54 | カワサキ単車の昔話
★カワサキのサーキット走行のスポーツ4輪X-11については、何度か取り上げてはいるのだが、
カワサキ単車の昔話』としてこのスポーツ4輪に色々と関わった方たちの話も纏めてみたいと思ている。


  
  

 このプロジェクトは技術本部の提案で『015計画』としてスタートした。
 当時の技術本部長は私と同期の藤川哲三さんで1990年4月23日にその報告会が高橋鐵郎本部長以下当時の幹部全員が出席して開催されたのである。
 私は当時は国内販社を担当していたのだが、新しい4輪販売をどうするかということでメインメンバーとして出席しているのである。
 これがこのプロジェクトのスタートだと思う。

 エンジン開発は約1年の月日を経てほぼ完成し、
 翌年の91年2月には、高橋本部長、藤川技術本部長ほか技術部担当メンバーと私を含めたメンバーで開催され、
 技術本部のレース関連部門と、当時のカワ販の関係会社 株)ケイ・スポーツ・システム(KSS)のレース関連部門とで具体的に推進することが決定されたのである。
 マシンに『KAZE X11』と表示があるのはそんな経緯からである。

 なぜ、販売部門の私が関わったのかというと、
 このマシンを走らせるサーキットが必要でSPA直入もKSSの管理下だったので、
 そこでも走らせたこともあったのだが、いかにも小さすぎて、実験にならなかったのだが、
 その当時カワ販は岡山に完成したばかりの会員制TIサーキット会員権を2枚も所有していたのである。

 そんな4輪の会員制サーキットの会員券をなぜ持っていたのかというと、 
 TIサーキットの初代社長の千々岩さん元ホンダ技研の常務さんだったのだが、千々岩さんに会員権を買ってくれと頼まれたので、
 約1000万円もしたのだが、2枚も買って立ち上がりのご協力をしたのである。
 人に頼まれるとなかなか断り切れない性格なのだが、
 このサーキットは会員制という当時日本でも初めてのシステムだったので、そんなことにも興味があったのである。
 これが結果的には『015の開発』に役立つことになったのである。
 
★当時カワサキの契約ライダーだった多田喜代一くんがFacebook にこんな写真を載せている。
 岡山TIサーキットでの走行風景である。
 
 
 

Kiyokazu Tada
90年初めにカワサキワークス.フォーミュラーマシンX -11。
エンジンはZZ -R 1100のフルチューンエンジン搭載、開発ドライバーは元トヨタ.ワークスドライバーの見崎清志
岡山国際サーキットを36秒台で走ります。僕も試乗させて貰いましたが、シートポジションもそのまま、ペダル位地もそのまま、なかなか走り辛い感じでした。
なれた頃には最終コーナーで大スピン!あわやピットウォールにクラッシュ寸前でした。でも楽しい走行が出来ました。

★ 当時の国内市場はZEPHYR時代で、めちゃ調子もよかったし、
 藤川さんに頼まれて、サーキット走行などいろんな面倒を見ていたのである。
 特に当時は未だ技術部のぺいぺいだったが、このエンジンを担当していた山田浩平くんがオモシロくて、
 そんなことも応援する気になったのである。
 このプロジェクトはKAZEやレースやサーキットなどを担当していたソフト会社  KSSでは、
 その発売を目指して、カタログまで創ったのだが・・・
 何故か販売までには至らなったのである。

 星野インパルの金子豊くんに『星野一義に乗せられないか?』と言ったリもしたのだが、
 星野はブリジストンとの契約があって、ダンロップのタイヤだからちょっと無理と言うことだったのである。

★それにしても、なぜ発売を止めてしまったのか?
 その経緯は、全然聞いていないし、アレだけ熱心に応援していたのに、解らないのが不思議である。
 1台だけ東京の藤木さんが持っていたのだが、FISCOでクラッシュしたと聞いていたのだが・・・・

