黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

新田赤堀・万日堂(獅子つながりな話)

2020-09-24 20:06:12 | 群馬県・東毛

ひめちゃんと獅子丸は、ガマの穂繁る堀切跡を過ぎて、岩神沼に到着です。

獅子くん、いつものポーズです。

今朝は誰もいません

 

すぐ上の高縄の摩崖仏に寄ります。

やっと彼岸花のつぼみが上がってきたところです。

満開は何時かな?

 

久しぶりに、上の新沼まで行ってみます。

小さなカモが2、3羽いるだけです

 

子牛の牛舎を通ります。

ここは乳牛の子牛です。

 

道ばたの白い彼岸花が満開になってます

 

獅子丸が、突然ハンターに変身です。

あたりには何もいません

獅子丸は、門柱の上のシーサーを見ています。

獅子くん、ちょっと無理みたいよ

それはシーサーだよ、猫じゃないよ

この道は時折通りますけど、獅子丸がシーサーに反応したのは初めてのことです

 

 

 

貴先神社をでて県道に戻り、木崎宿の信号を右折して旧銅山街道しばらく行き、ストリートビューで見たことのある信号を右折します。

難なく到着です。

と思いきや、車が止められません

境内に入れないのです。

ほかの入り口を探して、周辺を一回りです。

 

お堂があります

万日堂とあります。

どうも無住のようです。

 

お堂の脇に、気になる墓石があります。

「祖海禅牛沙弥」、和尚さんではなく、沙弥ですか

沙弥とは、まだ出家したばかりで修行中の未熟な僧ということだそうです。

明治初年に、この万日堂を守っていた方ですね。

 

石造物もしっかりあります。

一番左の如意輪観音目立ちます。

ここは上州新田郡赤堀村です。

 

さて、赤堀の万日堂とは、どんな寺院でしょう?

いくら検索しても出てきません

 

またいつもの新田町誌基礎資料第8号『村々の沿革と絵図』を参照です。

赤堀の中世・近世の項に、

寺院は北部上江田村境に、天台宗大方坊薬王寺があったが、弘化二年(1845)に火災で焼失し同村万日堂に合併。檀徒は中江田村の来迎寺に移ったと伝えられている。

とあります。

そうすると、万日堂は天台宗かな?

現在管理しているのは、中江田の来迎寺かも?

 

もう一カ所、太田市観光物産協会のHP「赤堀八幡宮の獅子舞」のページに「万日堂」の文字がありました。

(獅子舞は、八幡宮の社前で舞い奉納し、村廻りになります。)村の中央墓地にある万日堂で祖先に村内安全を祈り、本郷・下蓄・神蓄の順に万燈を先頭に笛・太鼓を叩きながら廻ります。

村を廻る獅子舞が最初に寄って、村内安全を祈願する場所なのです。

 

あれ、今日は獅子丸・シーサー・獅子舞、獅子つながりなお話でした

 

さてさて、なんとか八幡宮に寄らなくてはなりません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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続・桂の木に白鷺が住んでいます

2020-09-23 21:46:41 | 日記

20日、久しぶりに、諏訪神社の前から妙義山が見えました。

ここは、赤城・榛名・妙義の上毛三山がみえるパワースポットのようです。

ひめちゃんたちも、よくお散歩してパワーをもらってます。

 

この諏訪神社は、中世文書にも登場しています。

ひめちゃんちのあたりは、中世には葛塚村と呼ばれていました。

葛塚村関係の文書で一番古いと思われるのが、建武元年(1334)11月27日の太田貞宗寄進状です。

諏訪神社への寄進のことが書かれています。

597 太田貞宗寄進状
    ○神奈川県 鎌倉中央図書館所蔵神田孝平氏所蔵文書

寄進
 上野国山上葛塚村諏訪両社上下神事幷燈油等料田事
右、當保田部村新平三入道作田屋敷幷葛塚村和泉坊作田屋敷、源六入道跡田屋敷河ハタ田等、限年紀沽却訖、年紀以後、所寄進當社也、以件得分、神事料田不足之時、且令勤行祭祀、且可備當社燈油也、為祝管領可勤彼役也、乃寄進状如件、
     建武元年十一月廿七日
        前美作権守貞宗 (花押25)

