新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

捨てるものは何もないというもの

2018-10-07 08:21:59 | 悟りシリーズ

結果と過程について…
結果に至る過程に必要なモノでも…
結果に至ったから不要なモノになる。

もっとも…
人は結果を出したら、
次の結果を求めるモノだから…

一度は、不要なモノになっても、
直ぐに、また必要なモノになり得る。


以下は公案に書かれている禅問答である。

「一切を捨てる」

 趙州和尚に厳陽善信(げんようぜんしん)が尋ねた。
 「私は、一切を捨てて何ももっていません。私は、どうするべきでしょうか」
 「捨ててしまえ!」
 「捨ててしまえといわれても、もう何ももっていないのです」
 「その、捨てるものは何もないというものを、捨てるのだ!」

 -趙州録-

ここに書かれている
「捨てるものは何もないというものを、捨てる」について…


「捨てる行為」と「捨てるモノ」

禅では、仏になる・仏の心を持つ事が悟り…なのだろう。
その心とは、何事にも囚われない心、なのだろう。

でも…人間が生きていく為には、モノが不可欠である。
人間以外の生物なら自然さえあれば生活可能である。
しかし、裸で生きられない、自然のモノを自然のままに食べられない人間。
衣食住全てが、人工的でなくては、生きられない人間にはモノが絶対必要である。

だから、必要なモノを求める心は人間にとって必然である。
必要だから取り入れ、不要だから捨て去る。


人間が、「全てを捨てよう」と思った時でも、
そこに、「捨てようとする心」はある、のである。


「全てを捨てよう」でも「全てを捨てられない」という矛盾。
これは、対立物の統一であり、弁証法的な運動もである。


ここでの「厳陽善信」の問題は、
「私は、一切を捨てて何ももっていません。」
という思いに対して、
「私は、どうするべきでしょうか」
と問うている事である。



仮に、「一切を捨てて何も持っていない」のなら、
その状態維持に努め、その状態の平常化こそ
「禅の悟りへの道」なのに…

もっとも…人間なので、
この「全てを捨てた」とは、「不要物は全て捨てた」であり、
それは、悟得へ必要なモノを保持し、不要物は全て捨てた、である。

ここで、一つの問いが…
その人が判断した「悟得へ必要なモノ」が真に必要なのだろうか?

この「厳陽善信」の場合、
まだまだ不要な余計な心が残っていた、という事であろう。

それは何か?
それは、今の己心を自覚できない心、であろう。
だから、このような質問が出たのであろう。


全てを捨てる~
コップの中の水を捨てるから、思いっきり、コップを振る。

それでも、数滴の水は残る。
なので、コップをそのまま放置する。
結果的に水滴は蒸発する。

全てを捨てたいなら、コップごと投げ捨てる、となる。


今「悟りを求めて…」いる私に必要とは、
私の求めている「悟りとは何?」という自覚である。

私は仏になりたい訳でも、仏の心を持ちたい訳でもない。

私は眼前の問題を私の納得可能な形で解決したい、のであり、
解決不能な問題に対しては、その解決不能な私の心を解決したいのである。

ここで「私の納得可能」とは、
それは、唯物論的な結果であり、
決して、観念論的な結果ではない。

結果は、唯物論的を求め、その過程は観念論的を求める。
この結果とは、周囲が納得・評価したモノ。
その過程とは、私自身が納得しているモノ。

従って、
結果が、周囲は納得・評価もないモノでも、
過程は、私自身納得・評価している場合があり得る。

この時、周囲の不服・不評を私自身が心の底から受け入れた時、
そこに矛盾・運動が発生する。

私は、納得・評価でも、周囲は不服・不評…
ならば、周囲を納得・評価させる為に、私は何をすべきか?














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