 その時代カワサキの広告代理店にいたという貴島さん
 退職してから三木のサーキットで会ったりしたのだが、
 彼はFBにこんなことを書いてくれた。

 「かくして古谷さと約15年ぶりの再会とあいなりました。
 古谷さんのイメージは当時、社長室でスーツ姿ビシッと決めておられた姿でしたので、
 ON ANY SANDA当日お会いしたラフな格好の古谷さんは、
 メジャーリーグのウエアに帽子で、ワタシの緊張を解きほぐしてくれました。

 いま私がFBに使っているのは、カワサキの想い出そして未来の時の写真だが、 
 その写真の一番右に小さく写っているのが、確か貴島さんなのである。

 


★ ずっと後のことだが
  カワサキワールドに、KAZE X-11が展示されてるというので、これはぜひ見ておきたいと、登山道夫さんと、青木隆さんとの3人で出かけた。 
 このプロジェクトを当時担当した山田浩平くんから、
 その日の朝、こんなメッセージを頂いたのである。

 「プロジェクトX-11では大変お世話になりました。
 マグネのヘッドカバー がKファンに向けた私のメッセージです。
 現在の世界中のカーマニアが見ても何か感じるものがあると思います。
 開発当時はコストアップだとか執拗に上司からネチネチいわれましたが・・・
 カウルを外して展示されているようですから、
 マグネのヘッドカバーが目立ってよく見えると思います。是非ご覧ください。

 こちらが、山田浩平くんの仰る マグネシュームのヘッドカバーである。
 
    
 


 こんな現物のマシンが展示されていた。


 
 

  山田浩平くんは、Ninja H2R開発者としても有名である。
  私とは今でも毎日Facebook で繋がっている。
  
    

  
 
 
★ こんなKAZE Xー11 の当時のカタログがあったのは、驚きだった。
 これは当時の 株)ケイ・スポーツ・システム が作ったものである。

 

 そして、この『カタログ製作の担当』をしたというのが
 前述の貴島久裕さんなのである。
 
★ FJ1600よりは限りなくF3に近いサーキット走行専用車で、  ZX1100ccのエンジンをベースに160PS/105000rpm、車重409kg, 
 エンジンは当然カワサキの開発陣が関わったのだが、
 サポートしてくれた人たちがまた、かっこよかったのである。

 シャシーは、FJ1600の創始者で鈴鹿のウエストレーシングカーズ社長の神谷さんが直接担当してくれた本格的なものだった。
 このマシンに興味を持ったのは、前述の「TIサーキット」の千々岩さん(元ホンダ技研常務)や国井さん。
 そのテストと評価は、元F3チャンピオンの佐々木さんで、その評価も上々だったのである。
 レース界では名を知らぬ人は居ないほど有名だった、ダンロップの京極さんなどもタッチしてくれている。

 特に、二輪エンジン10,000回転を上回る独特のノイズが何とも言えぬいいムードであった。
 TIをベースにテストは続けられ、川重社内の経営会議決済でも承認され、
 当時の雑誌、カーグラフィックにも記事が掲載され、その評価も至って良く、
 カタログも作って1台800万円ぐらいで売り出すべく準備をしていたのだが、
 何故本格的な発売にならなかったのか、それが解らないのである。
なぜ、発売されなかったのか?だけは解らないのだが、ここに記載したことは間違いない事実なのである。

 いろいろと関係のあった『015計画』Xー11だったのだが、
 何故か陽の目を見なかったのである。
 それにしても2017年だったと思うが、
 何故、カワサキワールドに展示する気になったのだろう?


 

★50万人フォロワーのいるツイッターです。

 雑感日記のEnglish Version です。

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。




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CSシリーズ   雑感

2023-10-15 05:52:25 | 発想$感想

★CS入シリーズが始まった。
 こんな制度が、セ・パ両リーグで実施されるようになったのは2007年だというからもう長いのだが、
 こんな制度をみんな望んでいるのだろうか?

