2013年03月16日
今度こそ!は、本当に本当の本当である本当のところの真の<悟得>だ!by 狼少年?なの?
昨日から一夜明けた今日
私は昨日と同じ私である…今のところは…
去年までは、今日には昨日の悟りの記憶が残っていても、
その悟りの感情は湧き上がって来なかったのです。
では、今回の今日も昨日も変らないその感情とは…
昨日ここのブログを書き終わって色々な想念が頭脳を過ぎっていった。
その結果~私は洗面所の鏡の前で、鏡に映る私を見た。
その私は、大粒の涙を流しながら、なんと笑いながら泣いている、泣きながら
笑っている、のであった。
そんな~私の顔を私は発見したのである。
この顔、この姿を感動と言わずに何を感動と言うのだろう~
まさしく<驚愕>的感動なのだろう~
…そう言えば、
似たような感情の私、鏡の中の私を、過去に何回か見た事を昨日想い出したのである。
ただし…どれも、私が変になっていた時の事なのだが…
しかし…今回の今日は違っていた~
今の認識を言語表現するならば…
「One for all」「All for one」
「我即宇宙」「宇宙即我」
「ひとつ=全て」「全て=ひとつ」~
では、私的言語表現では?と言うと!以下です。
「全ての人は、その人なりの、その人にとっての真理を語っている。
その全ての人々の語る真理を自分の心と頭と体の三位一体として、
自己化できた時、それが唯一の真理となるのだろう~」息子が古本屋で買って来た
『名探偵コナン』は言っている~「真実はひとつ」と…
そう驚愕の事実は「ひとつ」なのであり、全ては「ひとつ」なのである…
では、今の私想い描いている「悟り」とは、「悟得」とは、何が!?
宗教的悟りとは、いうなれば心の悟り、である。
学問的悟りとは、いうなれば頭の悟り、である。
武道的悟りとは、心と体の悟り、である。
では、悟得とは何か?
それは~
学問的悟りと武道的悟りを一体化したもの、
即ち、心と頭と体の三位一体的悟り、という事が言えようかな…♪♪♪
現在の私の心境は、「自由びと即悟得者」、「悟得者即自由びと」
ネットの何処かで誰かが書いて問うていた~
悟った私は~何をすればよいのでしょうか?
今の私はこう答える~
己と同じ心境=境地に達した、そんな人間を育てなさい!創造しなさい!
今の悟得者の私の想いは以下です。
「鳶が鷹を産んだ」と言う故事?ことわざ?がある。
小学五年生の父親である私にとってのこれは~
「鷹になろうと、もがき苦しんでいる親鳶を、
目の当たりに見ていた子鳶が自然に、鷹に育ってしまった。」である。
これぞ~「精神の歴史の物語」なのだろう~
それは、親の精神の「生成・発展・衰退」の過程で、傍で成長している子供が、
子を産んだ時点の親の精神との相互規定的相互浸透的「正規分布的な(量質転
化的量質転化化の)過程」で「らせん的な発展過程」を量質転化化しつつ成長
してゆく~
↑これは~かなり論理的混乱を起こしているので、適当にアバウトに読み飛ばしね♪♪♪
その最終的ゴールとは、「One for all」「All for one」の境地と言う事ができよう。
人類全てが、この境地に達する事ができた時、誕生するのは、本能の殆ど無い
人類が、本能的猿と同レベルの共食い、共倒れの無い、社会を創造し、その事
で、地球が、地球船の乗船員全員の幸福が確保された理想状態になると言う事なのだろうか…
今度こそ!は、本当に本当の本当である本当のところの真の<悟得>だ!by 狼少年?なの?
