新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

うん~今日は、何の記念日にしようかな…「またまた悟った記念日」?

2024-01-06 14:14:42 | 「わたし事・学」


うん~今日は、何の記念日にしようかな…「またまた悟った記念日」?


今こそが、私の「
「胡蝶の夢」が言語化可能。



夢とは、<旧・「悟りを求めて…」>・<新・「悟りを求めて~」>のコメント欄の書き手妄想。
胡蝶とは、私自身の認識。



いつの頃からか、ここのコメントの中にブラック「南郷継正」を感じていた。
ホワイト「南郷継正」は、⒉チャンネルの「梅雨さん」の中に観た。
もっと以前は、ブラック・ホワイト合わせて「高岡英夫の著書」に観た。


現在は、このコメント欄の記述主が「南郷継正」認識そのモノに感じている。

しかし、それは私の認識が「南郷継正化」し得たから、全てのコメント記述に「南郷継正・認識」が見えてしまう…のかも…

「私の認識」が南郷継正なのか?それとも、「記述・文面」が南郷継正?

これが、私の「私が蝶? 蝶が私? 「胡蝶の夢」。
これって~
南郷継正著
『なんごうつぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義』
に取りつかれた結果の妄想?


しかし、私には、夢と現実の区別はついている。
何しろ…これが夢なら、こんなに自由に書けない。

私は、南郷氏同様に「夢の中で、夢を動かせた」
それは、なかなか開かない窓、向こうが見えている窓、
その窓に近づいて、必死に開けようとした…
そして、何とか開けられた。

これって、「フェルマーの料理」の「料理の門」であり、
その先には「料理の真理」」がある…それに似ている…と思っていたら
その先には、更なる「料理・真理の門」が…
ドラマでは、それが「料理の真理」である、だったが…

私の場合は、「窓」であり、向こうの風景は見えていた…しかし覚えていない。
このような事を「夢トレーニング」と自称して、何時の頃から…
眠れない時に、何となく風景が見えてきた時に、南郷氏の「私は夢を動かした」言葉を思い出し、トライした。
それが、建物だったら、自然の風景に…自然の海、山、森…

私は、過去に高校の後輩に催眠術をかけた経験から、
これは、意志を抑えて、心・認識のままの映像に、静かにゆっくり、
その心に直接に暗示を与えて、「私の心風景を変えた」…

これが「マインドコントロー」である。

オウムは、修行と称して、意識朦朧にする為に連続的な苦しい修業をさせ…
その人の意志を砕いて、心だけ状態にして、教祖の望む事を焼き付けた。


こんな事が、思惟可能なのは、私が新任教師の時の、
新たな教師生活・興奮眠れない私を、゜自律神経訓練法で、何とかしようと体験。
そして、いつの頃から、その「自律神経訓練法」が気に入って、
その後…それが、いつまでか、は思い出せないが…数十年続いた。



催眠術とは凄い!
私が催眠術をかけた後輩、私が催眠術で彼女の好きな相手を聞きだした後輩…
一度、高校の噴水のある広場で、少林寺拳法部ミーティングの合間に、
思い付きで、彼女の手?だっかな…を触って「動かせない!」と、
きつくに命令したら、彼女本当に手を動かせなくなった…

実は、その彼女を、私は好いていた。
好きな人がいる…と知った私は、結局、告白出来ずに高校卒業だった。

今考えると…彼女の好きな人には交際中の女性がいて、その事も彼女は知っていた。
私の告白する余地は、十分過ぎる程にあった。のに…
結局、問題は、私に、告る勇気がなかった事だろう…


さてさて…もっと色々と書きたいが…何をどう書けばいいか…分からない。


気付いた結論は、このブログコメントの連続は、その書き手がどうだろうが…
私にとっては、「禅問答」そのモノだった。
それも、確りと私の真理的・論理な成長を願っての、各段階を踏まえての連続性を持ったコメント…