 世の中の評価は賛否半々というか、
 ちょっと反対が多いのである。

 
  


 私などは、シーズンの長丁場を制したチームが必ずしも日本シリーズに出場できないことには、疑問を持っていて反対なのだが
 賛否を年齢別にみると反対は若い人に多く


  



  年齢が上がるごとに賛成が多くなるのだが、
  この傾向も何となく不思議で、
  私などは 逆かなと思うのだが、どうしてこうなるのだろう?


 

 
★ 日本シリーズにどのチームが勝っても
  それはプロ野球チームのことで、
  それを観ている人には直接は関係のない話だから、
  ただ、何度も長くプロ野球を観たいということなのだろうか?

  若い人が反対が多いのは、
  本ちゃんのリーグ戦で130試合も戦った実績を重んずるべきということで、  
  私もその意見なのだが、世の中いろいろと考え方はあるものだ。


★ 今シーズンの成績は、セ・パともに阪神・オリックスが圧倒的に強くてこんな成績で終わっている。

  どちらも10ゲーム以上引き離しての圧倒的な優勝なのである。

  


 こんな状況の中で
 仮に、2位・3位のチームが日本一になったとしても、
 そこが一番強かったとは言えないと思うのだが、
 強い、弱いではなくて、兎に角、長くプロ野球を観たいということかも知れない。

 あなたは、どう思われますか?


ただ、この集計は『CS不要論について』だから
賛否は私が書いてるのと全く逆かも知れない。
若い人のほうが賛成が多いほうが納得できる。



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私の日記   1954(昭和29年)

2023-10-14 05:09:14 | 自分史

★ 私の日記・1954(昭和30年)大学3回生である。
 前年の11月に突然肺浸潤の宣告を受け、そんなことから日記を書くようにもなったのだが、
この年からは当然だが日記帳に書いている。

 
  



  世は吉田茂内閣時代で、不景気で就職難の時代である。
  学生たちは勉強して優の数を一つでも多く取ろうとするのだが、
  これはひとえに就職に有利になるようにということなのである。
  どうもそんなことがイヤで、私は逆に勉強はしなくなってしまった。

  そんなこともあって、この年の日記は『野球のこと』ばかり書いている。


★ この時期には兵庫県では高校のOBチームの大会が新年早々甲子園球場で行われている。
 先ずはこの大会で明石高校と芦屋高が優勝を争い、見事明石が優勝を飾っている。
 そんな写真が日記帳に貼ってある。
 残念ながら『肺浸潤』になったところだったので、
 この時期は大人しく寝ていたので、
 現場に行っていないし、チームにも参加していない。


  

 

 2月にはこの頃は巨人が明石球場で練習してたので、よく見に行っている。
 川上・別所・千葉・宇野の時代で、広岡が新人で巨人に入団した年である。
 新人ながら広岡の守備は見事だった。

 この年の前半6月までは『肺浸潤』のこともあって大人しくしていたのだが、
 病状は安定して落ち着いていた。
 7月になって9か月ぶりにユニホームを着て、大学の練習にも参加するようになった。
 加えて、こちらは準硬式のアマチュア野球だが明石高校のOBチーに参加して草野球を楽しんでいる。
 明石高のOBばかりだから当たり前だが強くて、いろんな大会に勝している。

 9月の秋のリーグ戦に備えた合宿にも参加し、
 3回生だったのだが秋からのキャプテンにも選ばれて、
 秋のリーグ戦はベンチでの指揮を任されるのだが、
 10月19日にはショートで復帰している。

 これが秋のリーグ戦の予想だが、春には5位に終わった神商大だが、
 記事には『古谷のカムバックで』内野陣がまとまり、
 打力も上がってと2位を狙う位置にあると書いてもらっている。



 



  結果は3位で終わるのだが、
  リーグ戦が終っても、明石高校のOB野球にはずっと参加していて、
  11月には神戸2中OBとの試合も14-5で圧勝し、この試合では5打数3安打と記録にあった。
  神戸2中も明石高校もその時代の甲子園出場チームで、
  そのOB戦は、そんな甲子園球児がメンバーなので、
  そこそこの野球を展開していたのである。

