つづき
坂川放水路の方には行かずに
本線の坂川沿いを走ります
大昔の坂川は大谷口新田から『六軒川』のルートで
長津川に流れていたという説があります
古坂川が存在していました
1723年にこのルートで長津川に直角に合流し江戸川へ
しかし川の氾濫は改善されず
この先に、川に囲まれた民家があります
お堀に囲まれたお城のような
ある意味の『島』のような場所です
この辺は苺栽培してます
この辺でほぼ半周
ここの桜もなかなかいいです
西馬橋
馬橋村と伝兵衛新田の間を流れていたのが『長津川』
(馬橋の由来になる橋の下を流れる川で古くからある)
高校と小学校の裏の横六間川が名残らしい
江戸川に『伝兵衛樋門』があったとされる
この辺の新田開発は江戸時代になってから
明治時代になり『明村』となった
現在は『栄町』
「坂川」と「江戸川』を合わせた名が由来
この辺での梨園は珍しい
ゴールデンウイークに鯉幟を飾るのは
この町の風物詩
神社裏に坂川の碑
江戸時代の天保六年(1835年)ころに流山から
市川の国府台まで完成し洪水が減った
このルートは新しく造り足された
1813年に伝兵衛新田から松戸宿まで工事
(長津川~赤圦樋門)
神社に寄る
『香取稲荷神社』
農村エリアはお稲荷さんが多いんだけど
武神の香取様を祭っているのは珍しいです
(千葉県の一の宮は香取神社ですが)
そして、明治に仏教と神道は分けられたけど
ここは隣り合わせに立っています
下総国小金領伝兵衛新田の文字が
東葛飾郡ではなく小金領
幕府の天領地だったということ
安永3年は1775年
(アメリカ独立宣言は1776年)
安永10年(1781)に逆川工事開始
1783年(天明3)、浅間山噴火
天明の大飢饉は有名
(富士山の噴火は1707年(江戸時代)の宝永大噴火)
この先に洪水の痕跡のある民家が残っている
大きい木の角を曲がる
大きい木のある家はかなり古い
なぜそこに入口が?となるが
倉が高い所にあるのは洪水から守るためで
船でここから荷を積むためでもある
こういう家を『水家(じんぎょ)』とよぶとのこと
本線に戻るも左岸は通れなくなる
右に迂回
右に旧古ヶ崎浄水所
古ヶ崎には排水機場と浄化施設がある
初期の樋門も古ヶ崎にあり
古ヶ崎までが『上郷』と区分されていました
赤い橋を渡り水にまつわる神社へ
バス停に『小僧弁天』と表記
川沿いにあり参道が細長い
鳥居があるので神社
馬橋の『萬満寺』と関連かあるとのこと
しかし違和感の多い神社だ
昔の写真だと赤い鳥居でした
古ヶ崎五差路で川が合わさる
川も複雑
左岸を攻める
新坂川とも合流
新坂川は昭和に掘られる
なれないと川を見失う
川沿いと道に段差アリ
高い建物が多くなる
根本
(ここから下郷)
道幅がまばら
以前走った旧河岸道の橋を越える
川が二又に分かれる
初期の坂川は右の方
1813年(文化10)頃に『赤圦樋門』が完成する
そこで江戸川に排出するようにしたが
そんなに変わらず
この時代はまだ逆川と呼ばれている
国府台までの開通はなかなか認められず
下郷との対立は続いた
つづく
坂川放水路の方には行かずに
本線の坂川沿いを走ります
大昔の坂川は大谷口新田から『六軒川』のルートで
長津川に流れていたという説があります
古坂川が存在していました
1723年にこのルートで長津川に直角に合流し江戸川へ
しかし川の氾濫は改善されず
この先に、川に囲まれた民家があります
お堀に囲まれたお城のような
ある意味の『島』のような場所です
この辺は苺栽培してます
この辺でほぼ半周
ここの桜もなかなかいいです
西馬橋
馬橋村と伝兵衛新田の間を流れていたのが『長津川』
(馬橋の由来になる橋の下を流れる川で古くからある)
高校と小学校の裏の横六間川が名残らしい
江戸川に『伝兵衛樋門』があったとされる
この辺の新田開発は江戸時代になってから
明治時代になり『明村』となった
現在は『栄町』
「坂川」と「江戸川』を合わせた名が由来
この辺での梨園は珍しい
ゴールデンウイークに鯉幟を飾るのは
この町の風物詩
神社裏に坂川の碑
江戸時代の天保六年(1835年)ころに流山から
市川の国府台まで完成し洪水が減った
このルートは新しく造り足された
1813年に伝兵衛新田から松戸宿まで工事
(長津川~赤圦樋門)
神社に寄る
『香取稲荷神社』
農村エリアはお稲荷さんが多いんだけど
武神の香取様を祭っているのは珍しいです
(千葉県の一の宮は香取神社ですが)
そして、明治に仏教と神道は分けられたけど
ここは隣り合わせに立っています
下総国小金領伝兵衛新田の文字が
東葛飾郡ではなく小金領
幕府の天領地だったということ
安永3年は1775年
(アメリカ独立宣言は1776年)
安永10年(1781)に逆川工事開始
1783年(天明3)、浅間山噴火
天明の大飢饉は有名
(富士山の噴火は1707年(江戸時代)の宝永大噴火)
この先に洪水の痕跡のある民家が残っている
大きい木の角を曲がる
大きい木のある家はかなり古い
なぜそこに入口が?となるが
倉が高い所にあるのは洪水から守るためで
船でここから荷を積むためでもある
こういう家を『水家(じんぎょ)』とよぶとのこと
本線に戻るも左岸は通れなくなる
右に迂回
右に旧古ヶ崎浄水所
古ヶ崎には排水機場と浄化施設がある
初期の樋門も古ヶ崎にあり
古ヶ崎までが『上郷』と区分されていました
赤い橋を渡り水にまつわる神社へ
バス停に『小僧弁天』と表記
川沿いにあり参道が細長い
鳥居があるので神社
馬橋の『萬満寺』と関連かあるとのこと
しかし違和感の多い神社だ
昔の写真だと赤い鳥居でした
古ヶ崎五差路で川が合わさる
川も複雑
左岸を攻める
新坂川とも合流
新坂川は昭和に掘られる
なれないと川を見失う
川沿いと道に段差アリ
高い建物が多くなる
根本
(ここから下郷)
道幅がまばら
以前走った旧河岸道の橋を越える
川が二又に分かれる
初期の坂川は右の方
1813年(文化10)頃に『赤圦樋門』が完成する
そこで江戸川に排出するようにしたが
そんなに変わらず
この時代はまだ逆川と呼ばれている
国府台までの開通はなかなか認められず
下郷との対立は続いた
つづく