昨日から一夜明けた今日
私は昨日と同じ私である…今のところは…
去年までは、今日には昨日の悟りの記憶が残っていても、
その悟りの感情は湧き上がって来なかったのです。
では、今回の今日も昨日も変らないその感情とは…
昨日ここのブログを書き終わって色々な想念が頭脳を過ぎっていった。
その結果~私は洗面所の鏡の前で、鏡に映る私を見た。
その私は、大粒の涙を流しながら、なんと笑いながら泣いている、泣きながら
笑っている、のであった。
そんな~私の顔を私は発見したのである。
この顔、この姿を感動と言わずに何を感動と言うのだろう~
まさしく<驚愕>的感動なのだろう~
…そう言えば、
似たような感情の私、鏡の中の私を、過去に何回か見た事を昨日想い出したのである。
ただし…どれも、私が変になっていた時の事なのだが…
しかし…今回の今日は違っていた~
今の認識を言語表現するならば…
「One for all」「All for one」
「我即宇宙」「宇宙即我」
「ひとつ=全て」「全て=ひとつ」~
では、私的言語表現では?と言うと!以下です。
「全ての人は、その人なりの、その人にとっての真理を語っている。
その全ての人々の語る真理を自分の心と頭と体の三位一体として、
自己化できた時、それが唯一の真理となるのだろう~」息子が古本屋で買って来た
『名探偵コナン』は言っている~「真実はひとつ」と…
そう驚愕の事実は「ひとつ」なのであり、全ては「ひとつ」なのである…
では、今の私想い描いている「悟り」とは、「悟得」とは、何が!?
宗教的悟りとは、いうなれば心の悟り、である。
学問的悟りとは、いうなれば頭の悟り、である。
武道的悟りとは、心と体の悟り、である。
では、悟得とは何か?
それは~
学問的悟りと武道的悟りを一体化したもの、
即ち、心と頭と体の三位一体的悟り、という事が言えようかな…♪♪♪
現在の私の心境は、「自由びと即悟得者」、「悟得者即自由びと」
ネットの何処かで誰かが書いて問うていた~
悟った私は~何をすればよいのでしょうか?
今の私はこう答える~
己と同じ心境=境地に達した、そんな人間を育てなさい!創造しなさい!
今の悟得者の私の想いは以下です。
「鳶が鷹を産んだ」と言う故事?ことわざ?がある。
小学五年生の父親である私にとってのこれは~
「鷹になろうと、もがき苦しんでいる親鳶を、
目の当たりに見ていた子鳶が自然に、鷹に育ってしまった。」である。
これぞ~「精神の歴史の物語」なのだろう~
それは、親の精神の「生成・発展・衰退」の過程で、傍で成長している子供が、
子を産んだ時点の親の精神との相互規定的相互浸透的「正規分布的な(量質転
化的量質転化化の)過程」で「らせん的な発展過程」を量質転化化しつつ成長
してゆく~
↑これは~かなり論理的混乱を起こしているので、適当にアバウトに読み飛ばしね♪♪♪
その最終的ゴールとは、「One for all」「All for one」の境地と言う事ができよう。
人類全てが、この境地に達する事ができた時、誕生するのは、本能の殆ど無い
人類が、本能的猿と同レベルの共食い、共倒れの無い、社会を創造し、その事
で、地球が、地球船の乗船員全員の幸福が確保された理想状態になると言う事なのだろうか…
旅のお供に南郷先生の『夢哲学原論』を持ってきたのですけど、相変わらず南郷先生の文章は要領を得ないというか(苦笑)。
「One for all, All for one」というのはラグビーのチームだとか一つの企業だとかを単位として考えるべきで、その境を無視した「全人類」なんてところに持ち込むと何らの現実的な成果を期待できない老害の妄想となってしまうようですよ。
>空海
>・コメント
>今日は東北を旅しています。
>旅のお供に南郷先生の『夢哲学原論』を持ってきたのですけど、相変わらず南郷先生の文章は要領を得ないというか(苦笑)。
↑
何と!独りよがりなコメント?!
その>「…要領を得ない…」とは、
単なる、お宅の「要領」と南郷氏の「要領」の相違なのに…
それに気付けないとは、本当に…と・ほ・ほ・…ですね!
