本日は衆議院議員選挙の日で、今投票を済ませて帰宅したところである。投票したのは自民党。全面的に支持するわけではないが、他の党は有権者にとって心地よく響く公約を並べるだけで、実現する可能性がないからこそ、勝手なことがいえるのだと解釈している。
さて、希望の党は失速したようだが、その理由は小池党首が衆議院選挙に出馬しなかったことと、合流したはずの民進党議員を選別し基本理念・政策が希望の党と合わない人々を“排除”したことだと報じられている。
しかし、その“排除”には理解しがたい部分がある。もともと民進党議員には基本理念・政策が異なる人々がおり、原発問題や安全保障問題で党としての統一見解をまとめることが難しかった。つまり、民進党は本来の政党という存在ではなく、選挙目的の生活互助会だった。それが、小池党首の発言により、本来あるべき政党の姿になったわけで、小池氏の態度は政界全体の粛清という観点では、称賛されるべきである。
ところが、その“排除”が嫌われて、失速することになったとメディアは報じている。そして、小池氏を称賛する評論家・識者はいない。
では、その“排除”に嫌悪感を持ったのは誰なのか。“排除”された当人が反発するのは当然だが、党勢を失速させたのは、それまでは希望の党を支持しようと考えていた有権者だったと思われる。上から目線が気に食わないとか、言葉が強すぎたなどの批判があるが、そんな情緒的な理由で支持する政党が変わるのか。なぜ、政党の本来あるべき姿を示した希望の党を肯定的にとらえないのか。
排除された議員たちが集まって、立憲民主党を立ち上げたら、その“排除”に同情が集まったためか、以前の勢力を上回る形勢らしい。これも有権者が選挙を情緒的にとらえている証左であろう。
私は最初に述べたように自民党支持だから、希望の党の失速はどうでもいいことだが、なにか狂っているように感じる。