  明石OBは私と同期の完全試合投手の溝畑が主として投げていたし、
  翌年の兵庫県OB大会の予想も『優勝候補』として
  新聞にこんな記事が載ったりしていたのである。


  


  メンバーは慶応で朝日スポーツ賞を取った山本治投手
 日生の大津・国賀・西村など錚々たるメンバーで、
 このメンバーなら当時の日本の実業団チームでも優勝候補になるかも知れないほどのメンバーが揃っていたのである。

 そんな大学3回生・21歳の私の1年は『後半は野球漬け』だったと言っていい。
 この時期肝心の『肺浸潤』のほうは経緯は良好で落ち着いていたのである。

 そんな1954年だった、
 日記を読み返してみると、
 ほんとに忘れてしまっていることが多いのに驚いた。

★50万人フォロワーのいるツイッターです。

 雑感日記のEnglish Version です。

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。

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パパメイアン

2023-10-13 05:47:12 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★薔薇を始めたのは現役を引退した2000年なのだが、
 初めて薔薇を買ったのが4月22日のことで、
 その最初に出会った薔薇が「パパメイアン」だったのである。
 花もいいが、その香りも素晴らしくて名花の誉れが高い薔薇である。

  

  
 毎年綺麗な花を見せてくれてたのだが、
 ゴマダラカミキリに根元が半分空洞になってしまって、
 とうとう2016年6月に枯れてしまったのである。
 

 

 
 これは『いつかは枯れる』と思ったものだから、
 枯れる以前に、パパメイアンの挿し木をしたのだが、
 陽があまり当たらない中庭に植えたのでもう一つ元気がないので、
 今年の春、その木から『挿し穂』を採って、鉢に挿して日あたりのいい玄関先に置いている。
 ここでは順調に育ってまだ半年なのに、
 こんな花を咲かせたのである。

 まだ枝が細いので、花の重さに耐えきれなくて
 垂れ下がってしまっているので、今朝咲いたところだが切ってしまった。


 



  切った後はこんなになった。
  順調育ているから、この鉢は大事にしたいと思っている。







★薔薇を始めたのは現役を引退した2000年なのだが、
 初めて薔薇を買ったのが「パパメイアン」で、
 その名前も、これが名花であることも知らなかったのだが、
 薔薇と出会った最初の花なのである。
 
 いまはバラに凝ってた最盛期と比べると
 花もそんなに多くはないのだが、
 この最初の薔薇だけは、何とか残しておきたいと思っている。
 
 それにしても太陽の光とはスゴイ力だなと思う。
 半年でこんなに育つので、やはり薔薇は日の当たる場所で育てるべきだと、
 今更ながら再認識した次第である。

 鉢植えの薔薇はこの1本だけなのだが、大事に育てたいなと思っている。
 
 



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三木総合防災公園への道

2023-10-12 05:32:55 | 発想$感想

★毎朝、三木総合防災公園か co-opの協同学苑かのどちらかの公園まで
 散歩に行っている。
 三木総合防災公園のほうがちょっと遠いのだが、
 遠いと言っても、車で10分は掛らない
 
 こんな立地でこの写真の右のほうが三木総合防災公園である。


  
 

 昨日は、いく道すがら写真を撮ってきた

 先ずは、家の前をスタート。




 ちょっと広い道に出て、
 次の信号を右折する。
 まっすぐ行くと協同学苑なのある。





 この道を真っすぐ進むと

 

 
 ちょっとした登り道になって、
 住宅街が終るところに、関西国際大学がある。






 坂を上りきると、突然左右が山になる。



 
 

  この道を300mぐらい走ったところに信号があり、
  ここを左折すると


 

   
  こんな片側2車線の4車線の広い道に出るので
  そこを500mほど走ると公園の左右の入り口に出る。

  朝早い時はまだ開門していないので、右折して駐車
  7時過ぎると左に曲がって公園に車で入る
  


 



