今朝はよいお天気でした。
ひめちゃんは道草です。
露地物のナスはさすがにもう枯れています。
ひめちゃんと獅子丸は岩神沼に到着しました。
残念、今朝は鳥さんはいません。
よいお天気なので、二人はもっと先の沼まで行きます
新沼に到着です。
向こう岸の芦原に、いつもの白鷺がいるようです
鴨もいます
となりの童沢沼(どうざわぬま)も確認です。
あ、鴨がいっぱいです
画面に入りきらない面々もいます
新沼に戻ります。
あれ、白鷺が飛び立ちます。
アオサギもいます
白鷺は少し離れたところにいます。
二人の間に何があったのでしょう?
数年前、山上城跡公園にある伝習館で、「山上氏」についての講座がありました。
テキストには、山上氏家臣団の一覧がありました。
講師の先生は、「みなさん、すごいですね。新里の名字がほとんどあります。みなさん、700年も、ずーっとこの地にいるんですよ」
みんな必死に自分の名字を探しました。
ひめちゃんちの名字もありました。
む、変だぞ
ひめちゃんちの本家筋の話では、戦国時代が終わって山上にやって来たそうです。
そのうちに、「井田がねーがね」という声が上がりました。
「そのころはまだこの地においででなかったのでしょう。」
「だって、古りーウチなんだよ」
この時は、それ以上の発展はありませんでした。
その後、常広寺にある、山上氏家臣団の一覧をみる機会に恵まれ、さらにそれを桐生図書館の専門家に鑑定して頂く機会にも恵まれました。
結果として、正応4年(1291)に山上氏家臣団の一覧が書かれたということはない。
天保3年(1833)にこの一覧を写したといっている人物が、自家のステイタスをあげるために創作したものだと断定されました。
そして、よくよく見ると、この人物には肩書きがあります。
大峰派権大僧都鏑宝院 鏑木武七正保
鏑木さんは、修験者だったのです
もちろん農村のリーダー的な存在でもあったでしょう。
明治になって修験道が禁止されて、修験者が廻りにいたことをみんな忘れてしまいました。
でも、戦国時代には、お城の周りに何人もの修験者が住み活動していたという話です。
お殿様(武将)の廻りで活躍していたのです。
江戸時代には帰農することが多かったと思われますけど、ただの農民ではなかったでしょう。
常広寺の和尚さんのお友達で、骨董仲間の井田さんは「お殿様に付いてきた」そうです。
井田さんもみんながみんな一家という訳ではなく、いくつかの系統があるそうです。
けれども、ある井田さんはもしかしたら羽生からやって来たかも知れませんね。
天正2年(1573)閏11月、上杉謙信の命で、羽生衆千余人は利根川を渡り山上にやって来て、膳城・山上城・葛塚城に分かれて住んだという事です。
山上近郊の名字がほとんどある家臣団に、井田を入れない理由は、一つです。
気に入らないのです。
商売敵なのです。
つまり、井田は修験者だった
羽生衆が山上になれた頃、天正6年(1578)上杉謙信は死んでしまいます。
越後に行く者あり、羽生に帰る者あり、山上に残る者ありでした。
井田は残ったのです。
羽生から来た修験者井田は、権大僧都鏑木正保には気に入らないライバルだったのです
そんな仮説も考えられまーす