(『群馬県史資料編6中世2』)

中世から、山上の信仰の中心であったのです。

そして、建武元年、なんとこのあたりの領主は、山上氏ではなく太田氏であったのです

 

9月というのに、ツツジが咲いています。

今年2度目の開花です。

花はちょっと小さめかな?

ひめちゃんたちは、少し先の高台を廻って帰ります。

帰り道、獅子丸はサツマイモの生い茂る葉っぱを見付けました。

よだれが垂れそう

芋が見えないのに、どうして分かるのでしょう?

 

ひめちゃんちの桂の木が見えるところに、白鷺の姿がありました。

これが、桂の木に住んでいた白鷺の元気な最後の姿です。

 

21日午後、妙にカラスが騒いでいました。

なんと、カラスの大群が桂の木の白鷺を襲ったのです

上の写真で白鷺が飛んでいる田んぼで、空中戦が行われています。

白い大きな鳥を、たくさんのカラスが責め立てています

ひめちゃんちのおとうさんが草刈り機を持ってそこら辺を草刈りして、追い立てます。

みんな飛び去りましたけど、その後もカラスは桂の木にやって来ていました。

なんとしても白鷺を追い出そうとしています。

自然は厳しいものです

 

22日の朝、ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます。

白い彼岸花が咲いていました。

リコリスはもう散ってますから、赤い彼岸花の突然変異でしょう。

あたちには、関係ないわ

 

帰り道、あれ、白鷺がいる

あの子かわからないけれど、逢えてよかったね

稲穂がたわわに実ってます。

 

今朝、ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出ます。

出口の南にはアオサギがよくいます。

今日こそカメラに収めたいと、南を見ていました。

残念ながらいないようです

ふと北を見ると、白鷺です

ちょうどひめちゃんのシッポの奥の方にいます。

 

諏訪神社の向こうの高台を廻って帰ります。

赤城山はかろうじて、その姿が確認できます。

もう冬野菜の植え付けが始まってます。

ブロッコリーかな?

 

山上の蓮田の蓮も枯れ始めました。

種もできているようです。

来年も逢えるかな?

 

諏訪神社前を通って帰ります。

コスモスとカーブミラーのコラボです。

 

堀之内近くまで戻ると、あれ、まだいる

胸の黒いのは、もしかして一昨日傷ついた?

腰をかかめて歩いてると思いきや

うまく撮れませんでしたけど、飛び立つ瞬間でした。

ひめちゃんちの桂の木に住んでいた白鷺かどうかわかりません。

でも、逢えてよかった

カラスに気を付けてね

 

 

 

 

 

 

 

 

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木崎の鎮守・貴先神社(きさきじんじゃ)

2020-09-21 20:38:23 | 群馬県・東毛

朝、ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます。

後ろから、タバサねーちゃんと小次郎パパがやって来ます。

ひめちゃんは、一応おねーちゃんをたてています。

でも、微妙?

二人はお父さんを連れて追い越して行きます。

ひめちゃんと獅子丸は、堀切を抜けて、沼の方に行きます。

ここは、昔は水田だったはずです。

ガマの穂が目立ちます。

 

 

新らしい木崎宿の道標の次の信号を、左にみて直進です。

次の信号の角に、貴先神社(きさきじんじゃ)があります。

南から回り込んで、駐車場に入ります。

 

