ルネの2月28日の誕生日まで10日を切りました!
今年はルネの公式ページにビジター投稿が出来ない設定になっていますが、『メッセージ』にバレンタインデーのメッセージと画像を送りましたら、バレンタインデー当日に既読が付いていましたよ
それから、いつもコメントをくださるソースカツ丼さんから、ルネが出演した時の映像が「8時だョ!全員集合 ゴールデン・コレクション」に収録されているらしいという貴重な情報をいただきました(^^♪
YouTube映像にアップされていたオープニングの映像は入っているのかしら? ルネの体育コントだそうですが、ルネの顔にモザイク?! 私がリアルタイムで見たのはマット運動でした。カナダでは体育の種目に無いのでしょうか? 開脚前転で苦戦していたため、それを見た友だちからは「ルネは運動音痴?」と、からかわれたのを覚えています。ルネはその当時すでに公立の学校に通っていなかったと、カナダのファンの方たちから聞いていますので仕方がないのかしら?
肖像権等のことも有りますし、ルネとしてはあまり思い出したくないシーンなので、モザイク入りなのかもしれませんね★ 残念!! 現在断捨離中の身ですから、ルネ・コレクターとして購入するかどうか迷っています。3枚組で通常版なら、Amazonでも現在1万円を切る価格に割引きされていますし、ヤフオクやメルカリ等でも多数扱っておりますよ。当時のアイドルもたくさん出演していますから、お好きな方は是非どうぞ(^^♪
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さて今回は、ルネの53枚目のアルバム『Condor コンドル』の収録曲5曲目で、GREGORY CHARLES グレゴリー・チャールズとのデュオ、「Quand la musique joue 音楽が流れるとき 」を紹介いたします
グレゴリー ・チャールズは多面的なアーティストでピアノの天才。ステージ、テレビ、ラジオ、オンラインなど、音楽への愛を聴衆と共有する機会を決して逃さないケベックのエンターテイナーです。ルネと声質も似ていて、2人のデュオは耳に心地よく響きます
そしてこの歌を翻訳していて思ったのは、歌詞の中の「elle :彼女、それ(3人称女性)」は「彼女(恋人や憧れの女性)」であり、「la musique 音楽」、つまり「それ」でもあるのではないか?・・・ということでした。
この歌詞の中で、「星占いで自分の前に現れると書かれていた」、「音符が子どもの自分の頭の中で目を覚ます」、「音楽が流れる時はいつも、傷ついた心を和らげ人生を美しくする」、「それは音楽 すべてを実現させる」と歌われています。それは、幼い頃に音楽と出会い、10歳で歌手としてデビューしたルネの、音楽への思いと、今までの人生を歌っているのではないかと勝手に推測しているシマ姉です。
また、訳詞では「elle」を「彼女」としていますが、それは、最愛の人であり人生の共犯者でもある妻マリー=ジョゼのことを重ねているだと考えられます。そして、ルネの家族もまた音楽に救われたことが、兄マルタンと姉リンの告白の中で語られていました(今回の記事の最後の「名門シマール家の知られざるドラマ :孤児院の地獄」参照)。
いつものことですが、私の訳詞は参考程度にとどめて、ルネの歌を存分に楽しんでください(^^♪ 仏語にお詳しい方、是非是非アドバイスをくださいね
Home - Gregory Charles Gregory Charles — Wikipédia (wikipedia.org)
カン ラ ミュズィック ジュー グレゴリー・チャールズ
Quand la musique joue en duo avec GREGORY CHARLES
(YVES MORIN/ANDRE LECLAIR)
ジャタンデ オー ストップ
J’attendais au stop
カン デ レ パッセ プレ ドゥ モワ
Quand elle est passée près de moi
モン クー ラ フェ ポップ
Mon Coeur a fait
エ ジュ スュイ トンベ ダン セ ブラ
Et je suis tombé dans ses bras
ドゥピュイ
Depuis…
ジュ ネ ジャメ コニュ ランニュイ
