もうすぐ「節分」なので「豆」はいかが?とチラシにはよく載ってますが、
たまたま通りがかったココで
修験道寺院「松本院」で【節分星祭供】(ホシマツリ)とな?
「除災・招福」、読んで字のごとしですが、過去行ったことがなく
近くに居ながらこれではいけない、寒さにいじけていてもいけない、
お参りもせず「招福」にあやかろうなんてもってのほかだと…
昨年まではコロナ禍もあって縮小されたお祭りだったようですが、
きっと今年は大にぎわいではないのかと想像しています。
過去記事ですが情報Youより「除災招福願う節分星供養」。
今年こそ、行ってみようかと(3日でいいのかな?)
コロナ禍前の様子では、
≪読経のほか、約23メートルの大きな数珠を多数の人たちが輪になって回す「百万遍大念珠繰り」なども行われ、
豆まきでは男性たちが「福は内」「鬼は外」とかけ声を響かせ、人々は手をあげて待ち受けた≫とか…
これがそのまま復活するとしたらさぞ賑やかなのでしょうね。
さて、この「松本院」
「上野天神祭/鬼行列・役行者列」のことの起こりは、
ここで勉強していただくとして→「鬼行列:役行者列のこと」。おおまかには、
≪かつて、紺屋町には伊予の国から移り来た寿福院(現・松本院)という修験寺院があり、
藩祖 藤堂高虎の信仰も篤く、手厚く保護されていました。
高虎が晩年眼を患った時、大峰山に眼病平癒祈願を行い、
この事への返礼として能面「阿古父尉」を寄進されたと伝えられます。
この行列は、この能面を被り、役行者の大峰山 峰入の姿を再現したもので、
元禄年間(1688~1704)に上野天神祭に加わり、それが、今に伝わったと云われています。≫
当時、紺屋町に松本院(当時は寿福院と言っていたそうですが)があって、
松本院が西日南町に移る際、
お殿様から拝領した大事な面はやっぱりこの紺屋町に置いていかないとね、みたいなお話があるようです。
それも高虎のお殿様から「祭りは『三筋町で執り行うように』」との仰せがあった、とも言われています。
簡単にいえば、上のようなお話が残っており、
「鬼行列」は紺屋町を中心として「三之町通り」で行い、
「だんじり行列(鬼より後に始まった)は、二筋町で」という風に連綿と受け継がれているわけです。
ここまでは余談というかおさらいみたいなお話でした・・・
ここ最近では、小学校で「地域を学ぶ」みたいな授業が行われており、
上野西小学校校区では3年生~4年生にかけて、主に「城下町」に出かけたり、
学校に地域の人に出向いてもらったりと、交流を広げているようです。
自分たちの住むところでは「一体どんなお店があるの?」
「地域ではどんなお祭りをしているの?」等々、素材はいっぱいあります。
その中でも今回家人が「祭りの紹介」で出向きました。
「上野天神祭」関係の団体から保存会の会長さん、だんじり(楼車会/ロウシャカイ)町、鬼町の担当者が先生役だそう。
そこで我が家にたまたま鬼面(賢徳/ケントク)とその鬼が被る「かもじ」、
「ほら貝」「拍子木」、いわゆる行列三点セットみたいなものがありました。
お出かけ前にちょっと撮らせてくださいな、ということで
鬼さんの被る髪の毛
これは「馬の毛」でできており、通称『かもじ』と言います。
左から「拍子木」、準備・出発・止まれなどの合図用です。
列が100mほどありますので出発の合図など前から順送りに知らせるためです。
それぞれリズムが違うので、今は何をする時間なのかわかる、とのこと。
「ほら貝」、いよいよ「鬼が出るよ」という出立の合図用。
小鬼鬼面(コオニキメン)「賢徳」(ケンントク/但し疑似面)。
学校への説明用にはこのお面を持っていきます、
一番親しみやすいというかわかりやすいというか、愛嬌もあるので…(詳しくは過去ログで)
(これは見る人によって感じ方が違うかもしれませんが💦)
やっぱり怖いでしょ、これを被って動くんですよ、
あっちへフラフラ、こっちで泣かせ!みたいに(笑)。
ふつう、小鬼は前を向いて歩くものですが、
我が町の小鬼たちは「さぁ、子どもを見たら泣かしに行こう!」みたいな伝統があって
「ひょろつき鬼」顔負けで向かって行く小鬼がいます。
「面をつけると『人が変わる』」って感じですかね(笑)。
小鬼といえども、この面相で近づかれたらそりゃぁ泣きますって、怖いもんは恐いのです。
先生にお見本になってもらい「面を付け」、「かもじ」をつけます。
先生も子どもも大喜びだそうで、中には我が町のその「賢徳」役を担う子もいるわけで、
もう大盛り上がりだそうです。
祭の日以外にこうやって出張することは、子どもたちに町のこと知ってもらういいチャンスなので、
上野の城下町だけではなく、他の地域にも出張出来たらいいのにね、と思っています。
※「かもじ」とは。
※賢徳本面(三重県指定文化財/桃山~江戸時代初期のもの)
節分星祭やら鬼のこと、なんとなく関係あるよというお話でした。
ではまた
2024/2/2追記『松本院/節分星供』ご案内です。
午後1時から行われます。
たまたま通りがかったココで
修験道寺院「松本院」で【節分星祭供】(ホシマツリ)とな?