  昨日はまだ6時前だったので右折したのだが、
 もうこんなに沢山の車が止まっていた。





  車を降りたところが、
  メインの陸上競技場前の広場である。
  ここを起点に毎朝違うルートを消費カロリーがその日のスタートから
  1000カロリーになるまでスロー・ジョッギングしている。
  その日のコースによって若干異なるが
  約7000歩、時間にして1時間半ほどである。







  協同学苑でも同じように1000カロリーになるまで動くのだが、
  こちらの方が急な坂があるので、歩数は若干少なくても延べ1000カロリーになる。
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藤井8段  8冠達成

2023-10-11 21:54:40 | 発想$感想

★ 将棋はよく解らないのだが、
 豊岡の青木隆さんからFBでこんなメッセージが送られてきて、
 
 今日は前人未到の八冠が掛かった将棋を中継しています。 
 囲碁の方がお好きでしょうが、お暇ならご覧ください 。

 とあって、このリンクを開くと
 藤井聡太竜王・名人と永瀬拓矢王座の将棋の実況中継が延々と見られたのである。


  



 最初のうちは考慮時間が長くて、全然変化が無くてよく解らなかったのだが、
 終盤は二人とも秒読みになって、どんどん変化するものだから、
 迫力があって、結構面白かったのである。
 



 解らぬなりに見ていたが
 3時のおやつに二人が何を食ったかも出てきて、
 これが藤井名人が食ったおやつと飲み物である。






結果は
井聡太竜王・名人が全八冠を独占 シリーズ成績3勝1敗で永瀬拓矢王座に勝利、21歳2カ月で将棋界史上初の偉業達成』とニュースに流れた。

 最後のほうに藤井名人が打った「角打ち」が効いたような気がする。
 画面にはどちらが優勢と%が現れるのだが
 最後のほうは藤井99%・長瀬1%と圧倒的になってそれは最後まで変わらなかった。

 青木さん、有難うございました。
 結構、楽しませて頂きました。

 





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私の日記   1953(昭和28年)

2023-10-11 05:47:58 | 発想$感想

★ 私が日記を付けだしたのは昭和28年(1953)11月8日のことだから、
  いまから70年前のことである。
  当時は大学の2回生の頃で、ちょうど20歳の成人を迎えた年なのである。
  以来、欠かさず日記は書いているので70年続いたことになる。

  



  なぜ、突然年の途中から日記を書きだしたのかというと、
  2つほど理由があって、そのきっかけとなったのは
  朝日新聞に『台湾の蒋介石が30年間日記を書き続けている』と称賛する記事が出たので、
  『日記を書くぐらいなら私にもできる』と思ったのと、
  もう一つは、野球をやっていたのだが、秋のリーグ戦中にどうも体がもう一つで、
  リーグ戦を終わって医者に診て貰らったら『肺浸潤』の宣告を受けて、
 [安静にするように』と言われたのである。
 当時は結核は日本の大きな病気の一つでかかる人が多かったし、
 ひょっとしたら、人生長くはないなと思ったので、
 短い人生でも何かを残しておきたいと思ったのだと思う。

 
  突然、思いたったので日記帳ではなく、
 こんな大學ノートでスタートしたのである。


   



★ こんな70年間続いた日記帳は昨今重宝していて、
 昔のことをチェックするのに大いに助かっている。
 人間の記憶力はもう一つで、覚えていることは確かに覚えているのだが、
 それ以上に忘れてしまうことが殆どなのである。

 ちょっと時間も出来たので、最初から読み返してみようかとふと思ったのである。
 そして、時間に任せて1年ずつ読んでみようかと思ったのである。


 今日は、1953年の11月と12月の2か月だけだが
 読み返してみたのである。

 その感想だが、最初ということもあって、
 気負っていっぱい書いている。
 読み返してみての感想を幾つか。

 ● 先ず1日に書いている文章の量が大変なものである。
  いまの1日の日記20倍ぐらいあるのではなかろうか。
  この大学ノートが2か月で満杯になってしまっている。

