最初はSAH

2000.11にくも膜下出血(SAH)発症。無事後遺症もなく生還。今興味あること:脳のこと,教育のこと,テニスのこと

飛鳥 近江の旅(2)

2023-05-28 14:53:57 | Weblog

義仲寺

源義仲の墓

芭蕉の墓

芭蕉句碑
旅に病んで
夢は枯れ野をかけ廻る

 巴御前供養塔

  伊藤若冲の天井画
2日目はJR東海道線で膳所まで行き、駅から10分くらい歩いて、
源義仲(源頼朝の従弟)と松尾芭蕉の墓がある義仲寺に行きました。

義仲は、幼い頃、父の義賢が甥(頼朝の兄)義平に討たれ、
孤児となって信濃国に逃れて育ったので、木曽義仲とも呼ばれる。
源頼朝より先に京へ上り、朝日将軍と呼ばれ、
平氏を都から追い出すことに成功したものの、京の治安を守り切れず、後白河法皇と対立、
結局、頼朝軍に討たれ、粟津が浜で、最期を遂げる。

松尾芭蕉は旅の途中、この寺が気に入って、たびたびこの寺に滞在して句作していた。
生前から「骸は木曽塚におくるべし」の遺言通り、
大阪の旅舎で亡くなった直後、門人たちに守られこの寺に運ばれ、
葬儀が行われ、埋葬されたそうです。
芭蕉が、なぜそんなに義仲を気に入っていたのか謎?

境内には芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」の句碑をはじめとして、
たくさんの句碑が建っています。

また、芭蕉の滞在した翁堂の天井には、伊藤若冲筆の天井画、四季花卉の図があります。
(本物は、大津市歴史博物館にあって、ここにあるのは、レプリカだそうです)
巴御前の供養塚もあります。

巴御前は強者の女武者だったと言うことですが、
義仲との関係は、愛妾であったのか、単に主従だったのかは、ハッキリしません。

義仲寺は巴御前が、亡き義仲を供養した草庵が始まりと書いてありますが、
彼女は、義仲亡き後、鎌倉に落ちのび、和田義盛の妻となり(鎌倉殿の13人ではそうなっていた)
その後、和田氏が北条義時に討たれ、さらに越前に落ちて、出家して91才で死んだと言う説もあるそうです。

女性は、歴史の中で詳しく書かれていないことが多いので、小説になりやすいのですね。

義仲寺は、小さなお寺ですが、綺麗に手入れされていて、
色々なエピソードが詰まったお寺で、いいところでした。

長くなるのでこの辺で終わりにして、この先は改めて書きます。             つづく
コメント
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