劇団往来番外公演・『虫』作・藤本義一
この日、夕方から御堂筋線は、枕木のぼや騒ぎで止まっていました。
もともと難波から、会場の大丸北館のホールまでは歩こうと思っていたのですが、大勢の人たちが暮れなずんだ御堂筋を北へ歩く中にいると、なんだか集団で不思議な世界へ行くような気がしました。
気の早いクリスマスのイルミネーションが、いっそう夢幻の世界にいざなってくれるようでした。
おあつらえ向きに、大丸の手前には、手相見のオバサンが行灯に灯をともし、その向こうに大丸の入り口がポッカリと口を開けていました。
夢幻の行進の列から離れて、その入り口に一人向かっていきました。
夢幻の中の、さらに夢幻の世界に行くような錯覚。
まだ、開場には間があるので、十四階の会場に行くエレベーターには、数名のお客さんしか乗っていませんでした。
十四階につくと、ちょうど開場したところで、受付にはなじみの往来のみなさんが夢の世界の番人のごとく、最後の準備を終えたところ。
なんだか、これから落語の『七度狐』の世界に連れて行ってもらえそうな……で、小屋に足を踏み入れると、わたしの記憶の底に眠っていた、昭和の、それもかなり時代物のソレがそこにありました。
昭和三十年代前半の西成区山王町……といってもお分かりにならない人が多いでしょう。戦後復興の証のごとく再建された通天閣。その南側。飛田新地と呼ばれる遊郭が軒を連ね、世の裏と表が混在したような一角に、夢芸荘というアパート……と言っても、今のワンル-ムマンションのようなものではありません。引き戸の入り口を入ると二坪ほどの三和土(たたき) 入り口の横が共同の台所。粗末な流しの手前には、江戸時代のような水瓶。奥には、ご飯を炊く羽釜、コンロ。ずんと手前にはカンテキの上に、へこんだヤカン。
尺高の上がりがまちに続いて、共用のお茶の間。二階への階段が奥にあり、水屋や箪笥、神棚を上にした物入れ。上手には一階の部屋に続く廊下と思しき暖簾。
要は、江戸、明治、大正、昭和が混在したような立体長屋を想像していただければいいでしょう。
ここの住人は、落語家の円丸(まるまる)を始め、売れない、あるいはメジャーからはみ出してしまった芸人とその家族が住んでいます。その数九人。普通これだけのキャラを板の上に乗せると、人間関係どころか、誰が誰だか混乱し、勢い説明的な台詞などが入るのですが、全てドラマの中のイザコザの中で分かる仕組みになっています。一見簡単そうで、むつかしい。高校演劇の場合など、劇中にメモらないと、そういうことが分かりません。
そういうことが自然に分かるのは、本と演出、そして役者の演技がしっかりしているからであります。往来の皆さんは円熟の手前までこられたと感じました。一昔まえは、往来の役者さんたちは役者の声で、台詞を言っていましたが(発声はいいが、役者個人の個性が正面に出てしまう)今回は、完璧に役の声として観客席に届いていました。立ち居振る舞いも、役の個性として完成されていて、舞台に出てきて違和感を感じる役者がいませんでした。
話を、簡単にまとめると、落語家円丸が咽頭ガンに罹っていることが分かります。芸能斡旋所の所長が、こっそり亭主に死なれた漫才師の松子に「ここだけの話」として漏らしてしまい、それが落語のように、次々と他の住人の知るところとなる。この展開は大いに笑わせてくれます。
住人たちは、円丸には知られないように気を遣いながら、時にエゴから邪険にしてしまったりします。円丸も住人たちの善意を素直に受け入れられず、捨て鉢になったり。
そんな、ある日芸能斡旋所の所長が、住人たちに、こう言ってきます「若松座の支配人が、新人発掘のためこの夢芸荘にやってくる」
しかしテストを受けられるのは二組だけ。奇術師横田の発案でくじ引きで、それを決めることになります。くじに当たったのは、急ごしらえの漫才コンビ松子と宏次と円丸。
いよいよテストの日がやってくる。松子と宏次のコンビは合格するが、円丸は芸を商品としか見ない支配人(マスコミの、芸を見る目の代表としての目)によって、不合格となるばかりか、時代遅れの烙印を押され、芸人としての人格を否定されます。咽頭ガンの病状も悪化し、円丸は発狂し精神病院に入れられることに……円丸は、狂いながら「早よ、芽え出しや」と、菊の鉢植えに肥やしをやり続けます。貸衣装屋のオバハンが、貸した羽織をむしり取っていきます。