>「One for all, All for one」というのはラグビーのチームだとか一つの企業だとかを単位として考えるべきで、その境を無視した「全人類」なんてところに持ち込むと何らの現実的な成果を期待できない老害の妄想となってしまうようですよ。
これも単なる「単位の大きさの違いでしょうに…
「人間の精神は人類のモノ、人類・絶対精神は人間のモノ」…
このように全体の措定レベルが、
お宅と南郷氏では、雲泥の差ですね。
こんな簡単な事に気付かずに…
小さな空海お宅の認識で考えるから…
相変わらず少しも進歩・成長できないのですね…
お宅の中身の無い言葉の羅列も
形式論理学的な形式を踏まえていることを、今回のたわいもない詰まらぬ返信から察することができました。
>本当に、相も変わらず、ですよ。
↑
空海お宅も、相変わらず、ですね。
>お宅の中身の無い言葉の羅列も
>形式論理学的な形式を踏まえていることを、今回のたわいもない詰まらぬ返信から察することができました。「
↑
お宅の求めているモノと南郷氏が伝えたいモノが違っている事~
その事にお宅が気付いていない!
または、気付いていても無視している!
そんなような事ですね!
詳説するなら以下です。
南郷氏は「桃太郎の繰り返し」的な「読書・学習過程の弁証法」を非常に重要視しています。
だから、南郷氏が、何かを説く時、いつも「そのモノ・コトの始まりから初めて説きます」
なので、お宅のように「弁証法を知っているから不要だ!」的な者には、
そんな何度も何度も…「要領を得ない」なんて感想なのです。
このような読者・お宅の目的と著者・南郷氏の目的意識の相違から、
それぞれの目的達成の為の要領に相違があるのは、当然なのです。
分かりますか上記の説明が…
これが以下の「形式論理学的論理的な形式」の中身ですよ!
↓
<単なる、お宅の「要領」と南郷氏の「要領」の相違なのに…>
<それに気付けないとは、本当に…と・ほ・ほ・…ですね!>
ここまで詳細に書かないと分からないなんて…
空海お宅は、南郷氏とお宅の目的意識の相違が、
大きく異なっている・異質である事が、全く分かっていない!
なのに、南郷氏の著書を読んで「要領を得ない」と分かって・納得している…
「分らない・分かってない!」のに「分っていると妄信している」…
これって、「無知の知」の真逆は「知識の無知」ですかね♪♪♪
いえ、全然わかっていません。というより、お宅が詳細に書いたということさえ分からないでいます。
あらためて聞きますけど、お宅は私に理解させようと詳細に書いたのですか?
他意も悪意もありませんが私にはお宅が重ねて文字を多く綴ったとしか分かりませんでした。
年齢を重ねて幼少期より選り好みが大きくなっていますから、自分好みの記述でないから見れども見えず、なのかな?なんて真面目に考え込んでしまいましたが、お気になさらずに。
>「自分好みの記述でないから見れども見えず、…」
↑
このようなら、
それは時間の無駄、視力の浪費ですよ!
どうか他所へ行って、
もっと…有意義な時を過ごして下さい。
それも一つの考えで、一つの選択肢ではありますね。
私はお宅が何処の誰だか分かりません。
そこから生じてくる感情や思考と、知っている人への感情は違いますね。
私は南郷学派の神庭さんとは面識があるのです。ですから『夢哲学原論』で神庭さんの署名で記載された文章には感じるところがありましたね。
お宅に言っても理解できないでしょうけどね
もっとも…「お宅の正しい」と「私の正しい」の一致は望めないでしょうから…
少なくとも、身の破滅を招くような選択だけは控える…事を祈っていますよ。
これに対する回答如何によって己れが試されるという精神的な緊張感はお宅には皆無でしょうけれどね。
>「身の破滅を招くような選択」というのは具体的には如何なることですか?
>これに対する回答如何によって己れが試されるという精神的な緊張感はお宅には皆無でしょうけれどね。
↑
お宅は誤解しているようですね!
この場合の「身の破滅を招く選択」とは、
お宅のこのコメント欄への選択如何なのです。
記事を書いている私の問題は、また別なのですよ。
従って、私が考えるべきは、私の選択であり、
それは、私事あり、お宅とは相対的独立なので…
お宅へ、一々具体的に回答する義務・必要はないと考えます。
そもそも…
試されているのは、このブログにコメントを寄越しているお宅なのですよ!