Je n’ai jamais connu l’ennui
ダン モ ノロスコープ
Dans mon horoscope
セ テ ビヤ ネクリ ケル ヴィヤンドゥレ
C’ était bien écrit qu’elle viendrait
レヴェイエ レ ノートゥ
Réveiller les notes
キ ダン マ テートゥ ダンファン ドルメン
Qui dans ma tête d’enfant dormaient
ドゥピュイ
Depuis…
ア トゥー レ ジュール ジュ ディ メルシ
À tous les jours je dis merci
エル ド ナンヴィ ドゥ ランブラッセ
Elle donne envie de l’embrasser
エ ラドゥシ レ クール ブレッセ
Elle adoucit les coeurs blessés
サ アンベリ ラ ヴィ セ トゥー ウー
Ça embellit la vie c’est tout… hou
カン ラ ミュズィック ジュー
Quant la musique joue
カン デル トゥー ショ トップ
Quand elle touche au top
リュニヴェル ネ ナ ク ブー レル
L’Univers n’en a que pour elle
メ カン セ タン フロップ
Mais quand c’est un
エル ヌー ザン ヴー デートゥ ランフィデル
Elle nous en veut d’etre infidèles
エ ピュイ
Et puis…
エル ヌー パルド ネ エ ルーブリー
Elle nous pardonne et elle oublie
(refrain)
セ ラ ミュズィック
C’est la musique
キ フェ トゥー パッセ
Qui fait tout passer
カン ラ ヴィ コン ヴィ
Quand la vie qu’on vit
ヌー サンブ ランサンセ
Nous semble insensée
カン レーヴィヤン ラ ニュイ
Quand revient la nuit…
(refrain)
エル ド ナンヴィ ダレ ダンセ
Elle donne envie d’aller danser
サ アンベリ
Ça embellit
ラ ヴィ セ トゥー ウー
La vie c’est tout…hou
カン ラ ミュズィック ジュー
Quand la musique joue…
音楽が流れるとき
僕は一時停止の標識で待っていた
彼女が僕のそばを通り過ぎたとき
僕の心は< pop >したんだ
そして僕は 彼女の腕の中に落ちた
それ以来…
僕は一度も退屈を知らない
僕の星占いには
彼女が来ると よく書かれていたよ
音符が目を覚ます
寝ている子供の 僕の頭の中で
それ以来…
毎日 ありがとうと言うんだ
彼女はキスしたい気持ちにさせる
彼女は傷ついた心を和らげてくれる
それは人生を美しくする それですべてさ... hou
音楽が流れる時はいつも
彼女がtopに達したとき
宇宙は彼女のためにしか何も持たない
でも< flop> の場合
彼女は僕たちを不誠実だと責めるんだ
その後…
彼女は僕たちを許し 彼女は忘れる
(コーラス)
それは音楽
すべてを実現させる
僕たちが生きている人生だから
僕たちは正気ではないようだね
夜になると…
(コーラス)
彼女は踊りに行きたくさせる
それは美しくするんだ
人生を それですべてさ…hou
音楽が流れる時はいつも…
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名門シマール家の知られざるドラマ :孤児院の地獄
シマール家の証言や、カトリックの孤児院の生存者による身も凍るような話が、カナダ、ケベック時間2月16日木曜日の午後 9 時に ICI TÉLÉ 放送の Enquête という番組で放送された、Sacree impunit のレポートの一部として紹介されました。
彼らが名声の旋風に巻き込まれる前に、もともとサグネ出身だったシマール家のメンバーを悲劇が引き離しました。 シクーティミ孤児院での虐待について、預けられた4人の兄弟姉妹の内、 リンとマルタンが、専制的な修道女の手によって生きてきた地獄について、初めて沈黙を破りました。
