新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

~意地~OK君の場合は…

2018-12-02 20:07:04 | 日記

OK君は、小学校中学年の児童で、
体格は比較的大きく、体重も結構重く、
怒りっぽく乱暴である。

そんな彼の事を殆ど知らず…
プールの授業補助の時である。

気が付くと、彼がプールサイドの児童見学席の上を歩き回っていた。
男子数人は、傍に腰かけていたが…
女子二人は、席に腰かけられず下に直接座っていた。

教員が気付いていないようなので、私が近づいてKO君に注意した。
何度か注意したが、なかなか腰かけようとしないので、
仕方なく、きつく言ったら…

なんと私に向かって蹴ろうとして来た!
そこで、私がドスを聞かせた低音で、
「ほ~やるなら…遠慮しないぞ!」と脅したら、
大人しく腰かけた。

そこで、少し説教と思い色々と説いて聞かせていたら…
口答えもなく、静かに聞いていたと思っていたら、
なんと~突然、立ち上がって、出口の方へ向かって歩き始めた、のである。

私が、止まるように声かけをしても、
黙ったまま出口の方へ歩き続けた。

プールの階段を下りて、更衣室の横を通って、
もう直ぐ出口に到達…

私、「どこへ行くの?」と尋ねると、
OK君、「教室へ…!」
私、「教室には誰もいないからダメ…」
OK君、「じゃ…家に帰る!」
私、「家に帰るなら校長先生の許可を…」
OK君、「何で?」
私、「学校では一番偉いから…!」
OK君、「関係ない!…」

………………

この時、私は非常に困った。
普通の児童なら、「校長先生」と言ったら、
諦めてこちらの指示に従うのだが…
しかし、OK君には、その手が通じない…

私が担任教師だったら、
「ふざけるな!プールに戻れ!」と
大声で一喝すれば収まるのだろうが…
補助員の私には、それは…でき難い、のである。

以前の小学校でベテラン教諭に補助員について質問したら、
補助員は、教員の補助なので、教員の指示なく、
補助員の判断で、児童の直接的な指導は出来ない…
と言われていたので…

かと言って、ここで他の教員の助けを借りるのは…
私としては不甲斐ないし…
そこで、必死に考え出したの以下のよう事・言葉である。

………以上は、後に自分を振り返っての感想であるが……


私、「OK君って男らしいな!」
私、「そこまで意地を張れらなんて…」
私、「私もOK君を見直した!凄い!…」

と、言うように、彼の意地を認め、褒め称えたのである。
もっとも…本当の所は、呆れて、万策尽きたのであるが…

すると…なんとビックリ、OK君は、黙って振り返り、歩き始めた。
そして、そのまま、元居た児童見学席へ戻って腰かけた、のである。


この体験には、私も少々驚いている。


昼休みの時に、通級の担当に会って、
事の次第の説明と彼の様子を尋ねたら、
「OK君から聞きました。今はもう普通ですよ!」
と言われ、少々安堵した。

更に、
当日のプールは、急な時間割の変更で…、
OK君は水着を忘れてしまい泳げずに、
とても不機嫌だった…事を
教えてくれた。

そして、言うには、
不機嫌な時の彼には、理屈・道理は通じませんよ…
といったような事だった。


この五年間の経験から、私が思う事は、
教師でない今の私は、児童によって、
その子に意地を張らせてダメ…
なのだろう…

低学年なら、補助員も担任も同じ先生として同等であるが…
中学年や高学年になると…補助員は格下と思っている、ようである。










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13 コメント

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Unknown (ポリティコス)
2018-12-03 08:08:40
自ら折れてOK君を受け入れてあげたのは自由びとさんの優しさなんでしょうね。

そのまま彼を帰してしまい「素行の悪い子」にしてしまうことも出来たでしょうし、その意味ではOK君の行動は自由びとさんとの「補助員-児童-間主観」の中で生成するものだと理解できますが、仮にそれで彼の内申書が悪くなったとしても中学受験なんかするのでもない限り義務教育の中学校に進学するに何の支障にもならないでしょうから良くある学校での一コマだと理解することも可能ですからね。

