「旧亀山城多門櫓」のあらましは「過去ログ(2021/10/15)」をご覧いただくとして、
今回は「菖蒲園」から昔の「堀」であったであろう「公園池」を半周しました。
(再掲)
池の上に上がる階段の上で、この景色に遭遇。
亀山西小学校の裏手になりますが、復元整備が行われたらしく、
なかなか見ごたえのある「帯曲輪(オビクルワ)」を下から見る感じ…
ここは駐車場にもなっていてじっくりと整備された「帯曲輪」を見られます。
本当は、上から見てみたいのですが…
説明版より
≪二之丸帯曲輪(オビクルワ)及び周辺整備事業
二之丸帯曲輪は、城主居館のあった二之丸の北側を防備するために設けられた小規模な曲輪です。
明治時代以降に亀山城の大部分が取り壊されたなかで、かつての二之丸北側にあたる一帯は、
埋門(ウズミモン)とあわせて本来の城の姿を良好にとどめています。地域を代表する文化遺産である
亀山城跡を永く後世に遺すとともに、多門櫓を中心とした城としての景観を現在に活かして、
都市公園・学校との一体化を図り、個性ある景観を創り出すための整備を行いました。
この整備事業では、城跡の一部を江戸時代末期の状態に復元しました。
当時の人が見ていたであろう景観を現代に生きる私たちも共有することで、
ここが「歴史を学ぶ場」であるとともに、城下町かめやまのシンボルとして
「地域の個性を体感する場」となることを期待しています。
平成十八年三月 亀山市教育委員会 ≫
ここで「伊勢亀山城」パンフレットより
『復元図』と当日のおおよその徒歩ルート図、
このパンフレットに散歩モデルコースが載っているので、
いつかまた挑戦しましょう~
≪城と城下町
伊勢亀山城は、地形条件を上手く利用して城作りが行われています。
本丸・二之丸西出丸の城の中心部分は丘陵の最も高い位置に配置され、
その周囲は急な崖で守られています。
唯一丘陵がつながる東側には東三之丸が、比較的広い平地の南側には西之丸が設けられ、
重臣の屋敷などが構えられていました。他の武家屋敷がこれらを取り囲むように配置されていました。
東海道は、東の江戸口門で城下に入り、城を迂回するように何度か折れ曲がりながら、
西の京口門で城下を抜けました。 東海道沿いの東町・西町が城下町で、亀山宿の一部でもありました。
また、寺院・神社は、城がある丘陵の端に、崖を背にして配置されいます。
1691年3月4日(元禄4年2月5日)、亀山の地を通った長崎オランダ商館のドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル
(Engelbert Kaempfer 1651~1716) は、亀山の町を見て「町は平坦な丘陵の上にあり、
私が見渡した限りでは、石垣と門と番所のある整然とした町である。
その南側には荒く築き上げた城壁と櫓のある、かなり堅固な城がそびえ立っていた。
狭い通りはこの土地の地形のために曲がりくねっているので、われわれが第二の番所を通って
郭外のはずれに行き着くまでには、ほとんど1時間を費やしてしまった。」
(『江戸参府紀行』 東洋文庫303 平凡社 1977 斎藤信訳) と記録に残しています。≫
さて、「帯曲輪」を出て、亀山の城下町の中でも風情ある道だと思いました。
木陰もあって静かに散策できるように整備され「姫垣外苑通り」と命名されています。
通りの写真は撮っていませんが、「太鼓櫓跡」があったとのこと。
亀山市役所と亀山西小学校に挟まれた通りでは
西小の通用門?
