今日は、退院後一週間の、検査と診察に榊原記念病院に行ってきました。 もう12月30日ですから、一般の外来は休みです。 救急外来は開いているので、ちゃんと予約を取ってくれて診察していただけました。 血液検査、心電図、レントゲン、どれも問題なく順調に回復しているとのこと。 「この病気は、病院にたどり着くまでに半数はお亡くなりになります。 運良く助かって、順調に回復して、本当によかった。 新年も自宅で迎えられますね」 との、ドクターの言葉でした。 |
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「この病気になるということは、血管が弱っていることですから、また起こることもあり、 動脈瘤ができることがあり得ます。生活習慣にじゅうぶん注意して、 医師の指導に従って、血圧管理をしっかりしてください」 ともいわれました。 この後は、自宅近くで、今まで通っていた久我山病院に紹介状を書いてもらって、引き継がれ、 半年後、一年後に、また、榊原記念病院で、診ていただくことになりました。 浴槽に浸かるのは、未だ一ヶ月後くらい、美容院は体調がよければ行っていいとのことでした。 手の痺れは、神経なので、たぶん、長く掛かるとのこと。(何とか自分で早く治したい!!!!) まぁ、何しろ順調でよかった、よかった |
昨日は、リモート会食で、娘と息子夫婦が、私の退院祝いをしてくれました。 毎年、家族で集まってXmasパーティーをやるのですが、今年はコロナ禍で、私も病後なので、 息子が提案して、リモートですることにしました。 8月のお盆の時も一回だけ、リモート会食をしたことがあります。 今度の病気では、子どもたちがすっかり大人になって、本当に頼りになりました。 手続きや、知り合いに知らせたり、 一般病棟は、面会禁止でしたが、ICUでは、一日一名許可されていたので、順番に来てくれました。 家で一人でいる夫のためにも、一緒に食事したり、娘は色々作ってもくれたそうです。 無事、退院できたことを家族みんなが喜んでくれ、本当に幸せ気分でした。 お正月は一日だけ、みんなで我が家に集まって、おせちを頂いて新年を祝おうと言うことになりました。 |
今日はクリスマスイブですね。 昨日、無事退院することが出来ました。 12月10日(木)に発症して、緊急手術を受けて 23日に退院ですから、ちょうど丸2週間で退院ということです。 胸骨を切り開いて、人工心肺装置を使用して、 一時心臓を止めて、心臓から最初に出る大きな血管を 人工血管に取り替える手術をして わずか2週間で退院できるって本当にすごいことです。 一般病棟に移って、 「順調にいけば後10日位で退院できるでしょう」 と言われた時には、 「こんな状態で退院したら困るな」 と思ったのですが、 日に日に傷も癒えて痛みも少なくなり、 身体も動くようになって、昨日は退院して帰りにスーパーによって 買い出しをしてきて、夕飯も少し夫に手伝って貰いましたが、 作って食べました。(久し振りの美味しい食事でした) |
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人間の再生力はすごいです。 手術中、人工心肺装置を入れるのに 私の血管がいい状態ではなかったので、他から血管を移植したとかで、 その影響で、右手の指先が痺れて、細かいことが出来ないという、 後遺症(薬でよくはなってきている)を除き、 生活に困ることはありません。 私って本当に強運の持ち主です。 皆様、ご心配いただき本当にありがとうございました。 |
リハビリも進んできて、最初は、病棟の同じフロアを歩くだけでしたけど、 昨日からジムでのリハビリが始まって、 自転車こぎをしてきました。 まるで、スポーツジムのようなマシンが揃ってます。 健康な人が汗をかきかきやっているのと違って、 パジャマを着た病人が厳重な血圧管理の下に こいでいて、なにかおかしいジムでした。 運動好きの私としては、ただ歩くより面白かったです。 体力もだいぶもどってきたし、 傷もだいぶ痛くなくなってきました。 退院も間近です。 |
又やらかしてしまいました。 今度は、急性大動脈解離です。 12/10(木)昼過ぎ、夫が散歩に出かけて暫くすると 突然喉元に強烈な痛みを感じました。 突き刺さるような痛みです。 「救急車!」 「でも動けるか?」 「スマホはどこか?」 どうやって電話したかおぼえていません。 後でスマホの履歴があったと言われて、思い出したのですが、 確かに、 「家には誰もいないので、二階に直接お願いします」 と、言ってベランダの窓の鍵を開けたのを覚えています。 |