※Le drame méconnu de la célèbre famille Simard : l’enfer de l’orphelinat | Radio-Canada.ca参照
※(1) Facebook参照
それは 1967 年のことで、シマール家の子どもたちが遊び心のある声でケベックを魅了し、世代のアイドルとなる数年前のことでした。 母親のガブリエルと小さなルネ・シマール(6歳)が病気になったとき、彼らはLa Baieラベに住んでいました。2人ともシクーティミで黄疸(ウィルス性肝炎)のために入院しました。 ナタリー・シマールはまだ生まれていませんでした。
父親のジャン=ロックも健康上の問題を抱えていました。 彼は家族の世話をすることができなかったので、ソーシャルワーカーは彼の他の4人の子どもたちを無原罪懐胎孤児院に預けました。
マルタンは10歳でリンは11歳でした。les Petites Franciscaines de Marieが運営する施設に預けられた初日から試練に苦しみました。 修道女は「両親を病気にした」と彼らを非難し、「罪を償わなければならない」と言いました。20年以上音楽のキャリアを積み65歳になったマルタン・シマールは、修道女の残酷な精神的、肉体的虐待は、まるで強制収容所のような刑務所だったと断言しています。
「それは世界の終わりでした。まるで恐怖の家にいるかのようでした。」と、姉のリン・シマールは説明しました。
「孤児院では、弟と姉がベッドを濡らすと、ストラップでの打撃やノッカーでの殴打・・・と罰が次々と続きます。 私たちが泣けば泣くほど、修道女らはより多くの虐待をしました。」と、マルタンは回想しました。
(リンとマルタンが経験した衝撃的な体験談の数々は、あまりにも悲惨なため省略させていただきました。)
音楽に救われた
マルタンとリン・シマールは、これまでタブー視されてきた歴史の中で、このエピソードについてもっと知るための措置を講じました。 公式文書によると、彼らは孤児院に約3か月収容されていたことになりました。しかし、彼らが受けていた虐待を知った後、彼らをそこから解放したのは彼らの家族でした。
「孤児院の後に愛があったので、私たちの残りの部分はそれを乗り越えました。」と、リンは説明しました。シマール家は結束が固かったのです。 彼らを救ったのは、この家族と音楽への愛でした。
「私たちはオルレアン島の教会で歌い始めました。 私たちは葬式、結婚式、洗礼を行いました。 ルネが人気を博し始めたのはそれから間もなくのことでした。」とリンは回想しました。
子供たちが呪われた孤児院を去った直後、シマール家はオルレアン島に引っ越しました。
「音楽への共通の情熱により、兄弟姉妹はより良い日々を信じるようになりました。 皮をむかれた魂は、重い秘密を抱えて埋めました。 音楽は人生の悩みを忘れるために作られているのです。」と、マルタンは言いました。 「私たちは人々を楽しませるためにそこにいました。しかし、 私たちが孤児院で経験したことは隠されたままでした。」と彼は説明しました。
その後、シマール家の生活は大きく変わりました。 Laura Secord ローラ・スコールの プディングの有名なCMで、P'tits Simardシマール家の子どもたちは人々の想像力をかき立て、ケベックのお気に入りの子どもたちになりました。
孤児院を出てから56年。 しかし、リンとマルタンが孤児院の他の生存者の話を聞いて、修道女たちからの虐待に苦しんだのは、自分たちだけではなかったことに気付いたのは、つい最近のことでした。
リンとマルタンは、自分たちの苦しみを取り除くために、そして何よりもカトリックの孤児院のシステムによって忘れられた人々を助けるために、彼らの話を公にすることを決めたのでした。
正義を求めて
Duplessisデュプレシス孤児の話は 1990 年代に物議をかもしました。 政府が最初に認識したのは、孤児院で精神薄弱として不当に扱われた子どもたちでした。この教会と国家の欺瞞により、オタワからより多くのお金を得ることが可能になりました。そして2001年、ケベック州は全国的な和解プログラムを立ち上げ、不当に抑留された孤児に平均 25,000 ドルの財政援助を行いました。