私が、「試されている」のではなく、
お宅が、「私にを試している」のですよ。
そんな簡単な、事実関係も理解不能な癖に…
「…精神的な緊張感…」なんて大袈裟事を…
また、現実的・事実的に考えるなら、
こんな個人ブログを誰が真剣に真面目に読むでしょうか?
もっとも…私は、常に真剣かつ真面目に書いていますが…
お宅は、「私が試されている」と確信しているようですが…
それは、私という鏡に映っている「私の姿」なのです。
お宅が、鏡に映っている「私を試そうとしている」。
だから、「鏡の中の私は、お宅に試されている」という事なのです。
しかし、このような現実の人間関係の中での「鏡」とは本物の鏡ではないのです。
それは、お宅の頭脳によって描かれた「認識・私の像」なのです。
だから、お宅の「私を試してやろう」的な頭脳の反映から、
お宅の中の私は「自由びとは試されている」となり得るのです。
この現実の鏡に相当するものが、お宅の中の「私像」です。
私は記事でもコメント欄でも、
私の書きたい事・思った事・考えた事を書こうとしています。
そこには、「私はお宅から試されている」的な認識像はありません。
また、「お宅を試してやる」的な目的意識もありません。
ただ、お宅のコメントの内容・論理で、
お宅のそれぞれコメント記述を読み取った時に、
感じた得た私の矛盾点を素直に書いているだけです。
私の感じ得た「お宅コメント矛盾点の記述」を、
お宅が「試されている」と感じたとしても不思議ではありません。
私には、お宅を試そうという目的意識・意図はありません。
しかし、私からの、お宅の記述・矛盾点の指摘を素直に受け入れられない、お宅には、「自由びとは俺を試している」と感じ得るかもしれません。
その理由は明白です。
お宅は「俺の記述のどこが矛盾している!」的な認識から、自由びとの矛盾指摘を素直に受け知れない、からです。
それは、
<「客観的に矛盾」⇔「主観的に非矛盾」もあり得る>という矛盾が理解不能なお宅だからなのです。
私はお宅へのコメントを大して強い感情も持たずに書いていますから、翌日になれば何を書いたか忘れてしまっています。
それで読み返してみて、あーこんなこと書いたってな、ぐらいのことですよ。それはつまり、お宅の文章自体が私にとっては強い印象をもたらすことのない興味関心を湧かせない類いの、言葉は悪いかも知れませんけど「駄文」だからです。
ですが、これほどまでの馬鹿というか、頭の働きが悪い人間も珍しいですから、敢えて「ワザとやっているのか?馬鹿なフリをしているのか?」と疑ってみることもありますし、
またこれは非常に大事なことですけど「私は南郷継正である!」などと書いているお宅ですから、自分の文章を世間に晒すということは自分の頭の中を世に問うたのだという南郷先生の身内なら当然に知っている南郷先生の考えを意識してやっているのかな?とも考えたわけです。
しかし、「私は南郷継正である!」などと書けるお宅が同じブログで「私は一流など目指していない」と書けることに
矛盾というよりは「老い」を感じたわけですよね。
まあ、それはお宅に限った話しではなく私も10代の若者ではありませんから、自分が発言したことに自責を感じて苦しいまでに努力してしまうような「自滅すらしかねない若者の暴走」は出来なくなっています。
おそらくこれは瀬江千史の『看護の生理学』に説かれている「人体の各器官はたった一つの細胞を活かすために働いているし、それぞれの細胞は全体・全身を活かすために活動している」といったところを読んでの発言でしょうね。
この本で瀬江さんや薄井さんは「生理学」つまりは一人の個人という閉じた人体の話しとして「全体と細胞」という話をしていて社会全体だとかの話しはしていません。
それを漠然とした抽象論として還暦を過ぎた年齢でありながら、いや本当に齢を重ねれば重ねるほど実際の人生経験が反映されて抽象論は書けなくなるからですけど、それが書けるお宅は大金持ちで召使いが全てをやってくれる御曹司だとかの可能性もありますが、まあ、それもどうでも良いことではありますけどね。
>空海
>・コメント
>何を書いているのか私にはお宅の記述がサッパリ分からないですね(苦笑)。
↑~
分かる人には、確りと分かるのに…
お宅が分からないのは、お宅の能力の問題ですよ!
