黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

続・相應寺の謎

2020-12-24 21:59:42 | 群馬県・旧勢多郡

タバサねーちゃん、お出掛けです

お部屋(サークル)のドアーを開けてもらって、車に飛び込みました。

あれ、何処へいくんだろう?

かなり不安です。

不安は的中です。

行き先は、動物病院でした

順番待ちで、お外で待ちます

でも、お出掛け楽しいね

よい子でワクチン接種できました

 

 

 

相應寺からどのような道を辿って、あの巨大な庚申塔まで行ったのでしょう?

目的地は、ほぼまっすぐ北です。

とりあえず、今はあの踏切を渡るしかなさそうです。

 

踏切を渡ると、県道3号線です。

少し行って、旧の県道3号線に入ります。

かなり本格的な青面金剛です。

どうしてここにおいでなのでしょう?

ポツンとお一人様です。

ここから細い道ですけど、北上してみます。

 

民家の垣根にさりげなく庚申塔です

 

次の交差点に道標があります。

「西 月田・稲里・馬場」です。

あれ、馬場は日光裏街道の宿場でしたね

「北 関・板橋・梨木」です。

 

北へ行きます。

次の交差点角に、真新しい庚申塔です。

 

そのまま北上すると、字天神の田んぼになります。

石造物はなさそうなので、東に曲がってから北上します。

 

途中、町組という場所のパワースポットです

都合により、車の中からの撮影です。

 

あの白い塀の向こうがさっきのパワースポットです。

道標があります。

北 板橋・赤城かな?

 

近くに、巨大な道祖神です。

これまた巨大な庚申塔

残念ながら、どちらにも銘は確認できません。

 

直進して、庚申塚古墳です。

石造物がいっぱいです。

双体道祖神もあります。

 

更に北上して、後閑(ごか)の薬師堂です。

お堂の中の薬師様は、石仏です。

 

また、北上します。

紆余曲折して来ましたけど、もうすぐ関の摩崖仏です

 

沼の下の巨大な庚申塔です

墓地もあって、石造物もあります。

薬壺を持った薬師如来です。

その隣は、いかにも古そうな石です。

 

新沼&童沢貯水池を脇目に、鏑木川にかかる不動橋を渡ります。

鏑木川を不目で移動するようなイメージの山神様です。

 

橋を渡ると、関の摩崖仏です。

摩崖仏の前に、不動明王像です。

関の(滝沢不動尊の)前不動堂なのです。

滝沢不動尊までの距離が74丁なのですね。

 

瀧興寺は江戸時代中期から滝沢不動尊の管理を室沢村とも間で交わしていた。尊盛は住職を尊英に譲り滝沢不動尊の守護に力を入れた。天明三年(1783)に焼失していた不動堂を再建しそれを記念して丁杭を立てた。(『ぐんまのお寺・真言宗Ⅰ』)

 

初めは、この丁杭の意味がわかりませんでした。

滝沢不動尊まで行ってきて、やっと丁杭の意味がわかりました。

ここを経由して、滝沢不動尊に行っていたのです。

前掲書によれば、ここは瀧興寺(りゅうこうじ)の持ちとあります

不動明王像があるのもやっと納得です

そばの鏑木川に架かる橋が、不動橋なのも納得です

 

相應寺からの人々も、ここを経由して滝沢不動尊に行っていたかも知れません

前掲書に寄れば、相應寺が隆盛をきわめるのは、丁杭が設置されてから少し後のようです。

先輩格の瀧興寺に影響を受けていたかも知れませんね

 

昨日の瀧興寺です。

ロウバイの花が咲きそうです

今はこの寺も無住です。

ちょっぴり悲しい、滝沢道七十六丁目の丁杭でした

 

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相應寺の謎

2020-12-23 21:02:40 | 群馬県・旧勢多郡

今朝は寒さが和らぎました

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内の北をお散歩です。

おや、小次郎パパとタバサねーちゃんがやって来ます。

タバサねーちゃん、何かおねだりしてるみたい?

