ここでの禅問答とは以下である。
問い~
「まるを描かずに、まるを描きなさい。」
上記の問いに対する答えを
ホームページ竹の間[3513]から引用するなら~
「上級レベルの、駆け引き」になってくると、…
小僧「まるとは何ですか?」
老師「実は、ワシも『まる』の事は知らんのだが…
「でも『何ですか?』の方は分かっているんだ!」
小僧「では、『何ですか?』とは、何なのですか??」
老師「それは『まる』なんじゃよ!」
では、ズバリ私の回答は以下である。
一円玉、五円玉、十円玉、五十円玉、百円玉、五百円玉を描く。
そして言う。
「これらです!」
「これらを重ねてみた時、(貴方は)まるを認識します」。
如何かな?無門慧開くん!
開いた口が塞がらない…?
これでも…本来の禅問に対する答えとしては正解と言い難い、のだろう。
そもそも「禅問の回答」とは結果判定である。
その判定とは、
「悟り得ているか?いないか?」
「それは、如何なるレベルのモノか?」
を知る為のモノである。
従って、本来は、その「禅問題」が、
修行者のレベルに合わせれて然るべき、であろう。
しかし…残念な事に、ネットでは、
そのようには書かれていない。
更に書くなら、
禅答とは、
考えてから答るのではなく、
感じて即答・即反応・即対応が正解である。
それも、全身での回答表現が理想であろう。
さてさて…回答解説編を書こう~
無門から無門慧開への改コテハンまでは合理的であった。
その理由は、過去に自由びとブログへの書き込み禁止を受けた…にも関わらず、
自ら慧眼開眼の為に、無門から無門慧(眼)開(眼)としたからである。
しかし、非常に残念な事に、奴は、自由びとの見解・主張を正確・的確に理解でき難かった。
結果的に、今の奴は開きかけた慧眼が、閉じてしまい…
結果的に、今は、無門慧開ならぬ無門慧閉となり果ててしまった、のである。
前置きは以上として…
そもそも、この問いの答えを求めるには、
「描かずに、描ける『まる』」があるなら、
それは、どんな「まる」だろう?
まるとは?
描くとは?
禅とは何か?
問答とは何か?
禅問答の回答とは何か?
それらの思考・思惟過程から得たモノは~
「まる」とは、言葉である。
言葉は、認識の表現であり、
人があるモノ・コト…を認識して表現したモノが言葉である。
ならば、人は何を「まる」と認識したのだろう。
それは、普通に「〇」であろう。
これは、言葉ではなく絵である。
ならば、この絵を表現した言葉となる。
しかし、そもそも「〇」とは、どのように生じた絵なのか?
絵とは、人が認識し得たモノ・コト…を絵として表現・描いたモノである。
ならば、人は何を「〇」と認識したのだろう?
それは、存在するモノの形状を「〇」絵にして、
それを「まる」と命名した、のである。
従って、言葉の意味としての「〇」は描けても、
現実界に存在するモノの形状は直接には描けない。
だから、私は、描けない「まる」を表すために、
「まる」ではない、上記の諸々の硬貨を描いた。
これこそが、まるを描かず、硬貨を描き、
その諸々の硬貨をまとめて見た者が、
そこに「まる」を視てとる事を期待して…
そう~これは、私の相手への期待を込めての回答である。
だから、「まる」を知らない者達には、
私の描いたモノを見ても、「まる」は視て取れないのであろう。
同様な事が「悟り」や「悟得」にも言い得る。
「悟り」を識らない、「悟り」を体得していない人達には、
百万言の言葉で説いても…「悟り」は全く理解不能。
しかし、悟り得ている人なら、
相手の一言、または相手の一挙一動から、
相手のレベル、悟りの状態を視て取り得るモノである。
どうですか?
無門慧開ならぬ無門慧閉くん、
これでも、ありますか?
反論?
暴論?
愚論?
糞論?
尿論?
糞論?
尿論?
無論!ない!と確信しているが…
もっとも…
今の無門慧閉くんなら、
迷論?
