新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・2024 元旦は、私の悟り記念日

2024-01-05 10:27:18 | 「わたし事・学」
続・2024 元旦は、私の悟り記念日




元旦からの 「私の悟り」~

元旦の悟りとは、「私の悟り」の始まり。
空手であれば、やっと初段レベルの悟り。

でも、今日朝 悟った「私の悟り」は宗教レベル。

それが以下~


宗教的悟りとは、「神との一体化」…その神は、その教祖の中の認識した神。
従って、その悟りを開いた信者神とは、教祖の認識との一体化・教祖の分身そのモノ。

ならば、教祖の命令は、神の命令、その神と一体化している信者は、神・教祖の手足…となり得ている。
それは、究極の 人間と人間が創出した観念体(神)との相互浸透・相互移行による(量質転化)一体化。
これが、「宗教的な悟り」であり、現代では「マインドコントロール」とも呼ばれている。

私は、これと似たような体験を私は、教員生活一週間目に体感した。
私の場合は、自己の意志の弱体化で、自己の認識・(他人からすれば)妄想が事実のように思えてしまった。
それは、「私は児童達にとって神」・「神は児童達の望む事する」、だから私は児童達の願いを叶える。

「相互浸透」・「相互移行」そして「量質転化」一体化した認識は、
「実体的修行」と「観念的な修業」の過程(量質転化化の連続結果)の到達点。
自己の実体と自己の(教祖の認識神との相互浸透・相互移行・結果・「量質転化」一体化認識。
この私認識=教祖神認識=教祖的神・思考・行為・行動…この本質は変えられない。

そのような認識からの脱却には、それを対抗する新たな自己認識の一からの創像・創出。
そこには、当然に他人のヘルプが不可欠である。


師範が、「黒帯になったら、白帯から修業・修行をやり直せ!」と言っていた。
この場合の手っ取り早い方法は、白帯の指導をする事。

そう言えば、今は無き・小学館ポームパル(塾)で、
時々一日で、一年生から中三まで、算数・数学の指導をした経験が…

そうそう!更に、そう言えば、私が大学の空手愛好会で(?級)だった頃、
もっと稽古がしたくて、近くの空手協会系の道場に入門して白帯から始めた事を想い出した…
う~ん…何級だったのだろう…何の理由でそこを止めたのだろう…思い出せない…






コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2024 元旦は、私の悟り記... | トップ | うん~今日は、何の記念日に... »

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (弥勒)
2024-01-06 07:47:47
自由びとさん

自由びとさんの悟りに役に立つと思い暴行して全国指名手配となった宮崎文夫のその後を調べたら、懲役2年6ヶ月、執行猶予4年の判決が下されていると分かりました。

執行猶予4年ですから現在は刑務所に入らずに娑婆で生活しているようですが何か一つ軽犯罪でもしたならば即座に刑務所に入れられるそうです。

逆に執行猶予期間を何事もなく過ごしたなら、懲役刑は無効となり刑務所に入らなくても済むらしいですよ。

私が以前お世話になっていた某格闘技の創始者の先生は「武道や格闘技の技を現実世界で実際に使うものとして必要とするのは軍人か暴力団であり、そうでない者は法律の中でスポーツ競技として行う以外にない」と語っていて、互いに承認し合った者同士が戦える試合の場を整備しておりました。

映画のアクション俳優たちがやっているストリートファイトを実際にやったならどうなるかを少し真面目に知っておくべきかと思います。

さもなければ武道や格闘技の指導など出来ませんから、死後の世界云々以前に街頭で他人を殴りまくって自分が無事でいられるという考えが《妄想》だと知るべきでしょう。

「自由とは必然性の洞察である」ということは、必然的に社会的な刑罰を受けて刑務所に行くということですから。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

「わたし事・学」」カテゴリの最新記事