新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
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南郷学派批判の天寿堂を批判する

2019-07-28 12:27:16 | 想い思い考える



天寿堂「談話サロン」掲示板のタイトル↓
<「学城」18号批判ー相も変わらず地獄への道をひた走ろ南郷学派>
を読んで、つくづく…以下のような想いに至った~

『愚案亭主は、どうして、こうなってしまったのだろう?』
『なんで、このような姿に変わり果てしまたのだろう?』

上記の記事は、この記事の最後に転写しておいた。


私の全体的な感想は、「いのちの歴史」に書かれている事から~

地球と全体的・一体的に生き抜けたモノ達たげが進化の王道を歩めた、
それは、
単細胞体⇒多細胞体⇒クラゲ体⇒
魚類体⇒両生類体⇒哺乳類⇒
猿類であり、人類である…


進化の過程で、全体的ではなく、
局所・局部的な発達・深化し得たモノは、
その王道から外れた。
それは、爬虫類や鳥類…である。


天寿堂氏も玄和会を離れて、
居所的な深化し得ても…
全体的は無理だったのか?!

それは、爬虫類化なのだろうか?!




>1、南郷先生の、サルから人間への脳の発達の過程的構造論に欠けたるもの
……
それとは何か?それは、交感神経論です。南郷学派は、交感神経と副交感神経とは生まれた時代も異なるので、ワンセットではないというところまでは、説いておりますが、それからの発展が全く無いようです。ところが、この交感神経の問題は、このテーマにとって、欠かすことのできない重要なファクターであるにもかかわらず、全く触れられておりません。
……
>しかし、これには無理があります。サルから人間への脳の巨大な進歩はそのような領域のみで賄えるものではありません。それを可能とするものがあったはずです。その答えは、私の交感神経論にあります。これは、南郷先生に倣って、今回は、匂わせるだけに止めておきます。

↑~
天寿堂氏にとって、脳と神経は別モノなのでしょうか?
彼は、「脳の巨大な進歩…」とは、
同時に、「神経の巨大な進歩」とは、読み取れないようです。

中枢・統括器官である「脳の巨大な進歩」は、
身体・全身の機能的な巨大な進歩・変化…でもある。
そして、その機能の巨大な進歩・変化が実体・身体を変えていった。

身体・全身の実体ではなく、地球の激変に対応すべく、
全身の機能的な対応過程での脳・神経の深化・変化・進化…
の結果が「脳の巨大な進化」の原因・要因・理由なのでしょう。








>2、瀬江先生のひどいヘーゲルの誤解

……
>絶対精神が自然の事物に化体して人間にまで発展する、というのは即ちそういうことなのだ、同じ論理なのだ!とどうしてわからないのか?

>それから、ヘーゲルの学問的立場が、唯物論と観念論とを統一した絶対観念論なのだ、ということがどうして分からないのか?それがヘーゲルの弁証法なのに、自分たちが観念論か唯物論かの形而上学のアタマのまま唯物論こそが学問的立場だと思い込み、ヘーゲルのが観念論なのにどうして唯物論的なのか?訳が分からないなどと、自分の反省もなく袋小路に迷い込んで、これでどうして学問の体系化ができるのか?ヘーゲルの学問体系が分かるのか?そんな頭でヘーゲルを批判することがどれほど滑稽なことなのかが全く分かっていないようです。

↑~

天寿堂氏には、「観念論」と「唯物論」の区別と連関が分かっていない

私も言いたい~
「同じ論理」でも、観念論と唯物論では、、
具体的な表現・言葉が異なる事を、
どうして解らないのか?~と。


天寿堂氏が「どうして分からないか?」の答えは以下です。
>ヘーゲルの学問的立場が、唯物論と観念論とを統一した絶対観念論なのだ…
これです。


仮に、

ヘーゲルが「唯物論と観念論とを統一」だとしても、
それは、当時の唯物論と観念論の統一」だろう……

ならば~
その「絶対的観念論」で完璧・完成だろうか?
と天寿堂氏には思えない、ようである。


彼が、更なる世界観の進化を求めるなら、
ヘーゲルの「絶対的観念」と現代の「弁証法的唯物論」の
統一を試みるのが進化の王道であろうに…


絶対精神の自己発展から世界の誕生・発展・衰退…
モノ自体の弁証法性からの生々・生成・発展・衰退・消滅…


ヘーゲルの絶対精神は、物自体の機能面を世界の始まりとしたモノ、
過去の唯物論は、過去の物質・機能が分からず、軽視していた。

弁証法的唯物論なら、
モノ自体・実体とその弁証法性を統一してこそである。


そもそも…「精神」とい言葉は、一般的に人間だけのモノ…
他の生物・動物・物体・物質…に「精神」はない。
人間の存在しない時代に、絶対「精神」を認めたなら、
それは観念論である。