穏やかな冬の光の中、堀之内の西を歩いて戻ります。

赤城山の雪も少なくなっています。

 

 

昨日、ひめちゃんと獅子丸は、関の摩崖仏の手前、新沼&童沢貯水池まで行ってきました。

その帰り、見慣れた庚申塔ですけど、人名が見えます

相應寺僧快?書かな

相應寺、聞いた事ありません。

ここら辺にあった廃寺かな?

 

常広寺で以前にもらった、「南勢多郡の廃寺」(群馬県勢多中部仏教会、平成23年、内田憲治)という小冊子を広げます。

あれ、ありません

無住になっているが宗派を同じくする寺院の僧侶が兼務している寺の1つに、相応寺があります。

山上字天笠南の新義真言宗豊山派里尾山相応寺は、関字中通の瀧興寺が兼務しているとあります。

 

ちょっと確認です。

地図には出ていません。

グーグルのストリートビューでだいたい見当を付けて、訪問です

 

門柱等はありませんけど、お寺です。

階段を上がってすぐ、個性的な六地蔵がお出迎えです

参道の左側は、墓地です。

 

とりあえず本堂を目指します。

参道に牡丹の苗木が植えられています

牡丹寺目指してるかな?

本堂は新しいようです。

本堂に相應寺の額が懸かってます。

 

隣に民家のような建物があります。

その前に、蚕影山神社があります。

 

境内の石造物を確認です。

 

元文元年(1736)の文字が見えます。

 

かなり古い五輪塔です。

中世の遺物かな?

 

立派な五輪塔群です

 

ちょっときつすぎかな?

いろいろな石造物が所狭しです

延享二年(1745)、幼くして亡くなった女の子の墓標です。

合掌

 

入り口の右側の灯籠に、寛保2年(1742)とあります。

墓地分譲中の看板の東にも石造物です

往時は、境内はもっと広かったのでしょう。

 

念のため、『ぐんまのお寺 真言宗Ⅰ』(上毛新聞社 平成13年)を開いてみました。

ありました

所在地 勢多郡新里村大字山上495

山号院号寺号 里尾山長寿院相應寺(さとおざんちょうじゅいんそうおうじ)

宗派 真言宗豊山派

 

同書によると、

この三度の火災で寺の文書、本尊、寺宝類のすべてを焼失し由緒等は不明である。加えて再三の火災で有力檀家が離檀し、さらに衰退を早めた。

 

摩崖仏のある関の瀧興寺が兼務していたのですね。

でも現在はその瀧興寺も無住で、別のお寺が兼務しているようです。

 

この相応寺の住職が、関の摩崖仏への道の巨大な庚申塔の文字を書いたのは、どうしてでしょう?

 

(つづく)

 

 

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七海ママのふるさと5(那波氏の中興・泉龍寺)

2020-12-21 20:59:53 | 日光裏街道

昨日より少し寒さの和らいだ朝でした

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます。

岩神沼には、何もいませんでした。

高縄の摩崖仏は、参道に農業用資材が置いてあって、通行不可です。

もう逢えないかな?

 

摩崖仏の裏から、雪を頂いた信州の山々が見えます

 

ひめちゃんたちは、更に上の蕨沢川源流・新沼&童沢貯水池を目指します。

新沼は静かでした。

隣の童沢貯水池は、いつものように奥の方にカモがいます

 

帰り道、巨大な庚申塔があります。

今朝は、左に相応寺の文字が見えます

相応寺、かつてここらへんに存在した寺かな?

 

 

 

柴町八幡神社から帰ろうとして、ふと見ると門柱があって松並木が続いています。

史跡がありそう。

通れるかな?

松並木の参道を進みます。

 

泉龍寺です。

応永元年(1394)那波城主大江宗広が白崖宝生禅師を招いて中興開山としました。~(中略)~寺宝の白崖宝生禅師画像は、県指定重要文化財になってます。

白崖宝生禅師画像の説明板もあります。

どんな画像なのでしょう?

