雨の朝でした。
ひめちゃんと獅子丸はレインコートを着てのお散歩です。
昨夜から、みんなに犬用湯たんぽが入りました
これから春までお世話になります。
ひめちゃんちのガーデンでは、冬本番の花々が咲き始めました
楼蘭花(ろうらんか)の名札が残っている椿です
華やかだけど、ちょっと愁いの貴婦人という感じです。
枇杷の花も咲き始めました
今年の夏は、おいしい実をいっぱい付けてくれました。
昔々、実家では大きな枇杷の木があって、毎年たくさんの実をならせていました。
遠い遠い思い出です。
来年もよろしくね
名胡桃城に小川城のパンフレットもありました。
地図と縄張り図です。
一ヶ所右折するだけです。
中央の道路を左から行きます。
迷うことなく、到着です。
向こうに見える上越の山々は、もう白いです
道の反対側に、二の丸跡の表示があります。
地図にあったように、分断されてしまってます
赤い旗がいっぱいはためいている本丸跡の方へ行きます。
堀切がしっかり残ってます。
四阿(あずまや)が見えます。
公園になっているようです。
かなりよく整備されています
巨大な説明板があります
緑の支柱がたくさん有ります。
牡丹が植わっているのです
牡丹の名所になってるのかな?
その季節にも訪れたいものです
説明板はりっぱですけど、ちょっと文字が色あせてきました
名胡桃城で得たパンフレットによれば、
明徳2年(1492)、沼田荘田城主沼田景久が、西の備えとしてこの地に城を築城し、次男の小川次郎景亜紀に七百貫文の知行を與住まわせる。
永正2年(1505)、二代目城主小川三郎景祐は大峰山嶽林寺を創建。景祐四五、弟の秀泰が三大城主になる。
大永2年(1522)、秀泰の子景奥(興か)が四代目城主になる。
大永4年(1524)、9月四代景奥、火災により非業の死を遂げ、小川氏は一度断絶する。
天正年間初頭、上方の牢人赤松孫五郎と称する文武に秀でた者が来て大将のような振る舞いをしていた。後に入道し、小川城を嗣いで小川可遊斉(かゆうさい)と名乗り、五代目城主になる。
目をこらすと、説明板には、
四代景奥の子景季が若くして死んだ
景季の後家と女合わせ上杉謙信の裁可を得て名跡となり小川可遊斉と名乗る
そんな文字も見えます
四代景奥が死んだあと、一族間に跡目争いがあったようですね。
そんな中に、牢人赤松孫五郎がやって来たのです。
五代目になるはずだった景季には、妻がいたのです。
彼女は夫の死後も、小川城に留まっていたのです。
夫も舅も死んでしまったら、彼女が城主一族のトップですよね。
小川城・小川氏を存続するために、彼女は文武に秀でた上方の牢人赤松孫五郎を夫に迎える英断をしたのではないか?
戦国武将の妻達も、それなりの英断ができる女性がいっぱいいたことでしょう
そうでなければ、領地も家も持ちません。
花のない牡丹の城を歩きながら、ふとそんなことを思いました
大きな「小川城趾」の碑があります。
後ろにまわると、断崖絶壁の向こうに月夜野の町が見えます。
牢人赤松孫五郎は実在の人物なのですね。
いったいどうしてはるばる上野の山奥まで流れてきたのでしょう?
小川城の人々は、どうして彼を受け入れたのでしょう?
壮大な物語がありそうです
さあ、帰りましょう。
道の方に戻ろうとしました。
おや、横を見ると「本丸址」の文字が見えます。
藤棚やドライフラワーになった紫陽花もあります
地元の人々の力で、小川城は守られているのですね
花の季節が楽しみですね
奥に石宮があります
現役で活躍中のお宮のようです
静かに手を合わせます
二代目城主小川三郎景祐開基の大峰山嶽林寺にも、寄っていきましょう