自由びとの信条は、「有言実行」でありたい!
なので、以下に転写した「無門慧開」コメントを再読した。
~~~~転写開始~~~~
最後の最後に、
真面目に書くなら、以下の部分の記述は興味深いモノがあります。
禅問答というより、認識論的な解題として、取り上げてみたい、と思っています。
自由びとさんが言う「事実は小説よりも奇なり」というのは私も同意しますけれど、そこから連想するのはこの「禅問答の続編」本記事の「まるを描かずに、まるを描かく」の実際の観念なんですよ。人間は、この言語表現されたことがらを如何に実際に考えているのか?という事実的な経験上話なんです。
そこを、自由びとさんのように「まるを描かずに、まるを描く」というのだから「まるというのは描かずに描けるものだ」なんて考えて外堀から埋めていこうとする方法論と違って、「プディングの味は食べてみないと分からない」とする私の解法だと「まるを描かずに、まるを描く」という文は「まるを描かない」+「まるを描く」であって、もっと詳しく述べると「まるを描く像の否定」+「まるを描く像」であり、最初の「まるを描く」像と次の「まるを描く」像とは違ってると理解できるわけです。
ですから、この認識は「最初の像」→「次の像」という像の変転として理解でき、「まる」という言語で表現された指示対象だけ比較するならば「まる」≠「まる」なわけで、時系列で思い浮かべた違う像を同じ「まる」という言語で表現したということになります。
ここでは「描かれない<まる>」と「描かれる<まる>」とは違っており、その意味では矛盾律は正しく成立していることになります。
ですので「同じ言語で表現された指示対象は同じはず」だという自由びとさんの前提が違っているのであり、頭の中での像の変転というダイナミズムを等閑視した形式論理的な自由びとさんの解法は無意味だと考えますね。
まあ、現代の分析哲学は言語分析から発展したといいますから、こうした禅の言葉をどう扱っているのか興味深いですけどね
(笑)
>禅問答というより、認識論的な解題として、取り上げてみたい、と思っています。
いえね、既述した見解は私の見解なわけですよ。禅の公案を実際に解いてみたときに人間の思考ってどうなってるのか?どうやってるのか?という経験諸学の一つとして扱ったときに、それは盛られた器というか言語の文法をハミ出して内容の関連性として理解していく能力を人間の理解力(脳)は持っているなと私は気づいたわけです。
それは同一の著者の同一の書物の中であっても同じ語彙が違った意味で用いられており、また読み手も前後の脈絡から正しく違った意味として読み取ることが出来ているわけですが、この禅の公案では「まるを描かずに、まるを描く」という短いセンテンスの中で使われた同じ語彙「まる」で違ったモノを見ていること、人間はそうした思考や言語表現が出来るということを自分の問題・関心として披露したわけです。
このことは代数学のy=ax+bの文字式の扱いとは違うわけで、それはこうした人間の観念や表現を扱うに記号論理学をもってするには不都合が生じるのではなかろうか?との私の自分自身に対する問題提起なんですね。
この私の課題は哲学教授なり仏教学教授なりの指導教官のもとで論文として仕上げるべきものですから、自由びとさんとしては私の仕事の完成を楽しみに待っていていただきたい。
いつの日か風の噂で私の仕事の成就を耳にすることもあるでしょう。
自由びとさんの見解は既にこの公案を禅問答としては扱わないとして「まる」を「わからないもの」として「描かずに描けるもの」なんて方針を立てているわけですから、この方向性で首尾一貫して思考されて下さい。
ただ、私としてはエジソンの「99%の汗と1%の閃き」を想起いたしました。自由びとさんって、本当に「閃き」の無い人ですよね(笑)
~~~~転写終了~~~~
初見した時は、分かり難かったので、後回したが…
熟読してみると…ビックリだった。
奴(無門慧開)は、自由びとの見解を相変わらず誤解している。
それは以下である。
>自由びとさんのように
>「まるを描かずに、まるを描く」というのだから
>「まるというのは描かずに描けるものだ」
>なんて考えて外堀から埋めていこうとする方法論…
これは違う!
私の初めの見解は、
<「まる」とは、「そのものを描かずに描けるもの」モノである。
<そんなモノは知らない!だから、それは正体不明のモノである。
初めから「まる」は「まる」なら、この問題は解けない。
解けないモノを解くなら「正体不明」が取り敢えず回答となろう。
それでも、先へ進めるならば、
その先は、「まる」の正体の解明となろう。
禅の回答として、
一つ「正体不明」を、そのコトとして体現する。
二つ「正体不明」を、あるモノとして体現する。
考え方としては、
それが実際の「まる」とするなら、
その「まる」とは何か?
例えば、我々が、「まる」を描けば、本当にそれが「まる」なのだろうか?
それが本当のまるなら、まるを描かずにまるは描けない。
ならば、まるをまるとして描けないまるはあるのか?