今回の「私のレスコメントがないのに…連続コメントは、
そのレベルが越えられない為の私への言葉と認識した。

私は、弥勒コメントの言葉・文面に非常に悩んだ・苦慮した
それは、以前の私にない苦慮・悩み方であった。


そんな苦慮の際中に、庭のマロンの鳴き声・そして散歩が…
苦慮の世界・内界から、私を現実世界に戻してくれた。
マロンとの散歩は、妄想中の私を、いつも・いつも現実に引き戻してくれる。
これと同じような事を、お宅orお宅達が、このブログ世界で私にしてくれた事。

禅問答であり、取り立て稽古でもあろう。
私が、同じレベルに留まっている時…交代でコメント、
レベルが上がると、また違うレベルのモノ達が…

しかし、レベルが上がる程に、その人数は減っていく。

>菩薩は、如来のすぐ下の位にあり、如来の意志に従ってさまざまな姿に変わります。
>弥勒菩薩(みろくぼさつ)とは、お釈迦さまの次に仏となることを約束されている菩薩です。菩薩の中でも最高位にあたり、慈しみによって生あるものすべてを救うという菩薩です。


私は、ついに…「弥勒菩薩」と禅問答したのですね♪♪♪
tadaさんが、それまでの私が思いもしなかった「仏教」を提示した事。

今回のHDが弥勒だった事。しかも久しぶりに初めから「弥勒」をネット検索して事。

そう~全てのコメントは、私の心・認識への問い掛けだった…
そして、それをまともに心レベルで受けられて私の実生活は、
三年目の一年生中心の学習補助員…「石の上にも三年」…


そう言えば、母が生前、私に言っていました。
「生れたばかりの、ニョリン(私の愛称)の頭は、お釈迦様みたいだった…」と見て思ったそうです
それも…もしかして、一つの暗示かな…
母は、私がお釈迦様のように成る事を願っての想い・言葉?


これを書きながら…私は、デジャブ―を見た。…
しかし、それは、感情繋がり、過去の体験・経験した感情を感じた、のであろう。
加齢・人生の長い長い生活中で、その人の感情変化の幅が狭く・浅く・固定的になり得る。

過去と同等・同質の感情体験がなくなると…なかなか…思い出せない事が増えていく。
私は、ここ数年間の実生活での変化に加えて、この三年間の新一年生との関り、その他…

私の感情の自由性を取り戻した。
天真爛漫・純粋無垢…


いや~真の自由びと…なのかも…
これが、私の感情コントロールであり、私の悟り・悟得…なのだろうか…

ここらで観念世界からの離脱…現実界への復帰…










菩薩(ぼさつ)とは、仏教の術語で「悟りを求める人」を意味します。サンスクリット語の「ボダイサッタ」を略したもので、「ボダイ」は「悟り」、「サッタ」は「生きる者」を意味します。

菩薩は、仏の位の次にあり、悟りを求め、衆生を救うために多くの修行を重ねる者です。また、悟りをえた人を仏とするなら、菩薩とは仏にいたる過程にある者をいう言葉でもあります。

菩薩は、如来のすぐ下の位にあり、如来の意志に従ってさまざまな姿に変わります。そのため女性のような姿をしていたり、頭上に顔がたくさんあったり、手が千本あったり、と多様な外観をもつのが大きな特徴です。

主な菩薩には、次のようなものがあります。

弥勒(みろく)菩薩

文殊(もんじゅ)菩薩

普賢(ふげん)菩薩

地蔵(じぞう)菩薩

観音(かんのん)菩薩

虚空蔵(こくうぞう)菩薩

日光菩薩

月光菩薩

勢至(せいし)菩薩

如来は仏教における最高位の存在で、梵語で「真実から来た者」という意味です。菩薩は仏教における悟りを求める人で、梵語で「悟りを求める者」という意味です。

如来は浄土に住み、菩薩は六道の上位にある天界に住んでいます。菩薩は最終的に如来になることを目標に修行を積んでいる修行者で、如来のすぐ下の位にあります。菩薩は如来の意志に従ってさまざまな姿に変わります。