孤児院で虐待された他のデュプレシスの子どもたちは、2006 年にプログラムの2回目の繰り返しの下で認定されました。 被害者は 15,000 ドルを受け取ることができましたが、これらの施設に少なくとも2年間住んでいることを条件としていました。戦いにうんざりして、多くの生存者はこれらの金額を受け入れましたが、彼らはこれらの金額に嘲笑的で、被った虐待に対する補償でもありませんでした。
この援助を受けた 5,500 人のケベック人は、政府や宗教団体を訴えることを防ぐための免責同意書に署名しなければなりませんでした。 しかし、カトリック教会は犠牲者に賠償金を全く支払いませんでした。その上、リンやマルタン・シマールと同様に、2,200 人の孤児院の生存者は政府からの承認を受けませんでした。 国家和解プログラムの基準は、子どもたちに与えられた害やその結果を考慮していないため、彼らは制度の隙間から抜け落ちていました。 彼らは援助が受けられる基準となる年月を、この福祉施設で収容されていなかったからでした。
正義を得るために、彼らの訴えは上級裁判所と控訴裁判所で後退し、現在最高裁判所の手にある集団訴訟の一部です。 しかし彼らは、フランシスコ会の修道女たちが彼らにした悪事を、お金で消し去ることは決してできないことをよく知っています。
教会からの謝罪
シマール夫妻が拷問者と呼んでいた修道女たちは、今では亡くなっています。 彼女らは、犠牲者に許しを求めたことのない教会とles Petites Franciscaines de Marieのコミュニティに謝罪を求めています。
カトリック孤児院の多くの生存者と同様に、リンとマルタンは、2022 年の夏に法王がカナダを訪問した後、綿密に追跡しました。彼らは、アボリジニの人々のための寄宿学校の犠牲者が、ついにバチカンから待望の謝罪を受けたことを喜んでいました。しかし教皇は、教会と国家の共謀の結果である孤児院での虐待のスキャンダルについて一言も言わなかったので、彼らの気持ちはまちまちでした。 しかし、デュプレシスの孤児たちは何年も前からバチカンに近づいてきました。
「デュプレシスの孤児は、普通の生活を送ることができなかった人々であり、彼らはそう遠くない未来に死んでしまう。」とマルタンは悲しんでいます。「 私たちは敷物の下のほこりでした。」と。
ケベックは、デュプレシス孤児との和解のための国家プログラムから、財政援助を受けた生存者に釈放に署名させることによって、カトリック教会と宗教団体を保護したとは言えないままです。
マルタンとリンは、孤児院の子供たちのために用意されていた運命に、きっぱりと光を当てることを望んでいます。
les Petites Franciscaines de Marieは、記者たちの取材依頼を断りました。この記事の公開後、会衆は Facebook ページで反応しました。フランシスコ会は、ラジオ・カナダが報じた証言に感動と驚愕とともに学んだと言いました。 私たちは、敬意と共感を持ってこれらのつらい反響を歓迎します、と彼らは書いています。
フランシスコ会の修道女たちは、1968年に閉鎖された孤児院の当時、コミュニティには約600人の修道女がいたと語っています。今日、ケベックのコミュニティには43人の修道女がおり、その平均年齢は83歳です。フランシスコ会は、彼らの使命が、若い人々に信仰を教育し、貧しい人々の世話をし、高齢者を優しく助け、見捨てられた人々を無条件に歓迎することであることを保証しました。
病気が襲う(ルネのデビュー50周年記念誌②参照)
1967年、ルネ・シマールは6歳でした。 この病気は家族の中に入り込み、最初に肝炎に感染したのは、母親のガブリエルでした。ウィルス性肝炎は当時よく起こった障害でした。
次に肝炎にかかったのはルネでした。ふたりとも何日も入院しました。親戚たちはとても心配し、枕元に次々にやってきました。最終的には痛みよりも不安がありました。 医療チームはなんとかウイルスを取り除くことができ、人生はその流れを取り戻したのでした。
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