 ● 全く忘れてしまって、読んでも思い出さないことがいっぱいである。
  Dさんという女性が何度か出てくるのだが、誰だかさっぱり分からない。
  いまは兵庫県の強豪になった明石商業野球部だが、この時期私と同期だった山本がコーチをしているとあるのだが、全然覚えていない。
  勿論、鮮明に覚えていることもあるのだが、覚えていないことがこんなにあるとは思わなかった。
  日記に書いてるぐらいだから、その時点では結構なウエイトのあった出来事のはずなのだが・・・

 ● それにしても、痛くもかゆくもない病気だが『肺浸潤』になったことは、この時期はショックだったようで、何度も記述に出てくるし、
 宣告を受けて2か月だから静養している日も多いのである。
 ところがだんだん不真面目になって結局、野球は止めなかったので、
 病状はどんどん進んで、肺結核になり空洞が出来たりしたのだが、
 それでも止めずに大学を卒業して川崎航空機に入ってもまだ続けていたのである。

★ 何を思ったのか、12月28日の日記に『手相』のことを書いている。
  何かで調べたのだと思うが、手の絵まで描いている。
  こんな風に記述している。


 


 閑に任せて、平凡に載っていた『手相
 当たる当たらぬは別問題で自分自身で占ってみる
 
 ● 第一に父母線と生命線が接合しているのは知性的な人に多く、恋愛も決して溺れない理性の強い近代的な型である。
 ● 生命線は長く真っすぐ伸びているのがよい。途中で切れているのは病気など生命の危険に会う。右手は切れている
 ● 職業線が明確に通っていればいるほど、仕事に恵まれ成功する。非常にはっきりしている。
 ● 父母縁線、これは短くしかも両端が分れているから父母兄弟には縁が薄い。
 ● 結婚線は横に短く真っすぐだから、まず品行方正
 ● 掌の真ん中にある生命線とやや平行に伸びた線は目上の引き立てを得て立身出世する幸運の相
 ● 感情線 横が知能線でどちらもあるが知能線のほうがはっきりしている。
 ● 妻には恵まれる。異性に関心があってもあまり表現しないタチだから家庭的には円満

 本の説明からずぶの素人の私が俄かに立てた易は大体こんなものである。
 大体に見て『』と出たようだが、こんなものが必ず当たるとも思わないが、この通りになって欲しいものである。
 当たるも八卦、当たらぬも八卦、
 2,30年先にこの易が泣くような人間になっていませんように・・

 と書いている。


★こんな手相のことも、全く忘れていたのだが、
 30年どころか、70年後も生きていて
 この私の手相は、ホントに当たっていると言っていい。
 特に妻には恵まれて、感謝以外の何物でもない

 たった2か月だけだが、
 若い大学生時代を想い出した。
 いま思うと日記を書いていて良かったなと思う。
 人間勝手にできていて、覚えていることは日記などに頼らなくても
 明確に覚えているのだが、この2か月だけでも日記に書いたことすら、思い出さないのは、人間は身勝手で都合のいいことだけを覚えているのではなかろうか?

 世の中に、日記を書いてる人などそんなにいないだろうから、
 これは『私の宝物』と言っていい。
 1年分は、多分1日あったら読めるだろうから、
 メモに取りながら、暇に任せて今から70年間を読み返して、
 その感想を纏めてみたいと思っている。

 ほんとのところそんなことでもしないと、
 『1日が長すぎる」のである。


★50万人フォロワーのいるツイッターです。

 雑感日記のEnglish Version です。

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。

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鯉の産卵  雑感

2023-10-10 05:32:53 | 発想$感想

★ 朝散歩に行く協同学苑にはこんな池がある。
  この池にはずっと以前から鯉がいる。


   