そして、病院から迎えが来ます。
ここにいたるまで、住人たちは人情的で自分勝手、プライドが高いわりに線が細く、お人好し、涙もろくて面白い。
どこかで、自分を笑い飛ばしながら、風に震えている人間群像の描き方が見事であります。
どこか、ゴーリキーや黒澤明の『どん底』を思わせる話ですが、藤本義一という作家の人を見る目は暖かい。
円丸が精神病院に入れられるところで終わってしまえば、それはそれで、人間の破綻した生き様を描いたドラマにはなるのですが、藤本義一という人は、話を、こう続けます。
そこひを患った講釈師夫婦が、こう締めくくります。
「あんた、当たりくじを円丸はんに……あげたやろ」
「うん。せめてなあ……と、思て。ワシの目はもう見えへん。せやけど目えは見えんけど、涙は出てきよる」
そして、出囃子で幕が下りると思いきや……下手、アパートの入り口のところにサスがおち、円丸が肥やしをやった鉢植えの菊が見事に花を咲かせています。これは、本の指定なのか、鈴木さんの演出なのか、観る者の心にも花を咲かせる分かりやすくて、心を癒してくれる演出でした。
妙な例えですが『どん底』が、「ビーフシチュー」だとしたら、この『虫』は「肉じゃが」であります。それもたきしめて、肉やジャガ芋にしっかり味の染みこんだそれ。
道具は、ほぼ完璧なのですが、わずかに不満が残りました。
汚さがキレイなのです。汚しはかけてあるのですが、柱や軒、引き戸、フスマに寸分の狂いもない。場末のアパートなら、いささかのガタピシがあっても良かったのではないだろうかと。また三和土に汚れやクスミが無く、茶の間も、なぜかタタミではなく三和土と同じくパンチのジガスリのようで、違和感がありました。往来の道具作りの上手さが逆効果になったか……役者さんの演技が激しいので、滑ることを心配されたのかもしれません。
また、柱時計。往来なら針を動かすかと思いましたが、動かない。アラを見つけたと思って喜んでいたら、きちんと話の中でそうあるべしになっていました。以前このアパートにいた住人が、中身の機械だけを質に入れたというオチがついています。藤本義一といい、演出の鈴木さんといい、大阪という土地と人情を、よくご存じでありました。
この日、夕方から御堂筋線は、枕木のぼや騒ぎで止まっていました。
もともと難波から、会場の大丸北館のホールまでは歩こうと思っていたのですが、大勢の人たちが暮れなずんだ御堂筋を北へ歩く中にいると、なんだか集団で不思議な世界へ行くような気がしました。
気の早いクリスマスのイルミネーションが、いっそう夢幻の世界にいざなってくれるようでした。
おあつらえ向きに、大丸の手前には、手相見のオバサンが行灯に灯をともし、その向こうに大丸の入り口がポッカリと口を開けていました。
夢幻の行進の列から離れて、その入り口に一人向かっていきました。
夢幻の中の、さらに夢幻の世界に行くような錯覚。
まだ、開場には間があるので、十四階の会場に行くエレベーターには、数名のお客さんしか乗っていませんでした。
十四階につくと、ちょうど開場したところで、受付にはなじみの往来のみなさんが夢の世界の番人のごとく、最後の準備を終えたところ。
なんだか、これから落語の『七度狐』の世界に連れて行ってもらえそうな……で、小屋に足を踏み入れると、わたしの記憶の底に眠っていた、昭和の、それもかなり時代物のソレがそこにありました。
昭和三十年代前半の西成区山王町……といってもお分かりにならない人が多いでしょう。戦後復興の証のごとく再建された通天閣。その南側。飛田新地と呼ばれる遊郭が軒を連ね、世の裏と表が混在したような一角に、夢芸荘というアパート……と言っても、今のワンル-ムマンションのようなものではありません。引き戸の入り口を入ると二坪ほどの三和土(たたき) 入り口の横が共同の台所。粗末な流しの手前には、江戸時代のような水瓶。奥には、ご飯を炊く羽釜、コンロ。ずんと手前にはカンテキの上に、へこんだヤカン。
尺高の上がりがまちに続いて、共用のお茶の間。二階への階段が奥にあり、水屋や箪笥、神棚を上にした物入れ。上手には一階の部屋に続く廊下と思しき暖簾。
要は、江戸、明治、大正、昭和が混在したような立体長屋を想像していただければいいでしょう。
