「世界観」の話
普通に、「世界観」を考えたら…普通の人が「世界観を意識する事はない」だろう。
それでも、普通の人々の「無意識・無自覚的な世界観とは」?
それは、その人が日々の生活の中、何をどう感じ、どう思い、どのうように考えているか?
世界は、自分中心で、日々の全てが思い通り順調に過ぎて行く。
世界は、自分と無関係に、日々の物事は、自分の思い通りには進まない。
自分の周囲の世界は自分と関わり合いの中で変化し、
テレビ・新聞ニュースの中の世界は、自分と無関係に変化している。
そう~
自分自身に世界観があるのではなく、
世界があってそこで自分は日々生きている…そんな感じだろう。
例えば~
銀行・警察から電話で「振り込め詐欺」に引っかかる人の認識は?
それは、銀行・警察だと言えば、無条件に信じてしまう。
電話相手の言説は、音声・言語であり、その内容は事実とは限らない。
事実とは限らない相手の言説・認識を信じるとは、相手の観念を信じる事。
その相手の言説・観念を鵜呑みにして、それが事実だと確信して行動するのは、
無自覚・無意識であっても「観念論」的な世界観(その一時の)。
ここで、観念=事実ではなく、観念を事実or虚偽の確認をしようとするなら、
無自覚・無意識であっても「唯物論」的な世界観(その一時の)。
過去の学校では、「教師だから信じろ!」。
現代は、「教師でも信じられるとは限らない」。
過去の学校は、親・保護者が、教師を信じ頼る事で、相互理解が生れ、児童の学習も順調。
人間同士は、外見は見えても、頭の中までは見えない。
初めに信頼関係があるあり、互いに心を割って話し合える関係と…
不信感から始まる関係で…「言いたい事も言えない・言い辛い」関係は…どうなのだろうか?
世界観レベルの一定した「世界観」=物事の関係性を含めての全体的なの観点・捉え方…ではなくても…
人々は、その時々に、客観性・事実性の重視、または、相手の言葉・認識の重視…そんな生活であろう。
分からない事は専門家、病気は病院・医師を信じて、お任せ。
税金は、税務署の計算を信じて、通知書・請求書の金額通りに支払い。
現代社会では、個人的に、知り得ない事が、知らない事が多すぎる。
そんな知らない事を一々一つ一つ事実的に確認していたら…大変な苦労であろう。
だから、人は専門家の言説を鵜呑みにして、信じて従っているのだろう。
しかし、ネット情報では、専門的な見解の正当性の確認も可能…だが…
そこには、「個々の専門用語の理解」という難題が…
さてさて…想いのまま、思うままに、書き綴ってきたが…
現代は、科学の時代なのに…、現代人の日々の生活は「観念論」的であろう。
科学的とは、対象に即した思考・思惟が基本なのに…
現代人は、他人の科学的な認識・観念を、自分で確認する事無くを確信して生活している。
その他人の科学的認識・観念のレベル・中身が問題なのに…
誰もが対象と正しく関わったから…といって、
それで、必ず対象を正しく認識できるとは限らない。
普通に、「世界観」を考えたら…普通の人が「世界観を意識する事はない」だろう。
それでも、普通の人々の「無意識・無自覚的な世界観とは」?
それは、その人が日々の生活の中、何をどう感じ、どう思い、どのうように考えているか?
世界は、自分中心で、日々の全てが思い通り順調に過ぎて行く。
世界は、自分と無関係に、日々の物事は、自分の思い通りには進まない。
自分の周囲の世界は自分と関わり合いの中で変化し、
テレビ・新聞ニュースの中の世界は、自分と無関係に変化している。
そう~
自分自身に世界観があるのではなく、
世界があってそこで自分は日々生きている…そんな感じだろう。
例えば~
銀行・警察から電話で「振り込め詐欺」に引っかかる人の認識は?
それは、銀行・警察だと言えば、無条件に信じてしまう。
電話相手の言説は、音声・言語であり、その内容は事実とは限らない。
事実とは限らない相手の言説・認識を信じるとは、相手の観念を信じる事。
その相手の言説・観念を鵜呑みにして、それが事実だと確信して行動するのは、
無自覚・無意識であっても「観念論」的な世界観(その一時の)。
ここで、観念=事実ではなく、観念を事実or虚偽の確認をしようとするなら、
無自覚・無意識であっても「唯物論」的な世界観(その一時の)。
過去の学校では、「教師だから信じろ!」。
現代は、「教師でも信じられるとは限らない」。
過去の学校は、親・保護者が、教師を信じ頼る事で、相互理解が生れ、児童の学習も順調。
人間同士は、外見は見えても、頭の中までは見えない。
初めに信頼関係があるあり、互いに心を割って話し合える関係と…
不信感から始まる関係で…「言いたい事も言えない・言い辛い」関係は…どうなのだろうか?
世界観レベルの一定した「世界観」=物事の関係性を含めての全体的なの観点・捉え方…ではなくても…
人々は、その時々に、客観性・事実性の重視、または、相手の言葉・認識の重視…そんな生活であろう。
分からない事は専門家、病気は病院・医師を信じて、お任せ。
税金は、税務署の計算を信じて、通知書・請求書の金額通りに支払い。
現代社会では、個人的に、知り得ない事が、知らない事が多すぎる。
そんな知らない事を一々一つ一つ事実的に確認していたら…大変な苦労であろう。
だから、人は専門家の言説を鵜呑みにして、信じて従っているのだろう。
しかし、ネット情報では、専門的な見解の正当性の確認も可能…だが…
そこには、「個々の専門用語の理解」という難題が…
さてさて…想いのまま、思うままに、書き綴ってきたが…
現代は、科学の時代なのに…、現代人の日々の生活は「観念論」的であろう。
科学的とは、対象に即した思考・思惟が基本なのに…
現代人は、他人の科学的な認識・観念を、自分で確認する事無くを確信して生活している。
その他人の科学的認識・観念のレベル・中身が問題なのに…
誰もが対象と正しく関わったから…といって、
それで、必ず対象を正しく認識できるとは限らない。