上記の言葉は、空海お宅の己の能力不足への無自覚的な発言ですね。
>私はお宅へのコメントを大して強い感情も持たずに書いていますから、翌日になれば何を書いたか忘れてしまっています。
それで読み返してみて、あーこんなこと書いたってな、ぐらいのことですよ。それはつまり、お宅の文章自体が私にとっては強い印象をもたらすことのない興味関心を湧かせない類いの、言葉は悪いかも知れませんけど「駄文」だからです。
↑
だから何?!
お宅は、自分が分からないのは、チャンと読んでいないから…
お宅は、自分のコメントの内容な、確り考え思って書いていないから…
私の文章が駄文だから、分からない、確り読めない、コメントもチャンと書けない…
お宅は、結局、お宅自身の能力の問題点を無視して、
全てを自由びと・他人のせいにしている、ただの自己中な赤子お宅のレベルですね!
>ですが、これほどまでの馬鹿というか、頭の働きが悪い人間も珍しいですから、敢えて「ワザとやっているのか?馬鹿なフリをしているのか?」と疑ってみることもありますし、
またこれは非常に大事なことですけど「私は南郷継正である!」などと書いているお宅ですから、自分の文章を世間に晒すということは自分の頭の中を世に問うたのだという南郷先生の身内なら当然に知っている南郷先生の考えを意識してやっているのかな?とも考えたわけです。
↑
お宅には、言葉には、現実・事実の記述と思い・想像…認識の記述がある事が理解していません。
ここは、私ブログ世界、言うなれば、
私国家・私世界…この中で、私の心の世界のを観念的・事実的を<事実>として記述して違法ですか?
>しかし、「私は南郷継正である!」などと書けるお宅が同じブログで「私は一流など目指していない」と書けることに
矛盾というよりは「老い」を感じたわけですよね。
↑
現実界の「南郷継正」が、一流を目指していたからとてって、
私世界の私的南郷継正が、必ず一流を目指さ必要はありません。
何故なら、私は現実界の南郷氏になったのではなく、
私の観念内の「南郷継正・像」になり得た、と感じたからです。
現実界の「南郷氏」と分かって観念的な私世界の「南郷継正像」は、
相対的独立であり、対立物の統一の連続です。
私の人生経験から成長・結果と南郷氏の著書・記述・内容との統一・相互浸透…から南郷継正・像の成長・変化。
私の知っている南郷継正は、「歴史に名を刻む」のが目的です。
「一流」を目指す事が目的ではなく、自己の成長・能力向上…の為に、一流を目指せ、です。
なので、例えば。一流の空手家を目指さなくても、
死の覚悟が可能な必死で闘える空手を目指すのもあり…です。
結局、お宅の認識している「南郷継正」、私の「南郷継正」は別物ですね。
こんな簡単な事も分からず…
この「南郷継正」の件の「矛盾」に関して説くなら、
「私の発言と南郷継正」に、矛盾はありません。
当然「お宅の発言とお宅の南郷継正」にも矛盾はありません。
しかし、ここで「お宅の南郷継正」と「私の発言」を統一するなら、
そこには「矛盾」が発生します。
もう少し書くなら、「一流の悟り」って聞いた事ありますか?