自由びとさんとしては態度を軟化させて彼を認めるようなこと言ったのも教室には別に担任教師がいるから飴と鞭で自分は飴の役割に回ろうとの計算もあったかも知れませんが、目に見えない人間関係の問題は絶対的な答えが無いぶんだけ舵を取るのが難しいのだと他人事ながら感じましたよ。

最近、近所のデパートで4歳ぐらいの男の子を連れたお母さんが「◯◯したからアイスは買わないと言ったでしょ!」と泣き叫ぶ子を怒ってる場面に遭遇しましてね。何か決まり事を破ったらアイスクリームは買ってあげないと約束していたみたいなんですが、あまりにその子がギャンギャン泣き叫ぶからそのお母さん「約束破ったんだからアイスは買わないからね!」なんて怒りながらもキャラメルコーンを買ってあげてるのを見て「ああ、約束したことをお母さんのほうから撤回してしまったなら子どもが何だ約束破ったって別に平気じゃないかと軽く見てしまいかねないから、あくまでも約束事を守りながらも子どもの感情をコントロールしていくのか!」と主婦という仕事は頭を凄く使うんだなと驚きの体験をしたわけです。

OK君が自分が不良に仕立て上げられなかったのも自由びとさんの優しさあってのことだと気がつく日は…たぶん無いのでしょうね…(笑)
返信する
「今このとき」 (月研ぎ)
2018-12-03 18:26:04
OK君と自由びとさんのやり取り、
情景をくっきり鮮やかに書いてあり、
この文章は、時間をかけて付き合える
という意味で興味深いと思いました。

物書きの文章は、座ってばっかりで、
動きを鍛えていないから
文章に身体性が欠けるのです。

身体性の充満、
くっきり鮮やかな場面の連続、
今回の自由びとさんの文章の面白さです。

それからもう一つ、
OK君と自由びとさんのやり取りの記述は、
原因と結果がセットになっていません。

因果関係というのは、
ミステリー小説が典型ですが、
すでに起こった結果(事件)の
原因捜しとしてしかほとんど使われません。日常の思考も基本はそうです。

過去にさかのぼる原因究明は
したり顔でやりますが、
「今このとき」が
何の原因となっているかなんて
本当はわかるわけがないのです。

人は何かをするときに、
働きかける対象(OK君)に対して
(自由びとさんが)一方的な関係に
あるのではなくて、必ず双方向の関係に
あります。

一方的な関係であるかぎり
自由びとさんは安全なポジションに
いることができます。
でも(自由びとさんが)
「当事者」であるかぎり
安全なポジションにいることはできません。

OK君と自由びとさんのやり取りには、
読み手が当事者となって参加して
あれこれ自由に言うことができます。
安全な外側にいては正解しか言えません。

当事者の面白さは「今このとき」で、
正解などない、ぶっつけ本番のところです。

読み手がOK君とのやり取りで、
当事者となってどう言葉の応酬をするのか。

現実に起きることは、
全部収束するはずがありません。
現実に起きたことの一部分だけを取って
収束しているように見せるという、
それが正解ということなのです。

OK君と自由びとさんのやり取りを、
「わかる」というのは、
外に立って客観的に、俯瞰的に、
冷静に、そういう態度によって
把握した何かのことを「わかる」と
今は言うのですが、
それじゃ本当のところは何もわからない。

「わかる」というのは
本当はそういうことではなく、
影響をモロに受けるとか、
ドキドキ・ハラハラするとか、
そういうことなのです。

今はそういうことを、「わかる」とは
イメージしていないのですね。

OK君に対し自由びとさんは考えます。
ここで「考える」というのは、
<意味>でなく<行為>です。

現実にどう対処したらいいのか、
わからないままにその打開策はないかと、
行為をしているのです。

事実を書いただけでは、
意味だけになってしまいます。
では意味ではなく行為を書けばいいか
というと、そうはいかないのが
文章の不思議なところです。
返信する
「今このとき」の私… (自由びと)
2018-12-04 12:20:45



月研ぎさん、コメントを感謝です。

今の私心はザワザワ…ドキドキ~です。

今回の月研ぎさんコメントにレスしたい!
でも…今の私心をどう書けばいいのか?