信号の所に戻り、鳥居から入り直しです。

一の鳥居の額は、ちょっと焼けているような感じです。

新田町誌基礎資料第8号『村々の沿革と絵図』(木崎)によれば、

(木崎の)鎮守は貴先神社(祭神大己貴命)がある。当宿が整備される以前から祠があったと伝承する。寛文八年(1668)社殿を再建するが、明治三年宿の火災で類焼、同七年再建される。~中略~明治五年太政官による娼妓解放令が公布された。同八年「娼妓貸座敷取締規則」の施行によって旅籠屋は「貸座敷」と名将をかえ、同十四年には二三軒の貸座敷が見える。木崎宿が明治に入って「色里」として全盛期を迎えるのもこの時期である。

木崎宿の一番華やかな時代の記憶なのですね

 

二の鳥居をくぐります。

こちらは、貴先神社とはっきり見えます。

 

変わった形の灯籠があります

見返り鹿かな?

 

拝殿の向拝には、龍ではありません

馬と馬子と武士が見えます。

例幣使街道の昔を懐かしんでかな?

 

龍は横の方にいました

 

社殿の周りを一回りです。

本殿は拝殿にすぐ続いています。

本殿の屋根の下には、鳳凰?

 

後ろには石造物があります。

 

東に廻ります。

屋根の下には鳳凰ですね。

龍の上には鳳凰です

 

決して大きくはないですけど、かつての木崎宿の繁栄が偲ばれる凝ったこだわりの社殿です

 

この日はちょうど、境内の草刈りの日でした。

「こんにちは。きざき神社ですか、きさき神社ですか?」

「きさき神社だよ。お妃様のきさきだよ

「ありがとうございます

 

新田の銘木・ヒヨクヒバ(比翼ヒバ)を見ながら、お別れです。

 

さてさて、初期の目的地・新田の赤堀八幡宮を目指しましょう

 

 

 

 

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目を治す薬師様(木崎宿・医王寺)

2020-09-20 15:29:58 | 群馬県・東毛

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出ます。

この出口付近には、アオサギの目撃情報があります。

今朝は、ちょっといなそうと、油断していました。

大きなグレーの鳥が、下の田んぼから飛び立ちました。

カメラは間に合いません

いるものと思って稼働させておかないといけませんね。

諏訪神社の向こうの高台を歩いて、戻ります。

 

ひめちゃんが、気づきました。

稲穂の向こうの草中に、いました

獅子くんも気がつきました。

飛び立つかな?

飛び立つ白鷺の姿を捕らえるのは難しいです

数年前には、こんなにサギに出会うことはありませんでした。

環境が良くなったのかな?

 

 

旧来迎寺跡から、県道312号線(日光例幣使街道)に戻ります。

少し行くと、お寺らしいです。

ちょっと寄り道です。

 

山門らしき方から失礼します。

通称上町薬師様 医王寺 天台宗

木崎宿が宿場の盛んな頃、目病で苦しむ方々の参拝で知られたのと、大変結縁の寺として皆様から尊敬されたと言伝へがあります。

台風によ破壊され大正十五丙寅歳五月十四日再建

 

このお地蔵様についてはわかりませんね。

参道の右側には、常夜灯と灯籠です。

普通は左右一対2基有るはずです。

台風で壊れたのかな?

 

本堂への参道には、大きなろうそくが導いてくれます。

参道左脇に、新田の銘木の案内です。

お寺の案内にもなってます。

この二本の銀杏は、当寺前の参道に、同時に植栽されたものと思われる。木崎宿が盛んな頃は、眼病を治す薬師様として知られ、近郊から参詣者が訪れ、縁日には、出店が並んだ。

当寺は、薬師如来を祀り、康平四年(1061)に恵心僧都の高弟源意法印が草創と伝う。応永(1390)、文明(1469)に兵火に懸かり、また木崎宿の移転で、現地に移った。

そうだったんですか

平安時代末期の創建と言うことですね。

 

とりあえず、本堂に参拝です。

どうも無住のようです。

向拝で、とにかく合掌。

 

上を見上げて、はてこの霊獣はなんだろう?

虎?

再建の歳は、丙寅(ひのえとら)とありました。

 

こちらは、象と獅子かな?