悟りに一流はありません。
私が求めている「悟り」とは、私内の全ての矛盾を解決・統一可能な悟りです。
当然、世捨て人・坊主・禅僧…ではなく、矛盾だらけの一般社会での幸福を求めて・達成可能な「悟り」です。
これは、たぶん・きっと私だけ・自由びとだけの一人だけの悟り、なのです。
それは、上流・中流・下流もなく、「一つの流れ=一流の悟り」です。
私は、一流を目指していません。
でも、「一流になり得る事」を否定もしません。
>まあ、それはお宅に限った話しではなく私も10代の若者ではありませんから、自分が発言したことに自責を感じて苦しいまでに努力してしまうような「自滅すらしかねない若者の暴走」は出来なくなっています。
↑
私が感じるような発言はしていません。
なので、「自責」も感じていませんし、必要性も認識していません。
上記のように、お宅のコメント・記述・認識の問題点の、
根源的な原因は、お宅内のお宅自身の「矛盾」ですよ。
>空海
>・コメント
>お宅が書いた「One for all, All for one」で気がついたのは
>おそらくこれは瀬江千史の『看護の生理学』に説かれている「人体の各器官はたった一つの細胞を活かすために働いているし、それぞれの細胞は全体・全身を活かすために活動している」といったところを読んでの発言でしょうね。
↑
お宅の独りよがりの想像です。
私が初めて、この言葉を知ったのは、テレビ青春ドラマの中でのラグビーの試合場面からです。
コーチが部員たちに~
全員が、各々の自己能力実力をチームの一員として最大限に発揮し、それらの一体化によってチーム勝利の道が拓ける。
そんな意味で使っています。
別言するなら、「団結こそ力量」⇔集団力ですかね…
>この本で瀬江さんや薄井さんは「生理学」つまりは一人の個人という閉じた人体の話しとして「全体と細胞」という話をしていて社会全体だとかの話しはしていません。
>それを漠然とした抽象論として還暦を過ぎた年齢でありながら、いや本当に齢を重ねれば重ねるほど実際の人生経験が反映されて抽象論は書けなくなるからですけど、それが書けるお宅は大金持ちで召使いが全てをやってくれる御曹司だとかの可能性もありますが、まあ、それもどうでも良いことではありますけどね。
↑~
結局、お宅の独りよがりの想像・妄想の結果、
非現実的なお宅完結していますね…
なんと…「お幸せ」な空海・お宅なのてしょうか…
「一人の個人として閉じた人体…」なら、
その閉じていても生きている人間が、
一つの国家として閉じた組織・社会構造の中での一員(部分)として確り働き活動する事で国家の実力向上になりえる。
「国民一人一人の総合力が国家力」
「国家の努力から国民一人一人の幸福が」
お宅にはお宅の考えがあるでしょうし、私には私の考えがありますから、お宅の発言した「人は皆、その人なりの真理を述べている」というのが狡猾な、お宅自身の方向に私も強引に従わせようとする偽りの言葉ではないならば、「そうですか、空海さん、あなたにはあなたの真理があるのですね」となるでしょうし、「分からないのはお宅の能力の問題」などという自分中心な阿呆丸出しの言葉とはならずに「そうですか、これが分からない空海さんには空海さんが理解できる新しき故に素晴らしき道筋が発見されることでしょう」といった学校教育で落ちこぼれだったエジソンにも学校教育とは違う道が開けたことを真の教育者なら伝えて欲しい。
偽物のお前が与えることが皆無なくせに奪おうとする貪欲・煩悩の塊であることは、教育を語るな、騙るなと教え諭したい
南郷氏は「桃太郎の繰り返し」的な「読書・学習過程の弁証法」を非常に重要視しています。だから、南郷氏が、何かを説く時、いつも「そのモノ・コトの始まりから初めて説きます」。なので、お宅のように「弁証法を知っているから不要だ!」的な者には、そんな何度も何度も…「要領を得ない」なんて感想なのです。
南郷先生の文章は読みやすく わかです。自由びとさんが指摘するように 始まり 始原を重要視し そこから解説しますので シンプルでわかりやすいのです。反対に滝村先生の場合 情報量も多く 精緻に叙述していきますので 難解になりがちです。一般読者が南郷先生のもとへ 走るのはもっともなことです。武道哲学講義2巻を読みますと 国家論について 語っていますね。本当にシンプルで納得しやすい内容です。参考文献が滝村先生の著作ですので 大きな間違えはないのですが ところどころに 南郷先生の方法論が入ってきて 滝村先生の世界史の方法や国家と社会の精緻な原理的区別がなおざりにされています。しかし 一般読者に対してはこれでいいのだと思っている次第です。滝村先生の考えは 論理的に難解ですので 理解するまで時間がかかるのです。それに その内容が 今の時代 現実的に そこまで読者には必要とされていないのです。 だから 一部の読者が継承していくしかないものだと思っています。
コメントありがとうございます。
今大変な事に気付きました。
tadaさんからコメント頂いて、コメントを読み直したのですが…
何と、今初めて、この記事を読んだ感じがしてしまいました。
本当は、読んでいたのに…です。
これは、ここに再投稿する前に読んだ時の私の感情と今読んで沸き起こった感情が大きく異なっている…という事でし
なんと…空海お宅の「One for all」「All for one」って…この記事の中に書かれていた、のですね…改めてビックリです。
改めて、この記事と現在の私を「対立物の統一」として考えて見ますが…
ただ…師範の「弁証法性を帯びる」の意味が分かってきた気がします。
以前、母が亡くなった時、食べ物の嚙み心地がソフトになった感じがしました。
それは、「ザクザク」感から「スーと入る」感でした。
当時、その事を、井上先生に話したら
「そんな感じは…知らない、なかった…」(?ような事を言った?)不思議に感じていたようです。
今思い出しました!