最近の私は喜び・失望の連続です。
日々の児童達との関わりの中で…。

喜びとは、私の行為・言葉かけで、得られるその子の笑顔・感謝の言葉。
失望とは、私の行為・言葉かけで、得られた期待外れの、その子の表情・態度・言葉。

先日、朝一番の出会いがしらで、
笑顔の「おはようございます!」。

その児童には、以前に授業中にしゃがんで彼の目線で話している時に、
突然、目の下に頭突きされました。

彼は、自分の気に入らない事を言われたり、
指図されたりされり、強要されると、
時に怒って頭突き、時に笑顔で頭突きをします。

その時は、私が、彼の言い分に従わず、私見を押し通そうとしたのです。
それは、怒り顔ではなく、微笑を浮かべての頭突きでした。
その時は、油断していて、結構な痛みでした。

それ以後、絶対に彼に対して油断しない。
特に、目線の高さを彼に合わせた時は絶対油断しない!です。

私は、低学年担任が、彼から目の下に二回、顎に一回の頭突きを受けた場面に遭遇しています。
顎の時は、当日は赤くなっていて、次の日には青くなっていました。
(高学年の担任は、担当の児童に腕を噛まれて、歯形がついた、そうです。)

そんな彼らの満面笑顔で可愛らしい声での「おはよう!」は可愛く・嬉しいモノです。

期待していない笑顔は、大きな喜び。
予想し得ない頭突きは、大きな苦痛。

笑顔を期待しての怒り顔は失望。
頭突きを予想し避けた時は満足。


今後も、体験・経験談を続けて書いていきたい、です。



返信する
よい手本に… (自由びと)
2018-12-04 12:34:50


コメントありがとうございます。

親が子の手本・模範になる、
事は痛感しています。

よい手本を見せる事も必要。
悪い手本を見せる事も必要。

親が子に対して、
親の意地を引いてみせる手本も必要だと痛感しています。

今回の場合は親が子に対して、

「ゴメン!アイスを買ってあげたいけど、買えない。ゴメン!」
「だって、××とは、○○したら買わないって約束したでしょう!」
「ここで、アイスを買ったら、おかあさんが嘘つき・約束破りになっちゃう!」
「おかあさんは、××に嘘を付きたくないのゴメン!」
「××は、おかさんに嘘つきたい?嘘つきになりたい?」






返信する
悪い手本を見せたなら… (自由びと)
2018-12-04 12:42:11


よい手本を見せる事も必要。
悪い手本を見せる事も必要。

悪い手本を見せたなら、
その場でよい手本でホローを…忘れずに、

さもなければ、
悪い手本も子供には言動の手本。


返信する
外に連れ出す (月研ぎ)
2018-12-04 17:17:07
マラソンの高橋尚子を育てた
小出監督があるテレビ番組で
「子供は大人の言葉は聞かないけれど、
態度の方はちゃんと見ていて、
それを学ぶ」と言っていて、
本当にそうだと共感します。

偏差値教育・詰め込み教育に
染まっている子供たちは、
学校という枠から離れているという
実感を得るためにも、
正解の見つけられない問題を
いつまでも考えることを欲しています。

考えるという本質的にゴールが無い
トンネル堀りは、
彫り進んだ壁面のすべてが、
次に掘る=考える手掛かりになります。
これって面白いですよね。

ひとりでああでもないこうでもないと、
なかば思考しなかば空想したりしている
状態を一日中生きているのが子供で、
そういうトンネル堀りの状態に
耐えられなくなった人から
順番に大人になっていきます。