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それからはまったく覚えていません。 しかし、又も強運な私は、 普段通っている久我山病院を経て、 ここ榊原記念病院に、左程時間もかからずに、 たどり着くことが出来、 緊急手術を受けることが出来ました。 詳しい検査はせず、 とにかく早く開けてみて、対処します。と言われ、家族も心配したらしいけど、 ドクターが自信ありげで同意書に、 手術時に予想される危険は、出血で、危険性は、15~20% と言ったので、大丈夫だと思ったとのこと。 また、何回かに分けて書きます。 疲れました。 もうICUを卒業して、一般病棟でリハビリしてます。 |
師走になって、ダウンコートを着るほどの寒さもくるようになりました。 来週は、冬将軍がいよいよ日本を狙ってるとか… 今日は、屋外テニスの練習日でした。 私たちが使っているコートには、オートテニス練習場もあります。 すぐ終わってしまって、練習した気分になれる程にやるには、 ちょっと私には経済的に無理かと思って、やったことがありません。 毎日、ここで1時間くらいでも練習できたら、もっとうまくなれるかなとも思いますが… 曇って気温は低かったのですが、風がなかったので、テニスするには最適でした。 「バックストローク、とってもよくなったわ」 ってコーチに褒めてもらえて、ちょっといい気分で終われました。 それにしても、 「○○さん、アキレス腱を切ったそうよ」とか「☆☆さん、交通事故で骨折ですって」 なんて話が多いので、年を考えて、無理せず怪我には、 くれぐれも気をつけなければと、自戒の念を新たにしました。 |
鹿児島純心女子大教授の古閑章先生から著作が送られてきました。 古閑章 著作集 第五巻 文芸評論1 「海音寺潮五郎論」集成 南方新社刊 古賀先生は、1956年生まれですから、私より7歳年下の方です。 以前から、海音寺潮五郎のファンであり、研究者であることは知っていました。 しかし、ここまで、丁寧に海音寺潮五郎の作品、人物を研究されているとは、知りませんでした。 巻末の解説に共立女子大文芸学部教授 はんざわかんいち氏、 そして、著者自身も書いていますが、 海音寺潮五郎は大衆文学作家であり、近代文学者が論ずる対象にはならないことが普通だそうです。 古閑氏も、もともと熊本の出身で、梶井基次郎の研究者だそうです。 それが、鹿児島で教鞭を執るようになり、 2000年「海音寺潮五郎生誕100年」記念行事で、 海音寺潮五郎作品、まずは、「二本の銀杏」に出会ってから、 すっかり虜になったと書かれています。 大学で教鞭を執るようになって、最近の大学事情の通り、研究時間もなかなかとれない中、 コツコツと研究を重ね、今、中仕切りとして、まとめ上げたものだそうです。 様々な作品を独自の角度から分析し、論じていますが、 どこにも、海音寺作品に対する愛情が溢れていて、本当に嬉しく思いました。 没後43年も経っている(1977.12.1没)のに、こんな読み方をしてくれる読者がいることは、 祖父海音寺潮五郎は、作家冥利に尽きるに違いありません。 あの世に知らせる手だてがあったらどんなに喜ぶかと、昔の笑顔が浮かびます。 そしてこの本が貴重であることは、 海音寺の代表作「二本の銀杏」「火の山」「風に鳴る樹」の、 さらに続く最後の部分になると思われる「一本の樫」が不完全でありながら、翻刻されていることです。 戦後まもなくまだ疎開先、郷里 鹿児島で書かれたものだそうです。 私も初めて読みましたが、 先の大戦の中で、人々が、日本の勝利を信じつつ(願いつつ) 真の戦況はいかなるかと、不安に思っていた様子が、人間模様を交えて語られていて、 途中までしか、見つかっていないので完結していませんが、 今の時代の人々にも読んで貰いたいと思いました。 |
昇仙峡に一緒に行った友人が、 「私、今度、昼神温泉に行くの」 と、言ったので、 「それなら、海音寺潮五郎の歌碑があるはずだから、もし時間があったら、写真を撮って、送ってくれない?」 と頼んだら、 「あった、あった! ちょうど、泊まったところからも遠くなかったので、散歩がてら行ってきたわよ」 と、送ってくれました。 この碑は、飯田市に住む郷土史家 故原彰一氏に、海音寺潮五郎から送られてきた書状に添えられてきた和歌を、 彼の教え子の、経営している旅館の庭に、建てたものだそうです。 海音寺潮五郎は、この手紙が届いた翌日に那須で倒れ、亡くなったと言うことですから、 最晩年のできごとですね。(1977.12.1没) 海音寺潮五郎記念館誌を編集していたときに取材したことがありました。 「みすゞかる 信濃の国は山ちかし どちらをむいても 山山山ぞ」 「昼神温泉ってどんなところ?」 と、友人に聞いたら 「お祖父さんの歌の通り、山山山に囲まれた温泉で、空気が新鮮。肌がつるつるになるすご~く気持ちのいい温泉だったわ」 とのこと。 昼神温泉ってひなびた山間の温泉地って思っていたけど、 「日本一綺麗な星空」「春の花桃」「美人の湯」を売りにして、 高級旅館もいっぱいある温泉地だそうで、 東京からは遠いけど、ちょっと行ってみたい気持ちになりました。 |