 

屋根の上にも霊獣がいます。

なんとなく獅子っぽいですけど?

 

本堂の右手に、石造物です。

朱がのこる割れた如意輪観音が気になります。

本堂の裏にも、石造物です。

石造物は少ないです。

よそに墓地があるのでしょう。

 

本堂の西から、新田の銘木銀杏がよく見えます。

 

もう一度、本堂を見ると、屋根の上の霊獣の位置が気になります。

対照的な位置にありません。

一応、阿吽のようにも見えます。

なぜ、その位置なのか不思議です。

 

さようなら、いつまでもお寺を守ってね

 

さて、県道に戻ります。

まもなく、木崎宿の新しい道標です。

西・柴宿とあります。

柴宿(伊勢崎市柴町)は、七海ママの生まれ故郷です

 

 

 

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旧来迎寺跡地の宝篋印塔(中世中江田の記憶)

2020-09-19 22:38:17 | 群馬県・東毛

今朝、ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出てお散歩です。

あれ、刈り取りのおわった田んぼに白鷺(しらさぎ)です。

ひめちゃんと白鷺の初めてのコラボです

サギさん、刈り取られた田んぼの淵で何思う?

ひめちゃんたちは、字・天神の田んぼを廻って帰ります。

庚申塚古墳の前を通ります。

あれ、双体道祖神のお隣は馬頭観音ですか

馬頭観世音の文字がはっきりと見えます。

 

 

来迎寺から、県道を東に少し行くと「山茶花」というお食事所があります。

そこから南に下ります。

まっすぐ行くと右手にあるはずです。

かなり下りました。

心細くなったころ、やっと右手に墓地が見えます。

もうここはまもなく国道17号線(上武道路)と合流しそうな所です。

あそこに見えるのは、17号線です。

 

路上駐車で、ちょっと失礼します。

案内板もあります。

 

来迎寺はここにあったんですね

明治元年の火災の時、阿弥陀如来坐像の仏頭だけ引き抜かれて救出されたという事でした。

その仏頭の写真は、『太田市の文化財』(太田市教育委員会・平成28年)にあります。

「鎌倉時代後半から終末に製作されたと推定されます。」とあります。

大事な中世の記憶ですね。

 

さて、宝篋印塔の説明板です。

応安三年(1370)の銘があるのです。

この宝篋印塔は、650年もの間、ここで世の移り変わりを見てきたのです。

 

史跡めぐりのスタンプボックスがあります。

スタンプもあります。

新田町の時代のものでしょう。

太田市になってから、おおたんのスタンプラリーの会場にはなってないようです

 

さて、宝篋印塔とご対面です。

文字がはっきり分かります。

650年立っても、しっかり残ってるって、すごい

 

北側はちょっと見にくいです。

台石は、古い石造物のパーツを使ってるような感じです。

 

中江田(なかえだ)は、中世の記憶がいっぱいあるようです

『新田町誌基礎資料台8号・村々の沿革と絵図』(平成3年)にも、次のようにあります。

江田郷は新田荘に属し、新田氏支族・世良田系江田氏の所領で、世良田頼氏の一子・満氏および世良田義有の一子・行義が江田氏を名乗った。確かな年代は不明だが数代が中江田に住んだと伝承し、新田義貞と鎌倉攻めを共にした。江田三郎行義の館跡と伝える所が字本郷にある。

 

そういえば、2年前に金山城ガイダンス施設で「江田館跡はどこに?」という企画展をやってました。

普通は、新田荘遺跡の江田城が、中世江田氏の居館と考えられています。

「江田館跡を整備するための発掘で、館が形成されるはるか昔のムラや、戦国時代のものと考えられる建物跡が多数確認されています。」とあります。

つまり中世の遺構はなかったということになります

それでは、「中世この地を支配した江田氏の江田館はどこにあったのだろうか?」ということになります。

中江田はその一つの候補になるですね

 

 

 

 

 

 

 

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