「除災・招福」、読んで字のごとしですが、過去行ったことがなく
近くに居ながらこれではいけない、寒さにいじけていてもいけない、
お参りもせず「招福」にあやかろうなんてもってのほかだと…
昨年まではコロナ禍もあって縮小されたお祭りだったようですが、
きっと今年は大にぎわいではないのかと想像しています。
過去記事ですが情報Youより「除災招福願う節分星供養」。
今年こそ、行ってみようかと(3日でいいのかな?)
コロナ禍前の様子では、
≪読経のほか、約23メートルの大きな数珠を多数の人たちが輪になって回す「百万遍大念珠繰り」なども行われ、
豆まきでは男性たちが「福は内」「鬼は外」とかけ声を響かせ、人々は手をあげて待ち受けた≫とか…
これがそのまま復活するとしたらさぞ賑やかなのでしょうね。
さて、この「松本院」
「上野天神祭/鬼行列・役行者列」のことの起こりは、
ここで勉強していただくとして→「鬼行列:役行者列のこと」。おおまかには、
≪かつて、紺屋町には伊予の国から移り来た寿福院(現・松本院)という修験寺院があり、
藩祖 藤堂高虎の信仰も篤く、手厚く保護されていました。
高虎が晩年眼を患った時、大峰山に眼病平癒祈願を行い、
この事への返礼として能面「阿古父尉」を寄進されたと伝えられます。
この行列は、この能面を被り、役行者の大峰山 峰入の姿を再現したもので、
元禄年間(1688~1704)に上野天神祭に加わり、それが、今に伝わったと云われています。≫
当時、紺屋町に松本院(当時は寿福院と言っていたそうですが)があって、
松本院が西日南町に移る際、
お殿様から拝領した大事な面はやっぱりこの紺屋町に置いていかないとね、みたいなお話があるようです。
それも高虎のお殿様から「祭りは『三筋町で執り行うように』」との仰せがあった、とも言われています。
簡単にいえば、上のようなお話が残っており、
「鬼行列」は紺屋町を中心として「三之町通り」で行い、
「だんじり行列(鬼より後に始まった)は、二筋町で」という風に連綿と受け継がれているわけです。
ここまでは余談というかおさらいみたいなお話でした・・・
ここ最近では、小学校で「地域を学ぶ」みたいな授業が行われており、
上野西小学校校区では3年生~4年生にかけて、主に「城下町」に出かけたり、
学校に地域の人に出向いてもらったりと、交流を広げているようです。
自分たちの住むところでは「一体どんなお店があるの?」
「地域ではどんなお祭りをしているの?」等々、素材はいっぱいあります。
その中でも今回家人が「祭りの紹介」で出向きました。
「上野天神祭」関係の団体から保存会の会長さん、だんじり(楼車会/ロウシャカイ)町、鬼町の担当者が先生役だそう。
そこで我が家にたまたま鬼面(賢徳/ケントク)とその鬼が被る「かもじ」、
「ほら貝」「拍子木」、いわゆる行列三点セットみたいなものがありました。
お出かけ前にちょっと撮らせてくださいな、ということで
鬼さんの被る髪の毛
これは「馬の毛」でできており、通称『かもじ』と言います。
左から「拍子木」、準備・出発・止まれなどの合図用です。
列が100mほどありますので出発の合図など前から順送りに知らせるためです。
それぞれリズムが違うので、今は何をする時間なのかわかる、とのこと。
「ほら貝」、いよいよ「鬼が出るよ」という出立の合図用。
小鬼鬼面(コオニキメン)「賢徳」(ケンントク/但し疑似面)。
学校への説明用にはこのお面を持っていきます、
一番親しみやすいというかわかりやすいというか、愛嬌もあるので…(詳しくは過去ログで)
(これは見る人によって感じ方が違うかもしれませんが💦)
やっぱり怖いでしょ、これを被って動くんですよ、
あっちへフラフラ、こっちで泣かせ!みたいに(笑)。
ふつう、小鬼は前を向いて歩くものですが、
我が町の小鬼たちは「さぁ、子どもを見たら泣かしに行こう!」みたいな伝統があって