プラトンやデカルトのような哲学者は、
生涯トンネル堀を続けた人でなのです。

OK君と自由びとさんのやりとりの
「わからない」部分は、
人間を通常の安定した言葉の領域の
外に連れ出すから、とても面白いのです。
返信する
意志 (月研ぎ)
2018-12-05 17:04:41
「意地」と自由びとさんは理解をした
わけですが、どうでしょうか、
「意地」を「意思」と理解すれば。

意志は、運動能力よりももっと深いところで、
身体に根ざした力で、
かなり早い時期にほぼ完成しています。
年齢がいっても意志の弱い人は弱いし、
10代でも意志の強い人は強い。

意志は脳のいちばん原初的な部分で、
脳幹に宿るとされます。

意志はどうしたら強くなるのでしょうか。

意志は、一人の人間の体力・知力が
未分化で混沌としている場所にあって、
力を絞り出すことでしか
意志は強くななりません。


力があることと、力が出せることは別です。
OK君の突出した力は
ふだんから絞り出しを繰り返していることで
身に付けたものに思います。

学年で一番、町で一番ぐらいは、
力があるだけでなれます。

プロは、絞りに絞れる力が
問題にされる世界です。

OK君の「断定」の口の利き方には、
子供というか幼稚さを感じます。

大人は誰もが知っています。
経験や知識を身につければつけるほど、
「断定」ができなくなることを。


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拓けた視野 (自由びと)
2018-12-05 21:23:06

月研ぎさんへ

連続コメントをありがとうございます。
とてもとても(二連続で)嬉しいです。


特に忙しい訳ではないのですが…
なかなか思いを言葉に出来ずにいます。

土日には、月研ぎコメントを参考に、
なんとか言葉・記事にして更新を~
と思っています。



「意志」ですか!いいですね♪♪♪
また新たな視界が拓けた感じです。

「意地」と「意志」は似ているようで…
どのように違っているのでしょうか?


「意地」と「意志」の区別と連関…
から、考えてみるのもありですね!



返信する
Unknown (ポリティコス)
2018-12-06 11:01:16
月研ぎさんのお考えも実に個性的というか余り一般的ではありませんね。

プラトンやデカルトのやった仕事は子供の遊びで大人のやるこっちゃないというわけですか(笑)。

まあ、人の好みもそれぞれですからマラソンは大人で哲学は子供なんて考えの人間がいても構わないわけですが、どうしてそんな考えの人間が南郷擁護とともに現れたのかも不思議なことですよ。

人間のやることに完全な一貫性などないわけですし、特に感情優位で活動している女性に一貫性などないとは良く言われることですけどね。

月研ぎさんの恣意的な説明とは裏腹に哲学にしろマラソンにしろ金を貰ってやってる側の人間と金を払ってやってる側の人間とがいるわけです。高橋尚子は大学までは学費を払って大学の陸上競技部でマラソンしてたわけですが卒後は小出監督に師事してリクルートや積水化学で給料もらって走ってたんですよ。
そうした高橋尚子のオリンピック金メダルや国民栄誉賞の裏側には企業の宣伝広告活動、スポンサー活動という経済活動への考えがあるわけで、哲学にしたって大学で哲学することで給料もらっている人間というのはいるわけです。
それは企業の広告宣伝活動とは違うにしても金を支払ってでもやらせる価値があることだと社会的に認知されているわけですよ。

ですから、子供が何か興味があって熱心に取り組んでいることがあったなら、叶うならばそれを職業としていけるところに行ってもらいたいと願うのが一つの親心でもあると思うんですよね。

野球のイチローだとかゴルフの石川遼くんだとか親がそのために大金を使った話なんかゴロゴロしてますよね。ですが、月研ぎさんのような人は「指導論」だとか「教育論」だとかの小出監督と高橋尚子とのマラソンの指導・被指導の部分だけ切り取って見たがって、それを支えている社会関係・経済関係は見ようとしないところがあります。ま、それは南郷さんの指導論にもいえるんですけどね。