ここの住人は、落語家の円丸(まるまる)を始め、売れない、あるいはメジャーからはみ出してしまった芸人とその家族が住んでいます。その数九人。普通これだけのキャラを板の上に乗せると、人間関係どころか、誰が誰だか混乱し、勢い説明的な台詞などが入るのですが、全てドラマの中のイザコザの中で分かる仕組みになっています。一見簡単そうで、むつかしい。高校演劇の場合など、劇中にメモらないと、そういうことが分かりません。
そういうことが自然に分かるのは、本と演出、そして役者の演技がしっかりしているからであります。往来の皆さんは円熟の手前までこられたと感じました。一昔まえは、往来の役者さんたちは役者の声で、台詞を言っていましたが(発声はいいが、役者個人の個性が正面に出てしまう)今回は、完璧に役の声として観客席に届いていました。立ち居振る舞いも、役の個性として完成されていて、舞台に出てきて違和感を感じる役者がいませんでした。
話を、簡単にまとめると、落語家円丸が咽頭ガンに罹っていることが分かります。芸能斡旋所の所長が、こっそり亭主に死なれた漫才師の松子に「ここだけの話」として漏らしてしまい、それが落語のように、次々と他の住人の知るところとなる。この展開は大いに笑わせてくれます。
住人たちは、円丸には知られないように気を遣いながら、時にエゴから邪険にしてしまったりします。円丸も住人たちの善意を素直に受け入れられず、捨て鉢になったり。
そんな、ある日芸能斡旋所の所長が、住人たちに、こう言ってきます「若松座の支配人が、新人発掘のためこの夢芸荘にやってくる」
しかしテストを受けられるのは二組だけ。奇術師横田の発案でくじ引きで、それを決めることになります。くじに当たったのは、急ごしらえの漫才コンビ松子と宏次と円丸。
いよいよテストの日がやってくる。松子と宏次のコンビは合格するが、円丸は芸を商品としか見ない支配人(マスコミの、芸を見る目の代表としての目)によって、不合格となるばかりか、時代遅れの烙印を押され、芸人としての人格を否定されます。咽頭ガンの病状も悪化し、円丸は発狂し精神病院に入れられることに……円丸は、狂いながら「早よ、芽え出しや」と、菊の鉢植えに肥やしをやり続けます。貸衣装屋のオバハンが、貸した羽織をむしり取っていきます。
そして、病院から迎えが来ます。
ここにいたるまで、住人たちは人情的で自分勝手、プライドが高いわりに線が細く、お人好し、涙もろくて面白い。
どこかで、自分を笑い飛ばしながら、風に震えている人間群像の描き方が見事であります。
どこか、ゴーリキーや黒澤明の『どん底』を思わせる話ですが、藤本義一という作家の人を見る目は暖かい。
円丸が精神病院に入れられるところで終わってしまえば、それはそれで、人間の破綻した生き様を描いたドラマにはなるのですが、藤本義一という人は、話を、こう続けます。
そこひを患った講釈師夫婦が、こう締めくくります。
「あんた、当たりくじを円丸はんに……あげたやろ」
「うん。せめてなあ……と、思て。ワシの目はもう見えへん。せやけど目えは見えんけど、涙は出てきよる」
そして、出囃子で幕が下りると思いきや……下手、アパートの入り口のところにサスがおち、円丸が肥やしをやった鉢植えの菊が見事に花を咲かせています。これは、本の指定なのか、鈴木さんの演出なのか、観る者の心にも花を咲かせる分かりやすくて、心を癒してくれる演出でした。
妙な例えですが『どん底』が、「ビーフシチュー」だとしたら、この『虫』は「肉じゃが」であります。それもたきしめて、肉やジャガ芋にしっかり味の染みこんだそれ。
道具は、ほぼ完璧なのですが、わずかに不満が残りました。
汚さがキレイなのです。汚しはかけてあるのですが、柱や軒、引き戸、フスマに寸分の狂いもない。場末のアパートなら、いささかのガタピシがあっても良かったのではないだろうかと。また三和土に汚れやクスミが無く、茶の間も、なぜかタタミではなく三和土と同じくパンチのジガスリのようで、違和感がありました。往来の道具作りの上手さが逆効果になったか……役者さんの演技が激しいので、滑ることを心配されたのかもしれません。
また、柱時計。往来なら針を動かすかと思いましたが、動かない。アラを見つけたと思って喜んでいたら、きちんと話の中でそうあるべしになっていました。以前このアパートにいた住人が、中身の機械だけを質に入れたというオチがついています。藤本義一といい、演出の鈴木さんといい、大阪という土地と人情を、よくご存じでありました。