ライオンの詩 ~sing's word & diary 2

~永遠に生きるつもりで僕は生きる~by sing 1.26.2012

新宮 in 新宮

2010-04-15 23:25:08 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
七里御浜沿いに国道42号をいく。新宮市に入る。熊野三山の一つ神倉神社から熊野速玉大社に神を迎えて以来、周囲を新宮と呼ぶようになった。

ご存知の方もいると想うが、僕の苗字は新宮。「随分と高貴な苗字だね」と、良く言われる(笑)。「実家は神社か何かなの?」とも、良く言われる。皇室に子供が出来ると、「新宮家」(しんみやけ)と呼ばれる。

14世紀の初め、時は鎌倉時代。後醍醐天皇が即位する。後醍醐天皇は、あらかじめ決められている自分の処遇に不満を抱き、鎌倉幕府を討とうと色々と画策する。何度失敗しても懲りずに画策し、ついに捕らえられ謀反人にされてしまう。刑罰は隠岐の島への流罪。なんとか隠岐の島から脱出した後醍醐天皇は、足利尊氏や新田義貞らの助けを借り、鎌倉幕府を滅ばす。
その後、皇位に戻った後醍醐天皇、世紀の我が侭天皇の本領発揮。皇室の決まり事も無視、父親との約束も全部反古にして、「俺が一番だぜ!」宣言を表明。自分に味方した武士に恩賞を渋り、法令を決めてはすぐに変え、大増税をしての宮廷建設計画、非現実的な経済政策。貴族・大寺社から武士に至るまでの既得権侵害。まるでマリーアントワネットのような奔放振りだったとか・・・。結局、多方面から無能さを批判され、権威は地に堕ちていく。
後醍醐天皇は味方の公家や武将たちからも愛想を尽かされ、大変なことになる。味方だった足利軍に追われて逃げ回り、和睦の要請に応じて皇位継承者の証明「三種の神器」を相手方に渡してしまう。足利尊氏は新天皇を擁立し、室町幕府を開設。が、後醍醐天皇、まだ終わらない。幽閉先のお寺からまんまと脱け出し、「渡した神器は偽物である、はははぁ」と宣い、奈良県吉野に新しい朝廷を開いてしまったのである。これが京都朝廷と吉野朝廷が並立する南北朝時代の始まり。恐るべき「稀代の自分自分天皇」「俺が一番じゃなきゃ嫌だ天皇」・・・それが後醍醐天皇。

今の皇室は後醍醐天皇が立てた南朝の系譜だ。それはいいとして、かの徳川光圀は「大日本史」にこう書いている。「後醍醐天皇は不徳の君」。ダメダメ天皇ってことだね。ローマ皇帝暴君ネロのような扱いじゃないか・・・。


僕の苗字「新宮」は隠岐の島の出身だ。そう、隠岐の島に流されて暇を持て余した理不尽天皇の不徳の致す所・・・と、ちょっとした優しさ。
そう、いつか話した「はぐれ皇族純情派」。そういう感じの事情です。かなりの確率で。

そうか・・・愛すべきわがままの血は・・・そういうところからか・・・。

Do you understand? Don't say, so what?

僕たちの神様~街角から街角に神がいる

2010-04-15 08:20:22 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
最高神である天照大神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと~以下イザナギ)の子神にあたる。
伊弉諾尊は妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと~以下イザナミ)とともに、日本列島を構成する島々を生んだ。イザナミは火の神、迦具土神(かぐつちのかみ~以下カグツチ)を生んだ時の火傷のために亡くなった。イザナギはカグツチを殺す。

イザナギは、イザナミに逢いたい気持ちを捨てきれず、黄泉の国まで逢いに行くが、そこで決して覗いてはいけないというイザナミとの約束を破って見てしまったのは、腐敗し、ウジにたかられ、雷(いかづち)に囲まれたイザナミの姿。その姿を恐れてイザナギは逃げ出してしまう。

辱めを受けたと怒り、イザナギを追いかけるイザナミ、逃げるイザナギ。
修羅場だ。これは修羅場だ。想像を絶する。かなり恐い。相当恐いが・・・逢いたくて逢いに行ったのに、腐敗してるくらい何だ。うじがわいているくらい何だ。雷に囲まれているくらいなんだ。イザナギ、どうして抱きしめてやらない。と、想わないでもない。

色々あって、イザナギは黄泉の国と地上の境の地上側出口を大岩で塞ぎ、難を逃れる。その時に岩を挟んで二人が交わした言葉が・・・また恐い。
イザナミが「お前の国の人間を一日1000人殺してやる」と言うと、「それならば私は、一日1500の産屋を建てよう」とイザナギは言い返す。ここで二人は離縁する。

こうして、生きている人間を守るイザナギと、死者の住む黄泉の国の神となったイザナミは、対立することになる。

その後、イザナギが黄泉の国のケガレを落とすために禊(ミソギ)を行うと様々な神が生まれ、最後に天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つくよみのみこと)、素戔嗚尊等(すさのおのみこと)の三柱の有力な神が生まれた。この三柱の神を「三貴子」と呼ぶ。イザナギは三貴子にそれぞれ高天原、夜、海原の統治を委任した。
この時、イザナギはすぐれた子供が出来たことを喜び、天照大神にすべてを託して身を隠したとされる。