はあるかも…
以上が~
迷わずに、
迷いの道を、
自信に満ち満ちて、
一直線に突き進んでゆく、
無門慧閉君へのエールである。
「まる」というのは「円(まる)」で、日本の通貨単位が「円(えん)」なのもそうした文化だとか思想を背景に持っているのかも知れませんね。
禅の坊主も生きていくため時として師や先輩に先んじて勝っていくことも学習させられれば、お金を積極的に要求する駆け引きすら学んでいくものかも知れませんね、禅というものは(笑)。
坊さんの世界でも格上の坊さんに袖の下掴ませたり、贈り物おくって接待したりなんてのは人間社会の常としてあるのかも知れません。
当たり前っちゃ当たり前の話ですが、ま、一つ参考になりましたよ(笑)。
予想はしていたが…
やっぱりレベル高すぎ、
豚に真珠、猫に小判、
糞に香水、尿に聖水、
相も変わらず、自分勝手に分かって…
迷わず迷いへの道を真っすぐ一直線、
どうか思う存分に迷い道さ迷ってね♪
私も「禅問答」には関心がありますからこの機会に少し調べ始めたわけですが、理解が進めば進むほど自由びとさんが引用している「竹の間」の無明庵EO氏や鈴木崩残さんの論説が駄論だということが明らかになってきました。
どうして自由びとさんがこの「竹の間」から引用してきたのか?どうした経緯でこの「竹の間」に辿り着いたのか?は深くは詮索しませんが端的には「類は友を呼ぶ」で惹かれ合ったのだと考えますね。
この「竹の間」の禅問答にも、自由びとさんの禅問答への接近にも共に「禅」も無ければ「仏教」も無いと思いますよ。
それが現れているのが「禅の道↔️禅問答」での
>…(中略)ならば、まるをまるとして描けないまるはあるのか?…
>そんなこんな、思考・思惟・思弁…等の繰り返しこそが、「禅」の求めている「悟りへの道」である。
私はこの「まるを描かずに、まるを描け」という公案を歴史の中に探し当てることが出来ませんでした。何時、何処で、誰が提起した公案なのか?もしかしたなら「竹の間」の無明庵EOさんか崩残さんが自作した問いかも知れないとも考えたわけです。
というのも「禅」の公案というのは数学や自然哲学の問いと違って「仏性の理解」というところに辿り着くように師たる禅僧が出していると思われますから、単にパラドックスだとか矛盾した論理を解くといったものでは無いと確信しています。
そうした「歴史的な禅」であり「歴史的な仏教」で扱われてきた「まる」というのは何の形かといえば、私と違って自由びとさんのように「硬貨の形」を想起する人も極めて少数だとしてもいるのでしょうが、私は「月の形」だと思っているわけです。
新月のように姿の見えないところから三日月、半月を経て満月に至り、また欠けていく、そうした「変化していく月の姿」からするならば「満月の形である<まる>」というのは「欠けていない、満ちている、完全な形」だと古くから人間は考えてきたのでしょうね。そして、それは心や人間関係を映し出す鏡でもある、と。
確かに古人が宗教の教義の中に表した思想には含蓄深いものがあると驚嘆するところがありますが、自由びとさんの浅はかな思考に触れると還暦すぎてもこんなもんで構わないのだとお気楽な気分で逆の救いがありますね(ぷっ、失敬)。
まあ、世阿弥なんかの「華の思想」「秘すれば華」なんてのも仏教かと考えたなら、日本文化における仏教の重さをあらためて感じた次第ですけどね。
「汚く穢れた言葉」…
それは誰かさんの影響ですね!
それってお宅の事だったりして?
そうか、お宅はお宅で…自由びとの影響で、
やっと少しまともになり得たのかな…?
>無明庵EO氏や鈴木崩残さんの論説が駄論だということが明らかになってきました。
↑
笑える!
毎度毎度~
自分勝手な思い込みで他人の言葉を解釈・誤解しているお宅の
「明らかになって」くるのは、お宅の無知・無能・無理解ですね!
そうそう、あそこに書いてあったでしょう。
「まる」の問題は崩残氏の自作って!
>どうして自由びとさんがこの「竹の間」から引用してきたのか?
>どうした経緯でこの「竹の間」に辿り着いたのか?
>は深くは詮索しませんが端的には「類は友を呼ぶ」で惹かれ合ったのだと考えますね。
ネットで「禅問答」・「公案」…で検索したら、たくさんでてきました。
色々と読んで、最終的に「まる」の問題になんとなく魅かれたのです。
初めは、一回で終わるはずが…
誰かさんのトンでも回答の御笑い刺激で、ここまで続いています。
そう~彼・崩残氏と私は、きっと同「悟りを求めて」類ですかね!
