大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

『歳月』2

2011-07-08 22:28:31 | 小説

『第一章・出会い』

【AKB43】 嗚呼(ああ)ここまで、無事に……でAKBで、ある。 43は、15の歳で、高校演劇を始めて43年……で、AKB43 もう5年たてばAKB48である。 御本家は無事に5年をすごされるのだろうが、おやじギャグの48は、いささか心許ないものである。

【出来心の演劇部】わたしが、演劇部に入ったのは、偶然と、ちょっとした出来心であった。 中学のころは吹奏楽で、トロンボーンやドラムをやっていた。高校でも、当然の如く吹奏楽に入部するつもりでしたが、旭高校吹奏楽部は、その前年に潰れていた。 背が高かったので、バスケなどから、声をかけられたが、キャッチボールや、トスバレーも満足に出来ない運動オンチ。縁がなかった。で、特技の絵の腕を生かして、美術部に入ろうかなあ……と、思っていると……

【オードリー・ヘプバーン】に、声をかけられた。入学して、一ヶ月あまり知らなかったのだが、小学校の5年、6年と同じクラスに、中学では同じクラスになったことはなかったがが、千尋というスコブル美人の子が、同じ旭高校に入学していたことに気づいた。淀川長治さんの日曜洋画劇場で『ローマの休日』を見て「あ、似てる!」と、思った。もちろんグレゴリーペックではない。 主語が抜けている。 わたしはグレゴリーペックのようなイケメンではなかった。つまり似ていたのは、千尋という名前の彼女である。連休明けの昼下がり、テニスコート脇の50メートルほどの小道を、あろうことかコッチからはわたしだけ。ムコウからは、和製オードリーの千尋だけが、歩いてきたのである。正直ビックリした。千尋が同じ旭高校に入学していたことを知らなかったのだから……で、すれ違いざまに「……オ」とだけ、声をかけた。十五六の男の子というのは、一般に無愛想なもので、わたしの「……オ」というのは、ごく標準的な反応であった。そのあとは、なぜだか、空の雲を見ていた記憶がある……すると、和製オードリーが、わたしの「……オ」を拾うようにして「オオハシくん……」と、声をつないだ。「え、ああ……」という感嘆詞とも間投詞ともつかない、間の抜けた声を出していた。刹那(せつな、一瞬てな意味)うつむき加減になった千尋は、八十センチくらいの距離で……距離には人間関係がある。八十センチという距離は、ちょっとした知り合いのそれを五十センチは超えている。

【演劇部入れへん?】これが、雲の観察をしそこねた、わたしへの千尋の言葉であった。その時のわたしのイデタチは、制服屋が、今後の成長をみこんでワンサイズ大きめに仕立てた、ダブっとした学生服。千尋は、当時間服(あいふく)とよんでいた一見ジャンパースカート(ベストとスカートが、見えないボタンで連結できるようになっていて、見かけにはジャンパースカート)に、純白のブラウス、胸元にはキチンと濃紺のボータイ。髪は、小学生のころから変わらないポニーテール。シュシュなどというカワユゲな名称など無くて、あのころはただリボンとよんでいた。それが制服と同色の濃紺。府立高校としては例外的にあか抜けて、ミッションスクールの清楚さを感じさせるもので。その、あか抜けのミッションスクールの千尋が、ちょっとした知り合いの持つべき距離を五十センチも超えて、声をかけてきた。 意表をつかれたわたしは、間の抜けたまま「え……ああ」 千尋は、そ の「ああ」の部分だけを急いで拾うように「ほんなら、放課後、三年二組の教室来てね!」と、オードリー似の笑顔で言うと、本館の方に歩いていった。後には、そのころ流行りだしていた、なんとかいうメーカーのリンスの残り香が、目に見えない瑞雲のように残っていた……こういう、文学的表現の分からない人には、彼女のカワユゲさにころっといってしまい、うかつな返事をしたということで、ご理解いただきたい。

 

『第二章 オトコが来てる!』

【当時は、ガスタンクがあった】旭高校の向かいには、国民学校……いや、尋常小学校のころからそうであったであろう高殿小学校の木造二階建て校舎が建っている。ほんの四年前まで、わたしは六年間そこに通う、少し小生意気な子供であった。旭高校に行こうと思ったのは、小学校三年のときの岩佐先生が、この旭高校の出身だったからであった。岩佐先生は、今から思うと常勤講師で、たった一年間だけ高殿小学校に赴任され、わたしたちのクラスの担任をなさっていた。オッサン、オバハンの先生が多い中、大学を出たばかりの岩佐先生の姿は、子供心にもマブシかった。新学年最初の始業式で、棒鱈のような校長先生が、最後に紹介した新任のオンナ先生が、岩佐先生であった。当時千二百人もいたこどもたちから「オオー」と「ワー」のどよめきが起こった。その千二百のどよめきに気圧され、先生は、頬を赤く染めてなにやらアイサツをされた。中身は覚えていない。

 ただ見とれていた。まだ十歳にもならないガキであったが、生意気にも「かわいい……」と思ってしまった。少し本間千代子(当時のアイドル)に似ていた。国鉄の快速急行の先頭車両の正面を思わせる顔をした教頭先生が、新学年の担任を発表していった……なんと、岩佐先生が、担任だった!

 岩佐先生が、旭高校の出身であることは、一学期の早い時期に分かった。岩佐先生は給食を食べなかった。給食の時間、こどもたちが無事に「いただきます」というのを確認すると、教室を出てしまい、向かいの旭高校の食堂に向かっていった。最初は「なんでやろ?」と思っていたが、クラスで情通の宮本という子が「岩佐先生、旭の卒業生やねんぞ。ほんで、今でも旭の食堂の定食食べにいくねんぞ。旭の定食むちゃくちゃウマイねんて」宮本は、先生の可愛さよりも、定食のウマサに関心があったようだ。たしかにあの頃の給食はひどかった。とくに脱脂粉乳のミルクは鼻をつままなければ飲めたシロモノではなかった。

 そうして、わたしは旭高校を意識しはじめた。意識して旭の女生徒のオネエサンたちを見ていると(なんせ、わたしの教室は、旭高校の正門の筋向かいに面していた)清楚なベッピンさんが多かった。で、自分の成績などまったく考えずに「旭高校に行くんや!」と決めていた。

 そう思い定めた、小学校の校舎を「今は、旭高校の窓から見る側になった」と感慨にふけっていた。小学校の校舎のそのむこうにガスタンクが見えた。円筒形の巨大な檻のような鉄骨の内側に、上が灰色、下が黒に塗装された、タンクがガスをいっぱい溜めて檻の高さいっぱいまで膨らんでいた。幼稚園のころから見慣れた、このガスタンクは大阪城の天守閣からも見えるランドマークであるとともに、その膨らみ具合が、なんだか少年時代夢と希望の象徴のようにも感じていた。時はまだ昭和の四十年代、大ざっぱに言って、まだこどもたちの心には夢があった。

 わたしは、勉強はカラッキシであったが、時間には正確で、たいてい約束の五分前には、指定された場所に行く。だから以上の感慨にふけっていたのは、約束の時間になるまでの五分間のことであった。そして五分後……

 「オトコが来てる!」の複数の感嘆詞を背中で受けることになった。

    つづく    大橋 むつお

 

 

 

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