お目にかかるのは無理でしょう。

伊勢崎市教育委員会で出している「伊勢崎市文化財ハンドブック」にありました。

この方です

 

境内の入り口には、巨大なお地蔵様が左右に3体、合計6体おいでです。

六地蔵という事かな?

佐波伊勢崎観音霊場なのです。

もともとは柴町にあった密厳院から移した観音堂の聖観音とあります。

御朱印が出そうですけど、今の時節、又の機会にしましょう

 

まだ紅葉が鮮やかです

この日は12月13日でした。

古い石仏が積み上げられています。

りっぱな宝篋印塔もあります。

 

本堂は新しそうですね。

さっき平成10年の建立とありました。

読経の声が聞こえてきます。

法事があるようです。

静かに目立たないように、境内を散策です。

 

子安観音かな?

小さな六地蔵です。

 

覆屋の下に、古い石仏です。

延命地蔵菩薩並薬師如来です。

延命地蔵菩薩は、室町時代の応永年間(1394~1437)の造立とあります。

そうすると、中興当時の造立ということになります

名和(那波)の歴史を見つめ続けてきたんですね

左の薬壺を持っている薬師如来は、やや時代が下がるとあります。

 

奥に赤い屋根のお堂があります

大本山円覚寺百観音霊場と旗めいています。

失礼します。

厄除観世音とあります。

お姿はうかがえません。

でも、厄除けよろしくお願いします、合掌

 

左の方には、真っ赤な鳥居と社です

説明板があります。

正式には稲含荼枳尼天(いなぶくみだきにてん)といいます。五月の八十八夜が縁日で、以前は養蚕と農家の豊作を祈る人々で大変にぎわいました。

懐かしい日本の風景ですね

 

さらに奥は墓地でした。

墓地を少し探しましたが、那波氏の墓は見つかりませんでした。

法事で人がいるので、邪魔をせずに捲土重来を期して、退却します

 

戻る途中、鐘楼堂あります。

森の中にすっかり溶け込んでいて、さっきは気づきませんでした。

あれ、松って横にも延びるんだ

 

松並木の参道を帰ります

あの右奥の建物の隣が、柴町八幡宮です

思いがけず、那波氏中興のお寺に参拝できました

七海ママのふるさと、名和(那波)の那波氏の記憶です

 

 

 

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七海ママのふるさと4・柴町八幡神社

2020-12-20 21:18:16 | 日光裏街道

ひめちゃんは小次郎パパと堀之内を北に出ます。

赤城山は、吹雪いています

寒いね

 

堀之内に戻るとき、見たことある2名がやって来ました。

タバサねーちゃんは、ちょっとご挨拶。

先に帰るね

獅子丸は、知らんぷりです。

 

何時の間にか日射しも出て、足の長ーい親子の散歩になりました

 

 

 

五料橋を渡って柴町に戻ります。

柴町の信号を過ぎてすぐに、左の奥に鳥居がみえました。

柴町八幡宮の鳥居です。

車が入れるか不安だったので、次の路地を入りました。

まもなく社務所らしき建物があって、何人ものおじさんがいます。

「こんにちは

おじさん達からは、返事がありません。

みなさん何かに夢中で忙しいようです。

失礼して、駐車させてもらいます。

 

それでは鳥居から入り直して、参拝です

鳥居の周辺は、石造物だらけです。

ほとんどが庚申塔です。

その中に1基だけ、太田神があります。

太田神は、どんな神なのか分かりません。

 

さて、拝殿を目指します。

小さな太鼓橋が残ってます

かつては川が流れていたのかな?