月研ぎさんが「卒業できない子供の遊び」だと低く小馬鹿にするプラトンやデカルト由来の哲学は世界中の学者が参加してケンケンガクガクの議論をしている大人の知的活動として成立しているものですから、要は給料を貰う立場で職業としての精力を注ぎ込む側として参加するのか、余暇に金を払って趣味として自己を満たす立場で参加するのかという違いだけで、哲学という分野が大人か子供かという発想がマンガ描いてる大衆の発想といったらそうなんでしょうが、ま、仕方ないですよね。

そんなことはディズニーランドを金を貰って経営する立場で一日中意識を向ける側になるのか、年に一度だけ趣味で心を楽しませるという側で参加するのかという立場の違いでしかなく、ディズニーランドという領域が卒業できない子供のトンネルの中での活動なのだという発想が、さいとう・たかをのマンガはワンパターンでしかないとの貧困な思考になるんでしょう。
返信する
やっぱり分からない奴 (自由びと)
2018-12-07 09:31:43



ポリティコス・コメント
>プラトンやデカルトのやった仕事は子供の遊びで大人のやるこっちゃないというわけですか(笑)。

奴は、
↓以下の月研ぎ氏の「外に連れ出す」を読んで、
どうして、↑のように理解するのだろうか?





月研ぎ

・タイトル
外に連れ出す

・コメント
マラソンの高橋尚子を育てた
小出監督があるテレビ番組で
「子供は大人の言葉は聞かないけれど、
態度の方はちゃんと見ていて、
それを学ぶ」と言っていて、
本当にそうだと共感します。

偏差値教育・詰め込み教育に
染まっている子供たちは、
学校という枠から離れているという
実感を得るためにも、
正解の見つけられない問題を
いつまでも考えることを欲しています。

考えるという本質的にゴールが無い
トンネル堀りは、
彫り進んだ壁面のすべてが、
次に掘る=考える手掛かりになります。
これって面白いですよね。

ひとりでああでもないこうでもないと、
なかば思考しなかば空想したりしている
状態を一日中生きているのが子供で、
そういうトンネル堀りの状態に
耐えられなくなった人から
順番に大人になっていきます。

プラトンやデカルトのような哲学者は、
生涯トンネル堀を続けた人でなのです。

OK君と自由びとさんのやりとりの
「わからない」部分は、
人間を通常の安定した言葉の領域の
外に連れ出すから、とても面白いのです。



上記の月研コメントの、
どこにも「子供の遊び」とは書いていない。
当然に、「大人のやるこっちゃない」とも書いていない。

なのに…奴は
>プラトンやデカルトのやった仕事は子供の遊びで大人のやるこっちゃないというわけですか(笑)。
と言い切っている。

どうして?
なぜに?


私は以下のように理解した。

学校の教科書は、子供たちの身近な現実から目を逸らし、
大人の現実(子供のとっては非現実)へと目を向かせ、羽ばたかせるモノ。

大人にとっての現実・社会と子供にとっての現実・社会は異なっている。

子供達の課題は、
学校で教えられた、子供達にとっては、非現実的な大人の現実を、
如何に自分の思考・空想の世界の中で、自己の現実と結びつけられる事。





「プラトンやデカルトのような哲学者は」、
普通の大人にとっては非現実的な「理想・社会」を、
己には現実的なモノとして、思考・空想し続ける人達…

他人の思考と自分の思考の一致を求めてこそ、
己の成長・発展が起こり得る、と私は考える。

相手との一致とは、
相手を理解した上で、
その一致と不一致を認識し得て、
こそ可能なモノである。


その根底には、
相手への信頼感、
相手も自分の世界の一部と言う一体感、

しかし、
「信頼感」も「一体感」も感情であり移り変わるモノ、
時には唯の思い込みであり得るモノ、

だから、
人類すべてに共通な哲学・学問が、
いつの世も求められていく、のだろう。




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