  
 ずっとコドモは生まれなかったと思っているのだが、どうもこの数年卵を産んだようで、こんな1,2年経ったと思われる10cmから15cmぐらいの鯉がいっぱい泳いでいる。


  
  

魚が好きでここの池の鯉にもずっと関心を持っていたのでこの1、2年の動きが注目なのである。
 藻などはないのだが、こんな葦が生えているところがあるので、この辺りに卵を産んだに違いない。


  
 


ただ鯉の産卵は結構派手で自然界ではこのように浅瀬に群がって産卵するので、この池でもこのような光景が見られたに違いないのである。
 なんとかそんな光景に出会ってみたいものである。


 
 

 こんな大きな真鯉はずっと以前からいたのだが、そんな大きな鯉ばかりだったのに、こんなに増えたのはここ数年のことなのである。
 然し、今年は子どもが生まれた気配はない。生まれていたら今頃はまだ小さい鯉がいっぱいいるはずだと思うのだが、それが見られない。
 ずっと以前は大きな鯉ばかりで群れていたので、いまの大小入れ混じっての群れはなかなかいい。ただかってのように大きな鯉ばかりが群れることは無くなってしまっている。

   
 

それに鯉がいるのは最初の池の写真のほうではなくて、何故か写真には写っていない左側の方ばかりなのである。
 右側のほうは心持浅いからかなと思っている。この池には『鯉に餌などはやらないでください』と看板があるので、誰も餌などはやらないし、施設のほうで特に餌をやってる気配もないので、ほんとに野池のように自然に育っているのである。
 出来れば、毎年卵を産んで池にいっぱい鯉が泳げばいいのにと期待しているのだが、来年は産むだろうか?

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今朝の三木総合防災公園

2023-10-09 05:07:52 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 昨夜ちょっと遅くまでサッカーを見ていたので朝はちょっと遅くなった。
 7時を回っていたので久しぶりに車で中に入った三木総合防災公園。


   
  

 車でこの橋を渡るのも久し振りで、
 公園の一番高台の林間公園に向かった。



 



 もう何台かの車が止まっていた。
 





  ここには このような、
  体をほぐすいろんな器具が設置されている。





  林間広場は1周約600歩なのだが、
  いろんな道を周って3000歩ちょっとで、
  公園の東の方に移動した。
  ここの駐車場もまだ数台しか止まっていない。


 

 

  ここからはこんな周回路を1周してきた。
  約3kmあるから4000歩に近い距離である。


  


  少し下って





  サッカー場の周りなのだが
  ここからは登りになる。


 



  登りきると元の車を止めた広場のところに戻ってくる。

 
 

  広いから、今朝のコースでは
  東の方が回れていないのだが、7000歩を越えたので、
  ここで終わりにして、戻ってきた。

  午後からは雨になったが、朝のうちは曇り空だった日曜日だった。
 
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血液検査の結果と私の病気経歴

2023-10-08 04:22:25 | 発想$感想

★ 年に3回ほど定期的にやる血液検査だが、
  いつものことだが、殆ど何の問題もない結果になる。

  そんなことなので、年に3回も図らなくてもと思うのだが、
  行きつけの病院では定期的な検査がある。

  その結果はこんな感じで殆どの項目が
  フェアウエイを記録していて、
  2項目ほどラフに入っているのだが、
  それもちょっとそれた程度なので、
  先生の診断も『すべて問題なし』なのである。


  



★ これは健康体に生まれたことの結果で
  このような結果になるように何の努力もしていない。
  まあ言えば、こんな健康体は遺伝の結果なのだろう。

  ただ、90年生きてきて
  病気をしなかった訳ではない。
  若いころには肺浸潤になって、
  療養もせずに野球を続けていたら、
  肺結核になって、そのあと空洞も出来てしまった。
  会社に入ってから診療所の先生の勧めで療養所に入ったのだが、
  10か月ほどで空洞も消えてしまうほど完治したので、
  この入院はよかったなと思う。