 

拝殿左前に説明板があります。

拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造りの建物で、天井画は鈴木不求・春山・松山の三代にわたる伊勢崎藩絵師が描く。

 

天井画があるんですか

 

拝殿で参拝です。

扉は堅く閉ざされていて、天井絵は拝めません

 

龍がいます

迫力があります

おそうじしてあったら、もっと迫力があることでしょう。

 

右から、社殿を廻ってみます。

八幡神社の幟がたくさん揚がっています

本殿も、まだしっかり赤く残ってます

 

本殿裏には、庚申塔はありません。

やはり石宮です。

 

本殿の内部は全くうかがえません。

 

一周してきました。

 

神社は、本来は赤い世界なのでしょうか?

 

龍がさっきより生き生きしています

いまにも飛び出して来そうです

 

説明板にあったように、

この神社は十八世紀初頭の伊勢崎地方の近世寺社建築の優れた指標を示し、社地は参道を含め、旧日光例幣使街道柴宿の歴史的景観の名残をとどめる。

 

日光例幣使街道名残の、柴宿八幡神社です

 

 

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五料の常楽寺

2020-12-19 14:58:59 | 日光裏街道

寒い一日です。

でも、朝は穏やかに晴れました。

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出て、諏訪神社の向こうの高台を歩いてきました。

ひめちゃんは、ご褒美の催促です。

獅子丸は、ブロッコリーの葉っぱを見付けてしまいました。

むしゃむしゃ、ひたすら食べ続けます。

ブロッコリー畑の向こうに、妙義山が見えます。

浅間山、榛名山も見えます。

浅間山は、しっかりと雪化粧しています。

赤城山は、東の方だけ、雪が残っています。

子供達の姿もなく、ひめちゃん元気にお散歩できました

 

 

 

五料の関所そばの常楽寺については、検索してもわかりません。

そうだ、以前玉村歴史資料館でもらった資料にあるかな?

少しだけありました

 

「玉村町地区の歴史」柴根地区編によると、

常楽寺

天平年間(729~49)に行基の開基と伝わります。また、南北朝時代と推定される薬師如来像石仏や像種不明の室町時代と推定される石仏が残ります。参道には庚申塔や二十二夜塔など主に江戸時代の石造物が立ち並びます。

同書には、五料の地名の由来もあります。

五料の地名の由来は、角淵にあった西光寺(玉村町下新田)の稚児千代寿丸が、柴(伊勢崎市柴町)からの渡船の転覆により溺死した。その「御霊」の供養に基づくとされます。

 

例幣使街道最大の難所だったのですね

 

石仏の写真展表紙の左下、常楽寺の弘法大師坐像刻出とあります。

逢えるかな?

 

 

何故か門柱の隣にガソリンスタンドが有ります

参道には、本当にたくさんの石造物です

 

まあ、とにかく山門をくぐりましょう。

 

山門前の如意輪観音です。

大人の雰囲気です。

如意輪観音はいっぱいなのに、この方だけ門前です。

 

参門脇の出入口の上には、左右共に獅子がいます

変な者は通れませんね。

 

中央から、失礼します

 

境内にも、たくさんの石造物です。

 

この方はどなたでしょう?

唯一、覆屋の中においでです。

あれえ、あの弘法大師は何処だろう?

 

古い石造物が山積みになってます。

あの一番上の石仏、写真で見た弘法大師坐像です

室町時代の石造物が、あんなところに

何時までも、衆生を見守っていてくださいね

 

本堂の階段脇にも、古い石造物です。

左は薬壺を持っています

薬師如来です。

「南北朝時代と推定される薬師如来像石仏」と「像種不明の室町時代と推定される石仏」ですね

 

作業用の車が見えます。

邪魔にならないうちに退散しましょう。

桜の季節にでも、再訪したいですね

 

山門外の石造物にご挨拶です。

かなり目立つ石仏です。

片足あげてるけど、未開花の蓮を持ってます。

聖観音かな?

 

こちらは、如意輪観音ですね。

 

如意輪観音も、お地蔵様もたくさんおいでです。

多くの石造物が立ち並ぶ寺でした

 

玉村町の史跡も、そのうちに歩きましょう。

今回はまた五料橋を渡って、七海ママのふるさとの柴町八幡宮に寄って帰ります

 

 

 

 

 

 

 

 

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