この観念論とは、外界・世界を観て、己の内界・観念から表現・認識する世界観。
だから、ヘーゲルは進化の根本・原理・論理を「絶対精神の自己発展」とした。

唯物論は、外界・世界を観て、
その外界・世界を現実に存在し得る・得たモノとして表現・認識するモノ。
だから、弁証法的唯物論では、モノ自体の弁証法性にする変化・運動。


観念論は、主観的表現でも許される。
唯物論は、理想は客観的表現であるが…




>本当に嘆かわしいことです。また医療実践論でも、前回私が批判した通り、スジのネットワーク論がないために、全く実践的な議論にもなり得ていません。障害者教育論でも、栄養学の検討がないことは、致命的欠陥であることが分っていないようです。栄養不良による障害は、まず栄養を整えて障害をどこまで治すことができるのか、その上での教育論でなければならないと思います。


全く「本当に嘆かわしいことです」…
観念論者の「スジのネットワーク」が、
唯物論者には、そうは見えない・思えないモノ、
という事が理解不能のようです。


これは、
同じような事実から同じ論理を視て取ったとしても、
天寿堂氏なら、「絶対精神の自己発展」と視えても、
南郷学派なら、「モノ自体の弁証法性」と視えるのです。

それでも、唯物論(者)なら、
過去から現在までの地球の弁証法性からの変化・運動・進化は、
ヘーゲルの絶対精神の自己発展と論理的には同じようなモノ…と認識可能で、
天寿堂氏のように、「同じ論理なのだ!とどうしてわからないのか?」
とは言わないだろう…


>障害者教育論でも、栄養学の検討がないことは、致命的欠陥であることが分っていないようです。栄養不良による障害は、まず栄養を整えて障害をどこまで治すことができるのか、その上での教育論でなければならないと思います。


↑~
私の記憶が正しいなら、

あそこで、実例として取り上げられているのは、
重度の身体的機能障害で、実体的な変質・変化もあり、
「栄養学の検討」なんてレベルは、とうに超えてしまっているのでは?

天寿堂氏は、南郷学派の批判を最優先のようで、
その状態・状況についての考慮・考察・検証…が皆無のようです。










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4 コメント

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Unknown (游士)
2019-08-11 00:51:29
このところ論理能力が高まってきましたね(笑)。
返信する
言葉の概念の異同 (自由びと)
2019-08-11 10:00:01
  
お宅の言葉=「論理能力」の概念が私と同一ならば、
今回のコメントはとても喜ばしいモノなのですが…

たぶん…その概念が異なってるでしょうから…
ここは~なんとも感じ難いモノがあります。
返信する
Unknown (游士)
2019-08-11 10:57:16
きっとまた素直に喜ばずに何か否定的なコメントかえしてくるだろうとは予想してましたけど、まさか「論理能力の概念」なんて所に行くとは想定外でした。

ま、それも私が普通の常識人の心構えだったからで、普通の人間はお宅のような反応はしませんが玄和の人間だったら普通の反応なんでしょうね。

普通、「このところ、凄く良くなってるね」と言われたなら相手のいってる「論理能力」という言葉の概念は?なんてところに意識は向かわずに「自分のブログの記述に何か向上してるところが有るだろうか?」と<己を>顧みて「向上しているところは皆無、では相手の言葉は単なる世辞か、あるいは十年一日のごとき我(自由びと)のことを皮肉っているのだろうか?」と気恥ずかしささえ感じるものでしょうが…
返信する
それは違う。 (自由びと)
2019-08-11 11:25:52

>普通の人間はお宅のような反応はしませんが玄和の人間だったら普通の反応なんでしょうね。

これは違う!

これは、お宅のコメントだから反応です。
お宅と私は、同じ言葉を使用していても、
その内容が異なっている、ようなので…

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