南郷師範が御講義で、
「ある日、風呂で石鹸を付ける時に、左手の感覚・感じ方が変わった」
…というような事を話していた事を…
この話を古知屋さんの講義録or直接聞いたか不明ですが…
これを知った時に、それが「何故に弁証法なの?」思いましたが…
今の私なら、言えます。
それは、触覚・認識像が変化した。
頭脳・感覚の弁証法性化だと…
この十年前のような大泣き・大笑いは、去年あたりから度々ありました。
それが、普通になっていて、特に驚きはありません、でした。
最近、私もtadaさんに知らせたい事があり、コメントと思っていました。
それは、学校の図書室で発見した以下の図書の紹介です。
「こどもにおくる 般若心経」 新井 満
その中の「悟り」の解説、
「色即是空・空即是色」の解説、
何より「『あとがき』にかえて」の内容、
彼の強烈な体験、
引用された↓
孔子の言葉
いまだに生を知らず
いずくんぞ死を知らん
ここで記事にしようと思っていたのです。
私が、この本を読もうと思った理由は、
tadaさんが、釈迦・仏教と弁証法の関係を教えてくれたからなのです。
「空とは変化」、
姿あるモノは、ないモノに変化、
姿ないモノは、あるモノに変化、
まだまだ書きたい事は、やま程ありますが…
お腹が減ったので、取り敢えず、コメントは中断します。
「see you again」てすね♪♪♪
本当に本当にtadaさんコメントに感激・4感激なのです。
⒉チャンネル玄和スレ時代では、梅雨さんが私の南郷継師範正でしたが…
現在のここでは、tadaさんが、今の私だけの南郷継正師範ですね♪♪♪
そうそう最近会えない、月研ぎさんも、ヤッパリ私の南郷継正師範ですよ
>ふーん、という感じですね。
>お宅にはお宅の考えがあるでしょうし、私には私の考えがありますから、お宅の発言した「人は皆、その人なりの真理を述べている」というのが狡猾な、お宅自身の方向に私も強引に従わせようとする偽りの言葉ではないならば、「そうですか、空海さん、あなたにはあなたの真理があるのですね」となるでしょうし、「分からないのはお宅の能力の問題」などという自分中心な阿呆丸出しの言葉とはならずに「そうですか、これが分からない空海さんには空海さんが理解できる新しき故に素晴らしき道筋が発見されることでしょう」といった学校教育で落ちこぼれだったエジソンにも学校教育とは違う道が開けたことを真の教育者なら伝えて欲しい。
↑
>…お宅にはお宅の考えがあるでしょうし、私には私の考えがありますから<…その通りです。
しかし問題は、ここは自由びとブログという事です。
空海お宅の考えは、お宅のブログでの展開を夜露死苦ね!
自分のブログで「自己中心」で何が悪いの!