如来と菩薩では如来のほうが偉く、如来の中でも阿弥陀如来が最も偉いとされています。





弥勒菩薩(みろくぼさつ)とは、お釈迦さまの次に仏となることを約束されている菩薩です。菩薩の中でも最高位にあたり、慈しみによって生あるものすべてを救うという菩薩です。

弥勒菩薩は、大乗仏教の代表的な菩薩の1つで、慈氏や慈尊とも呼ばれます。サンスクリット語の「マイトレーヤ」は「慈愛」を意味します。

弥勒菩薩は、釈迦入滅後56億7000万年後に兜率天から地上に降り、釈迦にかわって衆生を救済するとされています。現在は兜率天という世界で修行中の菩薩ですが、弥勒仏とも称されます。

弥勒菩薩は、浄土三部経の中でも、『大無量寿経』と『阿弥陀経』に出てくる菩薩です。















胡蝶の夢」は、夢と現実の区別がつかないさま、または人の世のはかなさをたとえる言葉です。中国の戦国時代の思想家である荘子が、蝶になった夢を見た後、自分が夢の中で蝶に変身したのかどうか疑ったという故事に由来しています。

「胡蝶」は蝶の別称で、平安時代の舞楽や源氏物語にも登場します。「胡」には「垂れ下がったあご髭」という意味があり、「まるで花茎が垂れ下がり、細く伸びた先に蝶が止まっている」ことから和名に「胡蝶」が付けられました。

中国では、蝶と「耋(耋)」という老年を意味する言葉の発音が似ていることから「長寿」の象徴とされています。また、幼虫→サナギ→成虫と劇的に見た目を変えていくことや、亡くなった人の魂の化身とも言われていることから「不死」「再生」「復活」などのシンボルともされています。

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私が蝶? 蝶が私? 「胡蝶の夢」の意味を読み解く!(中島 隆博)


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4 コメント

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Unknown (弥勒)
2024-01-06 19:51:33
たくさん書いてありますが、私が思ったことは唯一、南郷先生の「夢を動かす」という発言です。

確か『武道講義』の中で「三浦つとむの弁証法レベルの認識論では夢は如何とも動かせない」みたいなことを書いていた記憶があります。

私はこれも「知識の問題」、知っているか否かの話しだと思いました。というのは精神科医の行う精神の治療の中に「悪夢を見ないようにする」というのがあり、それが患者にマッサージしたりの筋肉をゆるめて身体を快の状態にするもので、南郷先生的な言い方をしたならば「認識と実体」ということになるのでしょうけれど、夢は認識だから認識をどう動かすではなく、肉体のほうに働きかけて悪夢を良夢?に変えるというような内容でした。

当時、南郷先生の高弟に精神科医のYさんという人がいて、おそらくそこから知った知見を踏まえての発言だったのだろうと思います。それは保育士だったK保さんの育児の話しでも赤子の身体(実体)を如何に快の状態にするか?ということが赤子が夢の中で泣いているか、笑っているかの違いだということなんでしょう。

三浦つとむの弁証法レベルの認識論とやらでは肉体への働きかけによる感情の不快から快への変化が考慮に入れられていないから夢はどうすることも出来ない、というお話しなのだと思いますよ。

でも、まあ、専門分野の小難しい知識など不要な自由びと氏には関係ないですけどね。
返信する
Unknown (弥勒)
2024-01-08 07:45:44
日をおいてこの投稿を見ると意味深いものを感じますね。

特に中島先生の名前が記載されていることには、東洋文化研究所で中島先生の講義を聴いたことのある私には懐かしい感じがあります。

原文の中島先生の「自他の区別を無にしない」という解釈は得心いくものですし、そこから考えるなら自由びとさんが何故に「菩薩」についての辞書的?事典的?な説明を長々と引用したのかの意味も私にとっては不可解ではあります。

敢えて「この部分だけ」を自由びとさんに寄せて南郷先生の『武道講義』的に述べるならば「言葉が生活していない」と言いますかね、「弁証法の代用品としての人生訓・処世訓」という視座からしても「人がどう生きたかという人生の教え」としての鎌倉武士が合戦の合間に浄土信仰をしていた「大往生を志向しての現世での《業(ごう)の規律》」といった「生活の生産」という所に論点が行くのではないかとも思いますけど、そこは全く勉強した形跡がないままに「南郷を信仰しろ!」ですから、ねえ(笑)。