 ★ 68歳の頃、北海道札幌で最後の勤めだった時だが、
  駐車違反で、車を持っていかれてしまって、
  駐車違反は兎も角、何故車まで移動したのかと
  警察で文句を言ってたら、アタマに血がのぼって
  突然「くも膜下出血」で倒れてしまったのである。
  『くも膜下出血」になった人は、私が知ってる限りみんな亡くなってしまったので、
  これは『死んだな』と思ったのだが、直ぐ病院に入院したので、
  20日間ほどの入院で完治したのである。
  これは倒れた場所が警察だったから、
  即座に救急車が来て15分後には病院のベッドの上だったのである。

 それも中村記念病院という日本国内初の脳神経外科専門の医療機関として発足した病院で
 この建物すべてが脳外科専門で脳外科のお医者さんが30名近くいるという
 日本で唯一と言ってもいい病院なのである。
 兵庫県なども大きな病院には脳外科があるが専門医は2名ほどしかいないのである。
 中村病院の先生曰く
 あなたは非常に手術のムツカシイ場所が切れたので、
 会議の結果手術はせずに安静にさせておく』という結論になったらしい。
 内地の病院などでは『手術をしない=治療しない』ということになるので『手術をしない』などはありえない、などと言われていた。
 そう言う意味でもラッキーで、何もせずに無事治ったのである。

 
   
   

  『くも膜下』で亡くなったりするのは、なった後の時間が経過したり、
  その後動いたりするからで、
  即・病院というようなことなら大丈夫なようである。
  そう言う意味では、倒れた場所が警察で「私はツイている」と思っている。

 ところで『アタマに血がのぼる』というが
 ほんとに『血がのぼってくる』のである。
 どんどん血がのぼって、喉元ぐらいまでは覚えているのだが、
 そのあと『意識が無くなってしまった』のである。
 文句を言ってた当人が、突然倒れてしまって警察もビックリしただろうと思う。
 そんなことだったので、この駐車違反は記録されずに済んでしまって、
 ゴールド免許がそのまま続いているのである。

 『血液検査』もこの『くも膜下』をやったのでその後定期的にやるようになったのである。
  

   


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果樹の林

2023-10-07 06:45:25 | 発想$感想

★ 朝散歩に行く協同学苑はco-opの研修施設なのだが、
 大きな建物のほかにホテルもレストランもグランドなどもあるのだが、
 奥の方に『果樹の林』がある。

 そこには 柿の木がいっぱいあるしクルミもある。
 かりんとはどんなものかもう一つよく解らないが
 こんな大きな実をいっぱいつけている。

 
  


 こんな大きな実もなっている。

 調べてみたら、このような記述があった。
 かりんは、バラ科カリン属の落葉高木で、中国から日本へ渡来した薬用にもされる果樹で、
 その果実は石細胞が多く含まれるため硬く生食はできないが、カリン酒や砂糖漬け、のど飴などの原料になるという。

 なぜ、こんな樹をいっぱい植えたのかなと思ったりする。





 奥の方には柿の木がいっぱいあって、実をいっぱいつけている。
 これは食えるのか、渋柿なのかよく解らないが、
 毎年、多くの実がなるが収穫するのだろうか?
 毎年、そんなことを想うのだが、いつの間にか多くの柿が無くなっている。
 今年はちゃんと確かめたいなと思っている。


  
 



  一番奥にクルミの樹がある。
 そんなに沢山ではないのだが、こんな実を付けている。

 


  いまは青いが、これが茶色のクルミになるのだろうか?

       ちょっと、調べてみたら、青い中にこのようにクルミが隠れているようである。
  このように割れるのだろうか?

  
  





 果樹の林はこんな場所なのである。







★ 毎日来るわけではないので、最後にこんな実がどうなるのか、
 確かめていないのだが。
 毎年気になっているので、今年は気を付けて確かめてみたいと思っている。
 大したことは全くない毎日なので、
 こんな『しょうもないこと』が気になる昨今なのである。

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