新・悟りを求めて~

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南郷先生の御言葉・「修行とは…」

2019-07-07 11:47:14 | 言葉・概念

南郷先生の御言葉・「修行とは…」

以下の記述は、

「心に青雲 旧ブログ」
kokoroniseiunn.seesaa.net/   

からの転写である。



2019年07月07日

松本哲也選手(巨人)の“強気”(下)

…………前略…………

 これは一度紹介したことがあるが、南郷先生は「修行とは、ダメだとわかっていても続けることだ」、また「成功するとの思いで修行をしてはいけない」と説かれる。南郷先生が説かれるのは、弁証法の修行、あるいは論理能力の修得に関してではあるが、それを敷衍して解釈すれば、どんな人生上の問題、課題にも言えるであろう。

…………後略…………


この「修行とは…」に対してのコメントが以下である。



>これらの考えは、では努力をして途中で挫折したらどうなるのか?ということを考えていない点で問題があります。(後略)

>…(前略)…そして最後に、ダメだとわかっていて続けるという考えは、戦略的に勝つという発想を妨げます。何事も努力努力という発想をしてしまうのです。例えば大学に行こうとしたとき、就職に有利な大学、学問、将来的に評価される就職先、こういった有利な環境に自分をおくという発想が出来なくなります。少し努力しただけで結果を残せるような環境を探すという能力が伸びなくなります。…(後略)…






このコメントは、
「修行とは、ダメだとわかっていても続けることだ」、
という言葉を確り理解していない。

これぱ、「修行とは…」であって、
決して、「修業とは…」ではない。


「修行とは」、心・精神的な「行」であり、
「修業」途中での機能に関わるモノ。

それに対して、
「修業とは」、身体・能力的な「業」であり、実体に関わるモノ。
少々難しいのは、能力は実体の機能である、という事だが…。


別言するなら、
「修業」過程に必要な精神力の養成が「修行」とも言い得る。


例えば、空手の修業を途中で断念したとしても、
そのレベルまで「修業」を続けられた事は、
そのレベルまでの「修行」がなし得た事であり、
空手を断念した事で、空手を通しての「修行」を断念した事になる。


それでも、空手修業がダメだった自分の事を諦める事無く、
そんな「自分がダメだと分かった」上で、
次なる目標を設定して努力し続ける事。

これこそが、
南郷先生の御言葉の意味であり、
「修行とは、ダメだと分かっても続けることだ」
という事である。


だから、
人間は生き続ける事を「修行」と捉えて、
自分を活かし生き続ける、のだろう。


もっとも…
人生を「修行」と捉えられない御仁~
または、自信タップリで挫折を知らない御仁~
そんな人達にとって、
ここでの解釈は
「何を言ってんだい!阿保か?お前は!」
レベルだろうが…









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1 コメント

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Unknown (游士)
2019-07-08 08:30:03
どうして青雲さんの古いこの記事について自由びとさんがコメントしてるのかな?と思ったら、最近あらためてアップされたからなのですね。その意味ではタイムリーで…。
私も青雲さんのその記事をあらためて読んでみましたけど自由びとさんが批判している「えぱ」さんという人は大変に聡明な優れた人だと思いました。述べられていることもモットモだと感じられることばかりです。
ですが、果たして「えぱ」さんの述べていることが「南郷批判」あるいは「南郷氏を引用した青雲さん批判」として適切であるかは疑問でしょうね。
というのも「えぱ」さんの言っている「努力して挫折したらどうするか?」を南郷氏が考えていないとは氏の著作からは読み取れないからですし、「有利な環境に身を置くという発想が無い」とも読み取れません。「人間の精神力を無限に期待しすぎていて負けないよう勝っていくよう戦略することが無い」とも思えません。
むしろ(私は著作でしか南郷氏を知りませんが)処女作から「武道に王道あり」を唱えた南郷氏の「弱者のための武道」という考えは「えぱ」さんの考えと一致するところ大なりではないでしょうか?それは体力も精神力も無限に優れた人間など想定されてはいないのでしょうから。
私が考えるに南郷氏のような考えだと(他の多くの武道家やら指導者もそうですが)「ダメだと思っても続けること」という考えとともに「ダメだと感じたら止める、方法を変える、目的を変える」という考えも一緒にもっているのではないか?と思うわけです。あるいは「成功するとの思いでやってはいけない」という考えと一緒に「成功するつもりで努力しなければいけない」という考えも当然にもっていると思うんですね。矛盾したような言い方ですけれども。
ですので私には「えぱ」さんの考えは至極もっともだと感じつつも果たして南郷批判、青雲批判として適切か否かは難しいと思います。
少なくとも青雲さんのここでの発言はカウンセラー的ではないのだろうな、とは思いますが。自立した個人として自分で考え判断していけるような老子が言うところの「魚を与えるのではなく釣り方を授けよ」という指導ではないのだと思います。
それで、自由びとさんが「えぱ」さんのコメントを批判しているのは、これを「南郷批判」だと受け取るからなのでしょう。それだけ自由びとさんが南郷氏を大事にしている感情が伝わってきます。
それで自由びとさんが取り上げた「南郷氏のいわゆる修行と修業」というのも極めて個性的な南郷氏独自の意味合いですから、あまりマジョリティーとしての一般性はありません。
「行」も「業」もともに一般的な人間の行為を指しているとして「修行=修業」と考えて使われていることが多いと思います。「業=なりわい」で「生きていくための職業を身に付けていく過程」として「修業」を使っていることも多いですから「板前修業」だとか「教員修業」、場合によっては「カウンセラー修業」という就職して仕事を覚えていく段階を「職業=プロフェッショナル」だと自覚して用いられる表現が「修業」であり、宗教の「行(ぎょう)」であるお百度参りだとか人格陶冶を目的とした武道の稽古だとかは「修行」だと表現されるのだと思います。
そこで表現される修行にしろ修業にしろ、そもそもが「行(ぎょう)」だとか「業(ぎょう)」だとかの人間の行為を前提にされていて、人間の行為というのは心身一如で精神と肉体を別々に切り離すことは出来ない話なんですね。
ところが南郷氏の「修行と修業の区別」という考えはハッキリした形で発表されたのは1991年の『武道の科学』の「認識と実体を区別する」という考えに基づいているようなんですが、この「認識論と実体論を区別する」という考えの始まり?は『試行』で1980年代前半だかに発表されたコマネチ論だったみたいなんですね。
単純に言えばコマネチのようにオリンピックで金メダルを取って「白い妖精」だと世界中で称賛されたような選手であっても学校の勉強をほとんどやらずに体操ばかりやっていた人間の「思考」が人間として称賛されるに値するのかといった話じゃないかと思うわけです。
そこから想像し得るのは、南郷氏の「認識と実体、あるいは認識論と実体論」との区別は、空手ないし武道の実技の優秀さ(もっと言えば古来より「心・技・体」と称されてきた武技を駆使する精神の優秀さ)を超えて、武技とは切り離された人間としての知性の高さを「武道団体として」高く評価していこうとの、団体の幹部に大学教授や医師といった世に知性が高いと言われている職種の人間を置くことを正当化する運営方針の表明であったのだと読み取ることができるのだと考えます。
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