「音」について…
・コメントを書いた人
一村隆滝
・コメント
>国語の教科書を離れて理科の教科書へ、自然科学へと向かうときに大事なことは「定説」が先ずもって正しいと信じることだと思います。
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定説の「結果・結論は信じても」…その「過程に問題があるかも」…と疑う。
>つまりは南郷学派の浅野さんが書いていたような「南郷先生が様々な専門分野の定説を覆えす形で講義をした」といったところに、頑張って頑張って定説の正しさを証明しようとすること、「学的世界における社会的な個」となるべく踏み止まることが学者になっていく道だと思います。
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学者のなる事を求めるか、真理の追究を目指すかの相違。
または、現代の学者を目指すか、将来・未来に
「あの人は真の学者だった」と評価される学者を目指すかの相違。
>「音」の話しでいったなら、私が前の投稿に書いたように「空気の振動のうち聴覚で感覚できる可聴域が「音」であり、それ以外の振動は「音」では無い」というのが「日常生活的で常識的な」考え方かと思います。
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それ以外は、人間にとっての「音」ではないが…
他の動物達には、「音」である。
だって…よく~、人には聞こえない「音」とう言っています。
>ですが、自然科学(物理学)の世界では、人間の聴覚可能な範囲を超えて振動一般が「音、サウンド」だとなっています。
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え~物理の世界ではなく、普通に「イヌ笛」で音を出しているでしょう。
>弁証法の「相対的独立」という言葉は「相対的」という「関係がある、繋がっている」という言葉と、「独立」という「関係がない、繋がっていない」という相反する意味の言葉をくっつけたものですけど、
自然科学(物理学)の「音」の理解も「聴こえる」と「聴こえない」という相反することを「振動」という共通することで繋げて連続させています。
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う~ん…
「聞こえる・聞こえない」ではなく、「音」として、感覚可能なモノ・刺激と感覚不能モノ・刺激。
>おそらく、これは科学・物理学の長い歴史の中で獲得されてきた世界観・科学観で、コペルニクスの地動説が「動いている」と「動いていない」とを別々のことではなく連続させ、それはアインシュタインの相対性理論にまで繋がっていく話しだと考えますね。
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何と…見事な自分勝手な解釈ですね。
>そして、それは現在では心理学で正常と異常とを全く切り離された別々のことと理解するのではなく、光のスペクトルのように連続したものだと理解するに至ったものなのでしょう。
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問題は、どのような原因・理由で、正常から異常に変化するのか?ですね!
>そうした「音」に関する理解は「人間の耳に聴こえる」といった日常生活を超えて、「音波」を「電磁波」と区別するための概念としたり、テクノロジーの発展によって人間の可聴域を超えた振動を増幅したり変換したりして可聴化するに至るのでしょうね。
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だから、人間に感覚可能か?不能か?の問題ですね。
耳の鼓膜を振動させていても、その刺激が神経を伝わって頭脳に届いても、それを音と認識していない。
だって、耳に聞こえない「低周波音」でも、人体影響を及ばしている…
それは、その信号が頭脳に届いていての影響。
これは、鼓膜ではなく、全身の触覚が感覚するモノなのでしょうね…
同じ、空気の振動でも、聴覚から伝わり音と認識する場合と、全身の触覚から頭脳に伝わり「不快感」と感覚する場合がある…という事です。
>ですから自由びとさんが脳天気に「何の事はない、事実的なことは」などと小馬鹿にして述べた事柄だけでも、「全くもって自明なことではなかった、科学の発展によってもたらされた人類の叡智」だということが、青春時代に学問に励まずに「青春とは何だ!」なんぞをテレビで夢中で見ていた干からびた感性では理解できないわけです。
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ヤッパリ誤解している。
ネットの図解で、耳の構造がハッキリした事が「何の事はない」なのです。
だって…ひと昔なら、専門の医学書を紐解いて初めて、あそこまで専門的の詳しい「耳の構造」を知る事が出来たのでしようね。