歴史ある城下町に似合う門構えですねぇ。
ここを通り抜けると、お馴染み「亀山城址」石碑のある場所から
「多門櫓」のある石垣を下から見るべく下りていきます。
ちょっとボケましたが、「鉄砲狭間」のある白壁が見えました。
ここの石垣は「中学校の運動場」と隣り合わせ、
先般も「上野高校」の裏の校舎から「石垣が見えた」あの光景と重なり合いました、
「石垣のある風景」、いつまでも大切にしたい思いはどこでもきっと同じだと…
≪亀山城多門櫓
天正18年(1590)、岡本宗憲によって築かれた城。
築城時には、本丸・二之丸、三之丸からなり天守もあげられていたとされます。
この天守は、寛永9年(1632)、丹波亀山城(現在の京都府亀岡市)の修築を
幕府より命じられた堀尾忠晴が間違えて解体してしまったという伝承があります。
現存する「多門櫓」は、18世紀後半頃に武器庫として建てられ、
明治期には士族授産の木綿段通 (モメンダンツウ)工場として使用されていたため破壊されずに
現在まで残り、三重県で唯一現存する城郭建造物として
県史跡及び県有形文化財(建造物)に指定されています。
かっては天守閣が建っていた場所に建てられた多聞櫓がこの城郭の遺構として残っています≫
「多門櫓」のあるお隣には「亀山神社」、
久しぶりにお参りさせていただき、ここの境内から「旧城内を歩く」感じかなぁ。
右手には市民の憩いの場でもある「亀山公園一帯」を眺めつつ進むと、
「亀山城西出丸跡」碑に遭遇。
テニスコートと駐車場のあるこの辺り一帯が「西出丸」でしょうか。
「亀山城西出丸跡」説明
≪寛永十四年(1637) (『九々五集』より)から城主本下総守俊次が三ヶ年かけて
亀山城改修を行った際に整備した曲輪である。
この曲輪は西北と南側に帯曲輪があり、西端に二重層である関見櫓があった。
曲輪内には米蔵があり、近世前半には幕府の兵糧米(城米)が備蓄された。≫
車の多い道を避けて細い道に入ると、「マンホール亀山版」撮った(笑)。
目の前にこんもりとした森っぽい丘がみえたら、そこは
「古城」があったかもしれない、とのこと。
ぼちぼち最初の駐車場に戻りましたが、そこは
「亀山市歴史博物館」、企画展「亀山高校とその歴史:100周年記念」とか。
(私的に、今度ハハを連れてきてあげようかと、戦中に志摩方面に疎開していたハハが
最後に高校生として卒業できたのは「亀高」だったと聞いているので…)
そこには「亀山城石坂門の石垣」の遺構です。
≪(前・中略:石垣部の説明に特化)
普段、わたしたちが見ている石垣は、石垣全体の構造からすれば、表側の石だけです(立面図)。
しかし、隠れた部分には、ご覧のように、裏込石(ウラゴメイシ)がぎっしり詰まっており、
それが、表側の石を安定させるとともに、水はけをよくし、石垣の崩壊を防いでいます。
また、土台と呼ばれる土の部分によって、表側の石と裏込石を支えているのが断面図から分かります。(断面模式図)
つまり、石垣は、表側の石、裏込石、土台の組み合わせで出来ているのです。≫
(石垣部分のみ平面・立面等)
再度、チャンスを作らねば…亀山の城下町も奥が深そうです。
長くなりました、ではまた
今回は「菖蒲園」から昔の「堀」であったであろう「公園池」を半周しました。
(再掲)
池の上に上がる階段の上で、この景色に遭遇。
亀山西小学校の裏手になりますが、復元整備が行われたらしく、
なかなか見ごたえのある「帯曲輪(オビクルワ)」を下から見る感じ…
ここは駐車場にもなっていてじっくりと整備された「帯曲輪」を見られます。
本当は、上から見てみたいのですが…
説明版より
≪二之丸帯曲輪(オビクルワ)及び周辺整備事業
二之丸帯曲輪は、城主居館のあった二之丸の北側を防備するために設けられた小規模な曲輪です。
明治時代以降に亀山城の大部分が取り壊されたなかで、かつての二之丸北側にあたる一帯は、
埋門(ウズミモン)とあわせて本来の城の姿を良好にとどめています。地域を代表する文化遺産である
亀山城跡を永く後世に遺すとともに、多門櫓を中心とした城としての景観を現在に活かして、
都市公園・学校との一体化を図り、個性ある景観を創り出すための整備を行いました。
この整備事業では、城跡の一部を江戸時代末期の状態に復元しました。
当時の人が見ていたであろう景観を現代に生きる私たちも共有することで、
ここが「歴史を学ぶ場」であるとともに、城下町かめやまのシンボルとして
「地域の個性を体感する場」となることを期待しています。
平成十八年三月 亀山市教育委員会 ≫
ここで「伊勢亀山城」パンフレットより
『復元図』と当日のおおよその徒歩ルート図、
このパンフレットに散歩モデルコースが載っているので、
いつかまた挑戦しましょう~
≪城と城下町
伊勢亀山城は、地形条件を上手く利用して城作りが行われています。
本丸・二之丸西出丸の城の中心部分は丘陵の最も高い位置に配置され、
その周囲は急な崖で守られています。
唯一丘陵がつながる東側には東三之丸が、比較的広い平地の南側には西之丸が設けられ、
重臣の屋敷などが構えられていました。他の武家屋敷がこれらを取り囲むように配置されていました。
東海道は、東の江戸口門で城下に入り、城を迂回するように何度か折れ曲がりながら、
西の京口門で城下を抜けました。 東海道沿いの東町・西町が城下町で、亀山宿の一部でもありました。
また、寺院・神社は、城がある丘陵の端に、崖を背にして配置されいます。
1691年3月4日(元禄4年2月5日)、亀山の地を通った長崎オランダ商館のドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル
(Engelbert Kaempfer 1651~1716) は、亀山の町を見て「町は平坦な丘陵の上にあり、
私が見渡した限りでは、石垣と門と番所のある整然とした町である。
その南側には荒く築き上げた城壁と櫓のある、かなり堅固な城がそびえ立っていた。
狭い通りはこの土地の地形のために曲がりくねっているので、われわれが第二の番所を通って
郭外のはずれに行き着くまでには、ほとんど1時間を費やしてしまった。」
(『江戸参府紀行』 東洋文庫303 平凡社 1977 斎藤信訳) と記録に残しています。≫
さて、「帯曲輪」を出て、亀山の城下町の中でも風情ある道だと思いました。
木陰もあって静かに散策できるように整備され「姫垣外苑通り」と命名されています。
通りの写真は撮っていませんが、「太鼓櫓跡」があったとのこと。
亀山市役所と亀山西小学校に挟まれた通りでは
西小の通用門?