飴玉欲しいのに飴玉くれない、みたいな幼女の甘えのような感じが否めないですけど、私には。
返信する
不思議な感覚が… (自由びと)
2024-01-08 14:44:56
>コメントを書いた人
>弥勒

・>コメント
>日をおいてこの投稿を見ると意味深いものを感じますね。


実は、私もそうなのです。
「家内の死」の直後の心理状態で書いたコメントの数々…

それらから、「え?!俺って事書いていたの!」
これから書こうも思っていたのに…既に書いている!
だって、それは、今なら書かない私の事実ですから…そんな感じ…

過去の忘れてしまった事の多い事。
でも、時々感情繋がりで、思い出します。

人間は、その時の感情に、過去のそれと同じレベルで感じた無数の対象像を描いているのですね。
その選択を問い掛け的認識がするのですね。




>特に中島先生の名前が記載されていることには、東洋文化研究所で中島先生の講義を聴いたことのある私には懐かしい感じがあります。

>原文の中島先生の「自他の区別を無にしない」という解釈は得心いくものですし、そこから考えるなら自由びとさんが何故に「菩薩」についての辞書的?事典的?な説明を長々と引用したのかの意味も私にとっては不可解ではあります。


ですよね!
私は「菩薩」の解説をみて、その「悟りへの道」・修行道に、空手の白から黒帯のように段階がある事にビックリしました。
そして、家内が好きだった「仏像の顔」が、もしかして、それぞれのレベルの菩薩の顔なのかも?!とおもって…またビックリ。
それらを私は自分の中で完結しているのですね…






>敢えて「この部分だけ」を自由びとさんに寄せて南郷先生の『武道講義』的に述べるならば「言葉が生活していない」と言いますかね、「弁証法の代用品としての人生訓・処世訓」という視座からしても「人がどう生きたかという人生の教え」としての鎌倉武士が合戦の合間に浄土信仰をしていた「大往生を志向しての現世での《業(ごう)の規律》」といった「生活の生産」という所に論点が行くのではないかとも思いますけど、そこは全く勉強した形跡がないままに「南郷を信仰しろ!」ですから、ねえ(笑)。


そのようですね…
私の心の変化を論理的・段階的に表現されていない…ようです。
そうなでね…
本当は、私が関わっている学校の児童達の事実で、
段階毎に表現可能ならいいのですが…



>「南郷を信仰しろ!」ですから、ねえ(笑)。


私の性格からして、それは絶対にない!です。
私は、他人が私へ危害加えない範囲で、その他人の自由意志を尊重していますから…

それに「南郷」は信仰の対象ではありません。
人間・南郷氏は、神ではありませんし…
彼の著書は、聖書でもありませんから…

ここでは「信仰」という言葉は不的確ですね。



>飴玉欲しいのに飴玉くれない、みたいな幼女の甘えのような感じが否めないですけど、私には。


いや!これはチョット違うかな?

好きな女子に、バレンタインチョコをプレゼントしたいのに…
先ず、何を買うか苦慮して、次にどのように渡すか苦慮して、
渡したらホワイトデーに貰えるか苦慮して…そんな感じです。

そうそう
↑のような私が、他人の決定(ここでは言葉)を求めているのでしょうね…
何しろ、分かったような・わからないような・不思議な感覚なのです、から…


ここ数日書いていて…これって現実?  てな感じの一瞬があります。
たぶん、ここ数日間で過去と全く同じような感覚に襲われている…感じ、
頭の中で流れている・見えないデジャブのような…感じなのかな…。
返信する
非常心? (自由びと)
2024-01-08 16:35:22
分かりました。

今日の、この、こころ・感情の不安定感…

直接の原因不明な脅迫観念…

この感じは、教員一周間時の感じと一緒…

たぶん「心の乱れ」=非常心なのでは…
返信する

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