彼は、彼の方法・手段で、悟りを求めていました。
私は、そんな彼に共感して、我が悟りへの道を進めました。
私にとっては、禅も仏教も学問も弁証法も…全てが全てで、悟りへの道なのです。
お宅って…
発想が貧困で、ワンパターンですね。
禅のまるは「月」とは…
そもそも…人工的な硬貨ほどに、〇を実感でき、〇に近いモノはありません。
そうそう、触れない「月」では、〇を実感できませんね。
禅問答の教えは、言葉に囚われない事・現実重視です。
「まる」を「まる」と囚われる事無く「まる」に拘る。
禅の「まる」に囚われる事無く、拘る事無く、
まる自体に拘る、です。
禅は生きる為の禅です。
人生に生かせない禅は、空っぽの禅、中身のない言葉、空虚な言葉、空虚な知識…
それって…お宅の言葉・記述・言説の事かな…
お宅は、本当に、
>世阿弥なんかの「華の思想」「秘すれば華」なんてのも仏教かと考えたなら、
>日本文化における仏教の重さをあらためて感じた次第ですけどね。
↑
こうなのですか?
またまたお宅の自分勝手な思い込みだったりして…
最後に、鏡に映したお宅の姿を言葉で御見せしましょうかね!
「類は友を呼び」という現実とは、
ここまでコメントを書き込み続ける。
お宅の自由びとブログへの執着。
それこそが「類は友を呼ぶ」です。
私のコメントを読んでいただければ了解していただけるように私と自由びとさんとでは住んでる精神世界がまるで違いますよ。
私は自由びとさんには全く執着しておらず「禅」という一大文化への関心から調査をし、そのアウトプットの一つの場として「禅問答」をタイトルとしたここの記事を利用しているだけですから。
まあ「妙法蓮華」とあるが如くに自由びとさんの汚ならしく穢れた言葉のオンパレードの中でも私の知性が拓けてくるのは正しく「霊妙」なことかも知れませんがね(笑)。
>発想が貧困で、ワンパターンですね。
>禅のまるは「月」とは…
いえね、そのあたりは私は「調査」をしてるだけで「独創的な発想」をしようとはしていないだけですよ。
禅やら仏教やらを修行した昔の人たちが認識した「まる」というのはどういう観念だったのだろう?という「私、自分」ではない「先達」の観念を探っていく行程ですから「発想が貧困」という判で押したような言葉を使われた意味が分かりませんよ。
禅や仏教の「悟り」や「まる」を探していくうちに「心月」という言葉に辿り着きましてね。そこから「ああ、仏教の悟りの境地は満月なんだ。禅画で描かれた円相は満月なんたな。」と理解が進んできたわけですよ。
そこまで理解が進んでくるとブルース・リーの「燃えよドラゴン」の冒頭の有名なシーン、ブルース・リーが弟子に語る「考えるな、感じろ。月を指す指のようなものだ。指先ばかり見てると月が見えなくなる。つまり、大切なものを見失ってしまうのさ。」というセリフの「月」というのが「悟りの境地」を指していることなんだと繋がってきたわけですよ。
そして、この「月を指す指」というのが道元の「言葉と真実とは無関係」だという思想から来ていると知ったわけです。周辺の諸々との整合性で理解してるわけですが、今はインターネットが発達して本当に便利になりましたね。以前ではこんなに速く知性が拓けるということは無理だったでしょうね。
「月心」への理解がブルース・リーの映画の求道精神の理解に繋がることで世界中にたくさんいるブルース・リーのファンの人たちと仲良くなれる基礎となりますし、また道元の思想への接近が禅の僧侶たちへの理解に繋がり仲良くなれる道が拓けてくるとも考えるわけです。
人間というのは一人では生きていけませんから他者への理解が己の生に繋がるわけですよ。
さらに、真なる禅や仏教の理解から南郷さんが秋月龍岷の著作集の解説に書いた「悟りとは何か」の文言の偽りが見抜けて引っ掛からずに生きて行けるわけです。
このことは、日本ばかりでなく「東アジアの思想的な共通基盤としての大乗仏教」というところに繋がりますから、私にとって色んな意味で重要なことなわけです。
なるほど…
今回のコメントで、お宅の言わんとする事が、
分かったような気がします。
お宅と自由びとは、「友」ではありません。
ならば、「類は類を呼ぶ」という事ですね。
精神世界がまるで違っている以上、
「禅」・「禅問答」への関りも、大きく異なっている、のですね。
自由びとは、「悟りを求めて~」禅の精神を知って識り、
禅の悟りへ至る道から道筋を見出し、日々の生活と練り合わせて、
悟りへの筋道化への実践をしている…大袈裟に捉えて書けばですが…
それに比して…
お宅の「禅」との関りは、
禅を知りたい!詳しく知りたい!
