新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
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コメントへの私コメント~

2022-05-03 14:17:59 | 滅ぼし合う対立物の統一
コメントへの私コメント~


以下のコメントは、
勝手な思い込みでの実名入りだったので、
その部分を削除して掲載した。




▼ コメント ────

>・コメントが届いた記事
>上達論と勝負論について…

>・コメントを書いた人
>一村隆滝



>・コメント
>自由びとさんが京都の『自由學藝』の執筆者の一人だと想像してから、ブログには直接に言語表現されていない部分と照らし合わせて色々と思索が深まってきましたね。


↑~
独りで想像を広げるには、とても良い方法ですね。
ただ…正確に「ブログには直接に言語表現されていない部分」が分かっているかが問題です。



>学校の授業の話しですか。それなら、自由びとさんは京都の〇〇〇〇さんですね?


間違っています!
これは非現実的・非事実的な妄想ですね、




>『自由學藝』の第3号が先日届きましてね。これまで読んでいなかった〇〇〇〇さんの「教職課程の大学生に説く人間観の歴史」に目を通したら興味深い「深い論考」が為されていることを初めて知りました。



耳寄りな情報を感謝です♪
早速、私も購入しないと…



>この〇〇さんも珍しい人で、京都大学を卒業なさって義務教育の教師になったらしいですが、東京大学や京都大学には教職課程が無く、つまりは教師になるのに東大や京大まで行く必要はないらしいですね。

>東大や京大を出て有名予備校の講師となって多額の収入を得ている人=優秀なビジネスマンは少なくないみたいですけど、安月給の義務教育の教師になるのは余程の変わり者なのでしょう。




「安月給」とは…何でもお金で判断するのですね。
人間にとっての「金」は、生きていく為の身体的な糧。
でも、それより心・精神の糧である生き甲斐・遣り甲斐が重要だと私は思いますよ。




>自由びとさんの今回のブログ記事で「上達論的試合と勝負論的試合」から学校教育の話しに移っていますけど、「空手論、武道論」と「学校教育論」とは、そもそもの「対象」が違いませんか?



「対象」は異なっていても、
「上達・勝負」の論理は、双方に見て取る事が可能です。




>南郷先生の玄◯会にも少なくない人数の義務教育教師が会員として在籍しているはずですが、『學城』はほぼ「医学系」の著者で占められて教育論を説いている筆者はいませんね?

>〇〇さんは義務教育の教師として向山洋一さんのTOSSの関係者として実力の向上に努めているようで、向山さんが「上達論」として南郷先生を認めてらっしゃる。しかし果たして向山さんは、その「(学校教育における)上達論」を「勝負論」とのセットで理解していたでしょうか?




教師は、教育を論理的に「勝負」とは、捉えないでしょうから…なかったでしょうね。
そもそも…「上達論と勝負論」をセットで問題とし、対立物の統一で考える試みをしたのは、南郷氏が初めてなのでは?




>「授業中に児童を怒鳴りつける」ことは勝負論的?空手だとか武道の稽古中に指導者が怒鳴りつけることは普通にありますよ。ですが、やっているのが自由組手でなく基本稽古や型稽古ならば、それは「勝負」ではないことになります。




武道での道場での「怒鳴り」と学校教育での小学生・児童への「怒鳴り」は別もでのすね。
より正確には、現在の学校教育過程では、です。


例えば、過去の学校教育では、教師への信頼感は絶対的です。
親も児童も教師の言う事・する事には、従うのが一般常識です。
教師に怒鳴られたら親は子供に「お前が悪い!」
現代では「子供を大声で怒鳴る教師が悪い!」


武道なら怒鳴られたら、その者は「もっと頑張る!」(上達目指す)
現代の児童なら「なんで怒鳴るの? 静かに言えば分かるのに!」(頑張る気持ちなし)




>ですので「上達論」と言ったときに「何の上達?何が上手くなること?」と問い返せば、「勝負の上達、試合の上達、勝ち負けのある闘いのスキルが向上すること」だとリフレーミングするならば、「上達論と勝負論」とは直接的同一のものとして区別されなくなります。




「何の上達」かって~
色々と、そのレベルはありますが…

一年生なら、
先生の話を静かに聞ける能力の養成・上達。
自分の疑問を先生の話が、終わるまで我慢する気持ちのコントロール能力の養成。
思った事をすぐ言葉にしてしまう癖の修正。

まとめて、授業を真面目に受けられる態度・行動・行為・認識力の養成・技化…ですね。

そうそう…南郷氏は、
何の勝負で、どのような勝ち方を求めるか…「勝負論」。
そのような勝負の為の実力養成課程に…「上達論」。

別言するなら~
「勝負論」は結果論。
「上達論」は過程論。





>南郷先生が「上達論と勝負論」として区別した「対象」は、「自由組手」と「その場突き、その場蹴り」「空手の型」という異なるものの「上達、上手くなること」が前提となっていると思いますね。




残念でした…分かっていないよ!

寸止め空手の判定の二重性での、「上達論的観点」と「勝負論的観点」の上達論と勝負論、
更には、勝負に勝つ・対手を倒す為の「勝負論」とそのような実力・養成の為の「上達論」。

同じ「上達論・勝負論」でも、違ってくる事を~

蹴り技で勝つ為(勝負論)に、
理想的蹴り技の基本型の習得・習得そして向上(上達論)


>そして、自由びとさんが揚げた「攻撃したときに相手にダメージを与えているか否か」ではなく「どういう姿勢で加撃したか?」が問われるのは、南郷先生の玄◯会だけに限った話しではなく、琉球から伝わった「唐手」を競技試合化した「伝統空手」に共通した「寸止めの芸術点」のような観点だと思いますね。



これも分かっていない…
ただただ…勝負に勝つためなら、どんな姿勢・形であれ、相手の致命的な急所に当たれば勝ち(勝負論)です。
一本でも二本指でも、どんな姿勢で…対手の目ん玉に入れば「勝利」(勝負論)。

決闘ができ難い現代武道だからの勝ち負けの判定・観点としての「上達論・勝負論」、
決闘に勝つ為の勝負論・上達論を区別と連関  で分かっていないね。

お宅の弁証法である「対立物の統一」の実力不足ですかね。

>つまりは「試合」が有っての「基本稽古」なのではなく、「型」が先ず有っての「型の保存」を中心とした「基本稽古」であり「自由組手試合」なのだ、と理解します。



現代ではともかく…
過去の武道? 空手は何の為?
それって決闘に勝つためでしょうが…


過去の「試合」は何の為、「技の試し合い」でしょう。
試合そのものが、上達論の適用結果ですよ。

過去なら、勝負論も勝負論的観点の不要です。
決闘して相手を倒した方が勝です」


健康な人間でも、時に「死」を考え・みつめる事は有意義です。
武道である以上は、現代社会に「決闘」は有り得なくても、
「死」を意識する事は必要でしょう。


どんな一本・技あり…にもならないヘボ技でも、
受けられないから、即「片輪」ってね…

あまり試合をしなかった私の大学時代の空手は、そんな風に考えたモノですが…





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