「ひょろつき鬼」顔負けで向かって行く小鬼がいます。
「面をつけると『人が変わる』」って感じですかね(笑)。
小鬼といえども、この面相で近づかれたらそりゃぁ泣きますって、怖いもんは恐いのです。
先生にお見本になってもらい「面を付け」、「かもじ」をつけます。
先生も子どもも大喜びだそうで、中には我が町のその「賢徳」役を担う子もいるわけで、
もう大盛り上がりだそうです。
祭の日以外にこうやって出張することは、子どもたちに町のこと知ってもらういいチャンスなので、
上野の城下町だけではなく、他の地域にも出張出来たらいいのにね、と思っています。
※「かもじ」とは。
※賢徳本面(三重県指定文化財/桃山~江戸時代初期のもの)
節分星祭やら鬼のこと、なんとなく関係あるよというお話でした。
ではまた
2024/2/2追記『松本院/節分星供』ご案内です。
午後1時から行われます。
天守に上ったことがあるのは、白鳳城と金亀城になります。
行ったことがある城下町は、江戸城下の東京を筆頭に、津和野、大和郡山、亀山、出石、大阪、名古屋、津、他あたりで、
列車からホームに出ただけなら、上記に加え、金沢、福知山、静岡、も該当します。安土城跡は石垣を登っただけです。
付近を通っただけの有名どころは、姫路、福山、伏見、米子、小田原、岡崎、熊本、二条、萩、和歌山、その他いっぱい。
いい日旅立ちが、ディスカバージャパンのキャンペーンソングで、山口百恵がJNRのCMソングを歌うとは、と思いました。
小柳ルミ子のデビュー曲「わたしの城下町」も、そのキャンペーンに一役買ったと知ったのは、最近になってからです。
どこの城下町をモデルにしたのかは明かされることは無なく、全国津々浦々で自分とこ。ということになっているようで、
伊賀上野城下では歌われる川と橋は、先代の伊賀上野橋あたりになると思いますが、微妙なところですね。
伊賀上野駅にも、お城と俳聖殿と忍者屋敷が描かれた DISCOVER➽JAPAN の駅スタンプがあったのを思い出しました。
加太駅のはD51499が、柘植駅のは芭蕉さんが、月ケ瀬口駅のは先代の月ケ瀬橋と梅の花が、描かれているそうです。
キンカメおっとコンキ城って読むんですね、知らなかったです💦
20年ほど前に姫路城を案内していただいたことがあって、ここも一日では到底見学できないなと驚いたものです。お城そのものの規模も違うし、さすが「国宝」と。
彦根城もいずれは行きたいけど、今のところテレビで拝見するのが精いっぱい。そう遠いところではないので夢は叶えたいと思っています。
県内の有名処は五つまで行ったので(津・松阪・鳥羽・田丸・亀山…)城跡ばかりなりですがそれぞれに石垣は見応えがありました。これらを訪問したおかげで伊賀上野の石垣ももう少し何らかの説明があってもいいのになと、観光客としての目から見たら不満があります。
残るは桑名か、今のところ県外へ出る予定はないので(今のお役目が終わったら絶対時間を作るゾ)、後期高齢者になってからかな💦
それこそJRで行きましょうかね(笑)。
moni5187様、コメントありがとうございます。
全国のお城・城下町を教えていただきさすがだなぁと…通っただけでもその土地に行ったことになりますもん(笑)。
今は「ひこにゃん」がいるそうで、国宝の金亀城自体は変わらずのようですが、
50年前の よそ行き姿がフルカラーで蘇(よみがえ)ります(^^;)。
機材はあったのに、白鳳城もこういうのを撮ってあればと後悔しきりです。
金亀城は1604年築城とのこと、420年その姿は変わらずそこにある、ということに感動しています。
高虎さんの伊賀のお城、完成目前に暴風で倒壊、なんと残念なことか…
それでも、昭和10年に「木造」で川崎克氏の寄付によりに建てていただけたこと大感謝です。
自慢の宝物だと…
moni5187さま、いつもありがとうございます。