黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

羽生衆はこの付近を渡ったか?(川俣締切阯・利根川東遷の記憶)

2021-03-24 19:55:49 | 埼玉県

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を出て、東の牧場に行きます。

途中の耕作放棄地で、アブラナにパクりつきます。

あきれるほど、アブラナが好きなきょうだいです。

 

ヤギさんいるかな?

やっぱり、ヤギパパと1名のボクです。

ヤギママと2名のボクはもう帰ってこないんですね

ヤギボクは、パパと仲良しみたいだね。

バイバイ、又来るよ

 

ひめちゃんと獅子丸は、鏑木側にかかる山神橋(さんじんばし)を渡って、上のタケイ沼に足を延ばします。

この川は、今だに人の命を奪える、怖い川です

15年くらい前かな、この牧場の主・アキラさんが、足を滑らせて亡くなったのです。

気を付けようね

 

さて、沼はどうかな?

あれ、誰もいないみたいに静かです。

水量が大分へってます

そうこうするうちに、カモさんが大勢飛び立ちました。

ひめちゃんたちの足音聞こえて、隠れていたのかな?

元管理小屋の北の沼には、いっぱいのカモさんです。

 

サマンサ坂を通って帰ります。

かゆいね。

みんなそろそろシャンプーを考えないとね。

 

長安寺跡を通ります。

あれ、お地蔵様の帽子とオガケが新しくなってる

時々変えてもらうと、道行く人も犬も、気持ちが救われるね

そうそう、ここには羽生衆・木戸玄斎の墓があったという話もあります

 

 

(3月16日)

川俣関所跡から、国道122号線を横断して、「道の駅はにゅう」に入ります。

 

駐車場は、ほぼいっぱいです

やっと駐車です

 

道の駅の建物北側に、埼玉県指定史跡「川俣締切阯」がありました

 

説明板を確認です。

近世以前の利根川は、武蔵・下総両国の国境を南に流れ、現在の東京湾に注いでいた。千葉・茨城両県境を東流し、千葉県銚子市から太平洋に注ぐ現在の流路は、利根川東遷と呼ばれる近世前期の大規模な流路変更と河川改修によって付け加えられたのである。~(中略)~当時、利根川の流れは幾筋にも分流しており、新郷川俣付近においては、南流して現在の加須市志多見、加須を経て川口へ向かう会の川筋と現在の河道を東流する一流に分かれていた。文禄元年(1592)に忍城主となった松平忠吉の命を受け、付家老の小笠原三郎左衛門𠮷次が指揮して、新郷に堤を築いて会の川筋を締切り、同三年に利根川本流を東流させたと伝えられている。~(後略)~

 

そうだったんですか

でも、

(石碑には史跡とあるが、場所の移動に伴い旧跡に指定替えとなった。)

とあります

 

本来合った場所は何処でしょう?

いろいろ検索すると、ここから約400m下流の利根川右岸にあったという事です。

 

400m、ちょっと遠いかな?

そのうちに行ってみましょう

 

〆切神社ですか

もしかしたら人智を超えた、神のご加護があったのかもしれませんね

 

突然、伊沢八郎の「ああ、上野駅」の歌が流れます

 

隣に「羽生の作詞家 関口義明先生の顕彰碑」がありました

東北出身者の作詞ではなかったんですね

誰かが、このスイッチを押したのかな?

 

さらに隣には、何やらよくわからない掲示があります

このフエンスの向こうは、非常時にはヘリポートになるんですね

さらに向こうは、土砂備蓄ヤードとあります。

こんな関係で、「史跡・川俣締切阯」は、移転したのかもしれませんね。

 

 

天正2年(1573)閏11月、羽生城を捨てて上野国山上(こうずけのくにやまがみ)に向かった羽生衆千余人が渡った利根川は、もしかしたら、会の川(あいのかわ)と分かれ東流する利根川だったかも知れません

400mよりもう少し東、500mくらいかな?

羽生城から北に向かってくればいいのですものね

水量もウチバだったかも知れませんね。

その後、早川の南端にまで到達するのは、それなりに大変でしょうけど。

そのうちにまた、羽生城(古城天満宮)に行ってみましょう

今回は、ひめちゃんたちが待っているから帰ります。

国道17号線新上武大橋の大渋滞に巻き込まれて、大分予定時間が過ぎてしまいました。

 

 

道の駅で、お彼岸用の花を買って、昭和橋を渡って上野国山上に帰りました

 

コメント
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