……
そんなこんな、
思考・思惟・思弁…等の繰り返しこそが、「禅」の求めている「悟れへの道」である。
簡単に答えて納得するのは、禅ではない。
しかも、回答・解答の正誤判定は、禅師がするものであり、
その答えへの自分勝手に自己満足は、あってはならないモノ…禅としては。
それを奴のように、
>矛盾律は正しく成立していることになります。
とか、
>禅の公案を実際に解いてみたときに人間の思考ってどうなってるのか?どうやってるのか?という経験諸学の一つとして扱ったときに、…
とか、
>人間の観念や表現を扱うに記号論理学をもってするには不都合が生じるのではなかろうか?との私の自分自身に対する問題提起
とか…
奴のような自己満の塊のような態度では…
禅の道…悟りへ道を大きく外れてしまって…
「禅問答」が「禅」になり得ない、解答で自己満足している姿は、
他人の言説・見解を、奴的な解釈で理解・納得している姿と完全一致である。
この手の話題で自身に益する知見を得るためには、優れた知見を身につけた師につくということだと考えますから、その意味では後回しにするべきは自由びとさんの見解だということになりますね。
今はネットで優れた方々の見解を得ることが容易にできる時代ですから、私も色々と検索して少しずつ深化していると思います。
それで、南郷さんなんかは煙に巻くチンプンカンプンの禅問答は両者の罪なんてところに落とし込んでいますけど、自由びとさんの混乱してる思考というのは、まあ自由びとさん本人の罪でしょうね(笑)。
それで、私が自由びとさんが指摘するような説明的な発言、論理的な発言をするのは自分のアイデンティティーからそうしたものを好むからなわけですが、従って禅に関する文化遺産?を得るのに参考にさせてもらうのは単なる禅修行僧よりも禅学者の方なんですね。
だから、「直観」を重視して「不立文字」を唱える禅で、何をそんな言葉で説明しようとなどしてるのかのような自由びとさんの非難めいた発言がありますけど、修行中の禅僧は禅問答において論理的・説明的な言葉を使わないとしても、禅学者たちはそこを論理的な言葉で説明できるし、現にしてるのだと考えているわけです、私は。
そんな私からすれば、「まる」とは「そのものを描かずに描けるもの」なんていう自由びとさんの独断論のまどろみ的な発言が唐突に出現することに最初は驚き戸惑うわけなんですが、歴史に残る禅学者さんたちの見解を学んでいくうちに「自由びとさんの言ってる「そのものを描かずに描く」というのは「まる」という対象から切り離された「不立文字」という禅の一般的な方法を述べているのだろうな」と判断できて来たわけです。
その嚆矢はブッダの「拈華微笑」で蓮の花を捻るという行為に伝えるべき内容を象徴させたところにあるのでしょう。
では、その伝えるべき悟りの内容は言葉ではない何か別のもので象徴しなければ伝えられないのかといえば言葉でも表現し伝えられるものなんだと考えますよ。
ただ、禅の修行僧たちは、それこそデイビッド・ヒュームの言う「習慣」の如くに「不立文字」というやり方を繰り返したかったわけなんだと思います。
整理すると禅では「そのもの自体以外で示す」という不立文字が全的に方法として要求された仏教文化なわけですが、その中でも「言葉で説明するのではなく絵で示す」という白隠門下の禅画なんかが「語るべき内容を直接に、ではなくそのもの以外で描いて示す」やり方だったわけなんです。
それは「まる」に限った話ではなく「さんかく」でも「しかく」でも「だるま」でも絵で象徴的に示したわけです。恰も釈迦が蓮の花を捻って何事かを示した如くに。
ところが、自由びとさんの思考では「まる」と感覚的・感性的に描かれた絵が「そのものを描かずに描かれたモノ」なんて抽象化され知覚の対象となっていた具体的な像が像の無い空虚な理性に変えられてしまってるわけなんです。
だから「そんなものは知らない」なんて、折角の具体的な感性像を自ら目を閉じて見れども見えずの状態に好んで陥り、「いやいや、師がキチンとまるの絵を示してくれているではないか。まるを描かずに、まるを描くとは四角や三角を描くことでまるを示すことかも知れないではないか」との智恵が働き始めることもありません。
そんなタワケというかアホウといったら良いのか知れぬオンボロな頭を持ちながら「自分は禅の師匠である」かに恥も外聞もなく振る舞える自由びとさんにこそ「正体不明のアナタは何者?」と問い質したいもんですよ。
私のことを「ヤツ」だとか悪罵するよりもご自分を少しでも省みたほうが宜しいんじゃないですか?
禅問答とは、公案に書かれている問答である。
それは、問いに答える形で書かれている。
そこから先ず学ぶべきは、禅問の答えとは何か?であろう。
ならば、禅問の答えは何か!
それは、現実的な解答であり、その解き方ではない。
その解き方は、人それぞれであり、その人の個性に任されている。
従って、その修行者の思考過程は、それ程役立つモノではない、のだろう。
それを無門くんは、答えを出さずに、その思考過程を説いている。
しかし…己の事実的経験からのモノである。
答えを出せない、答えに至らない思考過程を説くの意味は?
それは、当然に答え・結果を出す為であろう。
エジソンの「99%の汗と1%の閃き」とは、
その道に沿った努力での99%の汗、
その歩んだ道の結果としての1%の閃き
なのだろう。
お宅のように、間違った努力では、
120%の汗を流した所で、
道に則った閃きはマイナス20%でしょうね。
結果として、合計100%の骨折りてすかね。