歴史ある城下町に似合う門構えですねぇ。
ここを通り抜けると、お馴染み「亀山城址」石碑のある場所から
「多門櫓」のある石垣を下から見るべく下りていきます。
ちょっとボケましたが、「鉄砲狭間」のある白壁が見えました。
ここの石垣は「中学校の運動場」と隣り合わせ、
先般も「上野高校」の裏の校舎から「石垣が見えた」あの光景と重なり合いました、
「石垣のある風景」、いつまでも大切にしたい思いはどこでもきっと同じだと…
≪亀山城多門櫓
天正18年(1590)、岡本宗憲によって築かれた城。
築城時には、本丸・二之丸、三之丸からなり天守もあげられていたとされます。
この天守は、寛永9年(1632)、丹波亀山城(現在の京都府亀岡市)の修築を
幕府より命じられた堀尾忠晴が間違えて解体してしまったという伝承があります。
現存する「多門櫓」は、18世紀後半頃に武器庫として建てられ、
明治期には士族授産の木綿段通 (モメンダンツウ)工場として使用されていたため破壊されずに
現在まで残り、三重県で唯一現存する城郭建造物として
県史跡及び県有形文化財(建造物)に指定されています。
かっては天守閣が建っていた場所に建てられた多聞櫓がこの城郭の遺構として残っています≫
「多門櫓」のあるお隣には「亀山神社」、
久しぶりにお参りさせていただき、ここの境内から「旧城内を歩く」感じかなぁ。
右手には市民の憩いの場でもある「亀山公園一帯」を眺めつつ進むと、
「亀山城西出丸跡」碑に遭遇。
テニスコートと駐車場のあるこの辺り一帯が「西出丸」でしょうか。
「亀山城西出丸跡」説明
≪寛永十四年(1637) (『九々五集』より)から城主本下総守俊次が三ヶ年かけて
亀山城改修を行った際に整備した曲輪である。
この曲輪は西北と南側に帯曲輪があり、西端に二重層である関見櫓があった。
曲輪内には米蔵があり、近世前半には幕府の兵糧米(城米)が備蓄された。≫
車の多い道を避けて細い道に入ると、「マンホール亀山版」撮った(笑)。
目の前にこんもりとした森っぽい丘がみえたら、そこは
「古城」があったかもしれない、とのこと。
ぼちぼち最初の駐車場に戻りましたが、そこは
「亀山市歴史博物館」、企画展「亀山高校とその歴史:100周年記念」とか。
(私的に、今度ハハを連れてきてあげようかと、戦中に志摩方面に疎開していたハハが
最後に高校生として卒業できたのは「亀高」だったと聞いているので…)
そこには「亀山城石坂門の石垣」の遺構です。
≪(前・中略:石垣部の説明に特化)
普段、わたしたちが見ている石垣は、石垣全体の構造からすれば、表側の石だけです(立面図)。
しかし、隠れた部分には、ご覧のように、裏込石(ウラゴメイシ)がぎっしり詰まっており、
それが、表側の石を安定させるとともに、水はけをよくし、石垣の崩壊を防いでいます。
また、土台と呼ばれる土の部分によって、表側の石と裏込石を支えているのが断面図から分かります。(断面模式図)
つまり、石垣は、表側の石、裏込石、土台の組み合わせで出来ているのです。≫
(石垣部分のみ平面・立面等)
再度、チャンスを作らねば…亀山の城下町も奥が深そうです。
長くなりました、ではまた
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