他人のブログで、そのブログ主にイチャモン付けている空海お宅の方が、普通に「阿保」に見えますが…
>偽物のお前が与えることが皆無なくせに奪おうとする貪欲・煩悩の塊であることは、教育を語るな、騙るなと教え諭したい
↑
私の何が「偽物」なのですが…
お宅の「〇物」に比べて、私の物が「偽物」なのですね…
でも、お宅の「〇物」が偽物で、私の「●物」が本物なのかも?ですよ!
この判定は、善意ある第三者に任せるべき物ですかね。
>・コメント
>自由びとさん こんにちは お元気そうで なによりです。 今回のコメント なかなか興味深いものがありました。
↑
やっと!どうにか悲しみ・淋しさ…感情を振り切ったようですね♪♪♪
今回のコメント、10年前のモノです。
初めは、当時の私の凄さを痛感していました。
当時は、身体の柔軟性・運動性…は今と比べて雲泥の差があります。
当時は、全力疾走で小6リレー選手に負けませんでした。
柔軟性でも、開脚前屈で胸が床に付きました。
今は、全力疾走至難、開脚至難、前屈殆どダメ…
そんな私でも、「家内の死」が発生させた「認識運動・変化」の結果、
10年前と同様な、「悟り的」認識になり得ています。
悟りの境地とは、認識の変化・運動性が求められます。
外界・環境から強制的な認識運動は、時間の経過と共に、落ちていきます。
今は、その外界の強制力を認識的・内界的に反復可能にする努力をしています。
さてさて…どこまで行きつけるかは…謎です。
いつまた、以前の私に戻ってしまうか、恐怖ですね。
でも…この勢いで、運動性・柔軟性の復活を求めて、
最近は、可能な限りの毎朝のテレビのラジオ体操や骨ラブ体操に励んでいます。
> 南郷氏は「桃太郎の繰り返し」的な「読書・学習過程の弁証法」を非常に重要視しています。だから、南郷氏が、何かを説く時、いつも「そのモノ・コトの始まりから初めて説きます」。なので、お宅のように「弁証法を知っているから不要だ!」的な者には、そんな何度も何度も…「要領を得ない」なんて感想なのです。
弁証法は、変化・運動法則です。
その抽象的な法則を具体的な事物の中で、毎度・毎度の再確認的な「桃太郎の繰り返し」ですね。
>南郷先生の文章は読みやすく わかです。自由びとさんが指摘するように 始まり 始原を重要視し そこから解説しますので シンプルでわかりやすいのです。反対に滝村先生の場合 情報量も多く 精緻に叙述していきますので 難解になりがちです。一般読者が南郷先生のもとへ 走るのはもっともなことです。武道哲学講義2巻を読みますと 国家論について 語っていますね。本当にシンプルで納得しやすい内容です。参考文献が滝村先生の著作ですので 大きな間違えはないのですが ところどころに 南郷先生の方法論が入ってきて 滝村先生の世界史の方法や国家と社会の精緻な原理的区別がなおざりにされています。しかし 一般読者に対してはこれでいいのだと思っている次第です。滝村先生の考えは 論理的に難解ですので 理解するまで時間がかかるのです。それに その内容が 今の時代 現実的に そこまで読者には必要とされていないのです。 だから 一部の読者が継承していくしかないものだと思っています。
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「シンプルで分りやすい」ので、分かったつもり…でもすぐ忘れる。
具体的・事実的な道筋は、暗記・覚えられても…
抽象的な筋道に、至れず…弁証法に到達でき難い。
算数の「1+1=2」は、覚えられても、
「皿の上にリンゴ一個・ナシ一個あります」。
「皿の上には果物が幾つありますか?」…が、分からない一年生のように~
南郷氏が、求めているモノは、私の想像ですが…
南郷弁証法を用いてのルートで、
「滝村先生レベルの国家論の創出が可能な弟子の誕生を求めている」ですかね…
「シンプルで簡単な事」は、飽きやすいのです。
一年生で、平仮名の練習、何度も何度も初心レベルで、手本通りに書き続ける子供は殆どいません。
みんな数回書くことで、書けるようになったつもりになり得ます。
複雑なら、何度書いても覚えられません。
なので、書けたつもりになり得ません。