そんな自己欲求の満足の為なのですね…
もっとも…これが、
単なる私の誤解・誤読なのかも知れませんが…
それでも、「禅」と禅的に関わる事は、
その禅の本質を自己化して、禅的な人生を歩める為なのでは!ないかと…私は思います。
これは、多くのネットの禅情報から、
私が得ている結論です。
そうですね。
私のあの言葉は、ブルース・リーの言葉の引用です。
その事に気づいてくれて、とても嬉しいです。
でも、この言葉の解釈は、お宅とは大きく違っています。
精神世界がまるで違うから当然ですが…
「考える」事は、観念的な働きです。
それは、一時的に五感覚からの外界情報を頭脳が無視している状態です。
それは、闘いの中で一瞬でも考えてしまったなら、そこに隙が生じる、からです。
「感じる」事も、観念的な頭脳の働きです。
それは、外界からの五感覚情報を認識する・感覚する事であり、
日頃の正しい鍛錬があれば、
感じたら即反応・対応可能なのです。
換言するなら、
闘いの場では、「考えて動くな!感じて動け!」、
「考えの行動ば負けるかも、感じて対応は勝てるかも…」ですね。
もっとも…
これは、真剣勝負の場合で、
それも、対戦相手の実力次第ですが…
最後に以下の一文~
>「悟りとは何か」の文言の偽りが見抜けて引っ掛からずに生きて行けるわけです。
笑える!爆笑ですよ!
自由びとの言葉でさえ自分勝手に理解して分かっているつもりのお宅に、
「悟りとは何か」の文言が、確りと分かれているとは、到底!思えませんね!
自由びとさんは私の利益になるような知見をわずか一つたりとも提出したことはありませんが?
その代わりに繰り返し発言するのが「私(自由びと)のお陰で」という何か自分が指導者的な立場で実績を出しているかに装おうとするいかにも脆弱な強迫観念に囚われているかのセリフばかり…。
その脆弱さといったなら「私は玄和の指導局の人間だ。したがってお前の考えは全て解っている。なぜなら私は指導局の人間であるがゆえに会員が義務として強制的に提出させられる原稿を閲覧できるからであり、お前のことを深く理解しようと親身に関わったからではなく南郷尊師に近い間柄の人間だからである!」ぐらいの脆弱さですよ。
闘いの中で一瞬でも考えたなら隙ができるというのは思考の時間と間合いとの関係が理解できていない人間なんでしょうね。
ショートレンジで何かを考えていたなら相手を攻めるのも遅れますし、相手からの攻撃に対応していくのも遅れてしまう。
ですが一旦は距離をとって離れた間合いからなら次にどう行くかを考える余裕も出来るでしょうし、相手の動きも観察できる。
特に玄和さんのように2メートルも3メートルも間合いを取って闘うスタイルだと考える余裕もあるでしょう。相手が攻めてくる姿を確認してから右に行こうか左に行こうかを躊躇してから動き出す余裕がありますからね。
「闘いの中で一瞬でも考えたなら」なんてことを漠然と言い切ることが出来るだけで実際にはやり合ったこと無いんじゃないの?なんて気がしてしまいますけどね。
ボクサーなんかでも初めて闘う良く解らない相手の場合、いきなりは接近戦にはいかないで、離れた間合いからフェイントかけつつ相手のスピードだとか動きの特徴、癖なんかを観察しながら次の戦術を組み立てていくようですからね。
それより何より、「私のお陰で」を繰り返す自由びとさんのような虚勢をはった態度が見苦しいと感じてしまう人間なんですね、私は。
日本の武道を学ぶことは正義の精神が涵養されるというイメージがあるのですが、自由びとさんが学んだ流儀は子供に学ばせてはいけない見苦しい武道だという感じがしますね。