「ポカに理由はない」
というのは将棋を見ていて、ときおり聞く言葉である。
前回は「スーパーあつし君」こと宮田敦史七段の、驚異的な終盤術を紹介したが(→こちら)、今回はタイトルホルダーが見せたミスのお話。
将棋というのは不思議なもので、われわれからすれば神のごとき存在であるトッププロすら、ときに信じられないウッカリが飛び出すことがある。
そういうのを見ると、われわれ野次馬は、
「不調なのかな?」
「疲れてるんだろうな」
「私生活に悩みがあるとか」
なんて、ワチャワチャ推測してしまうが、当の本人や他の棋士の話などを聞くと、特にそういうことでもなく、やらかしたほうも、よくわかってないことも多いらしい。
たしかに、以前あった菅井竜也八段の「角のワープ」など、理屈でははかれないウッカリ。
2018年の第77期B級1組順位戦。
橋本崇載八段と菅井竜也七段一戦だが、ここで先手の次の手が▲46角(!)。
もちろん、△68のと金がいるため反則なのだが、なんと橋本はこれに対して△55銀(!)。
菅井のウッカリもすごいが、橋本も「いい手だな」と感じただけで気づかなかったというから(記録係が指摘したらしい)、その意味でも信じられないエアポケットである。
ふつうに考えれば財布を落とそうが、恋人に捨てられようが、明日地球が終わろうが。
どれほど動揺しようと、あんな手はありえないわけで、まあミスに理由なんてないことはよくわかる事例といえる。
そこで今回は、そういった「たぶん理由なんてない」ウッカリについて。
舞台は1999年、第48期王将戦。
羽生善治王将に、森下卓八段が挑戦したシリーズ。
事件が起こったのは、第1局の序盤だった。
先手の羽生が、▲37桂と跳ねたところ。
相掛かりから、羽生が早々に横歩を取る積極策を見せ、高飛車にかまえる力戦形に。
まだ駒組のなんてことない局面に見えるが、実はすでに羽生はやらかしている。
ここからわずか3手で、ほとんど将棋は終わりなのだ。
△88角成、▲同銀、△66歩で、升田幸三風に言えば「オワ」。
角を換えて歩を突いただけで、なんとこれにて試合終了。
▲同歩はもちろん、△34角の飛車金両取りだ。
かといって、放置して△67歩成と取られるのも、中住まいの急所中の急所を食い破られては、とても指す気にならない。
結局、▲同歩と取るしかないが、やはり△34角が激痛。
タダではないとはいえ、こんな形で飛車をめしあげられては、かなり苦しい。
実際の形勢はともかく、気分的にはすでに先手が勝てないところだ。
以下20手ほど指して、羽生は投げた。
なんにしろこの羽生のポカは、これはもう、どうにも理屈のつけようもないものであって、まさに「理由などない」の最たるではあるまいか。
タイトル戦の初戦を、それも先手番をこんな形で落としてしまっては、さすがの羽生も苦戦をまぬがれないと思われたが、なんとこの後は、あぶなげなく4連勝して防衛。
この勝ちっぷりからして、羽生になにか原因があったとも考えにくい。
やはりポカというのは理由がなくて、見ている方は首をひねるしかないのであった。
(郷田真隆の大トン死編に続く→こちら)
菅井八段のウッカリは、本当にビックリしましたね。
羽生さんのポカもすごいし、しかもこれが順位戦やタイトル戦という、長い持ち時間の将棋だから二重におどろきです。