【参考~「知っておきたい日本の神様」角川ソフィア文庫(武光誠著)と、WIKIPEDIA】

古事記や日本書紀に記されている日本神話。イザナミが葬られた場所・・・それが日本最古の神社、「花の窟(はなのいわや)」。

今回の旅、ここに来たくて紀伊半島一周を思いついたと言っても過言ではない。太古の日本人の自然崇拝の原点。八百万の神への信仰の原点とも想える場所。神道が出来上がるよりも遥か昔。勿論仏教でもなく、キリスト教でもイスラム教でもヒンドゥー教でもブードゥー教でもない。政治的要素を一切含まない、古代の人が自然を自然のままに受け入れた神様の原点。今も日本人の心の奥に深く根ざす、誇るべき純粋な信仰の原点。そんなものをこの目に焼き付けたくて、ここまで来た。うん、大袈裟だが、それが本心。



ひっそりとした小さな神社の入り口、参道に人はいない。ゆっくりと参道を歩く。
花の窟には社殿は無い。高さ45mの巨巌そのものを御神体としている。太古から巨巌そのものが神様として崇められてきた。



参道を抜けて小さな門をくぐると、木立の合間から御神体が姿を見せる。少し震える。
そのまま進み、巨巌の全貌を目の当たりにする。なんてことのない岩だ・・・ただの巨大な岩だ・・・なのに・・・直下に立つと身が竦むような気がする。



日本神話の信憑性なんてどうでもいい。神話は神話だ、神話でしかない。でも、なんでだろう・・・神話が生まれるずっと前から今日まで、人々が信仰の対象にし続けた理由・・・何かがここに眠っているような気がする。何もないこの場所に、何かが眠っているような気がしてしまう。



イザナミを祭る御神体の前に、生まれた途端にイザナギに殺された火の神カグツチを祭った小さな岩がある。大量の花を供え、熱心に祈る人がいた。信仰って美しいな・・・そう想った。ルールが無ければ、ルールにとらわれないでいいのならば、信仰は美しい。僕はそんな風に想う。

ここに来れて良かった。七里御浜で時間を費やせなかった代わりに、巨巌を見上げながら、しばし座り込み過ごす。あぁ・・・ここに来れて良かった。日本の神様は素敵だ。・・・違う、日本人が信じる神様の存在が素敵なんだ。

花窟神社。祭神はいざなみのみことと、かぐつちのかみ。年に二回、180mの大綱に季節の花を括り付け、花を以て、イザナミとカグツチの魂を祭る。


参道にある苔むした小さな岩に、綱がかけてある。そう、神様は、そこかしこにいる。僕たちの神様は、いたるところにいる。それがとても素敵なことなんだ。


みはま恋し、らいおんの詩

2010-04-15 02:38:45 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
「楯ケ崎」にやってきた。
高さ100m周囲600mの柱状節理の大岩壁~東紀州きっての景勝地



水の色が異様に綺麗だ。上から見下ろす楯ヶ崎は、礼文島で見た「澄海岬」に似ていた。青い海だ。海の底が見える程に透き通った青い海だ。

日本書紀に記された神武天皇東征軍の荒坂津への上陸伝説や千畳敷で楯ヶ崎を望んで伊勢大神と熊野大神が酒盛りをしたという伝説が残る。
平安時代の歌人・増基法師は「神のたたかひたる処」と詠い怒濤衝撃する形成が勇猛なる人の気概を高め、太古神明斗戦の地であることを伝えている。

熊野には逢神坂という峠がある。これは伊勢の神宮と熊野の権現が出会うという意味があるそうだ。伊勢参りと熊野詣で・・・心がにわかにざわめき出す。平安時代から江戸時代まで、車の無い時代・・・権力者、高貴な人々、庶民に至るまで、人々はこの道を、神様に逢うために歩いていたんだな・・・そんなことを感じながら、僕は走る。

「獅子岩」&「七里御浜」。
海に向かって吠えるライオン。高さ25m、国の天然記念物。奥にある大馬神社には狛犬がいない。それは、このライオンが狛犬にたとえられているからだガオ。



全長25キロに渡る七里御浜。当時、熊野詣でに向かうお遍路さんの多くが、荒々しい黒潮にさらわれて命を落としたらしい。熊野川の上流から新宮を経て、熊野灘の荒波に磨かれた小石が敷き詰められている。「みはま小石」と呼ばれる色とりどりの小石は、アクセサリーに利用されている。

書きながら想った事がある。・・・ここの小石をお土産にすれば良かった。・・・あぁ、失敗した。
お土産に最適です。みはま小石。次に訪れた時には必ずや持ち帰ります。



少しだけ海岸を歩いた。浜に座って、波の音を、陽が暮れるまで聴いているのもいいと想った。優しく、心地のいい場所だ。でも、走ろうと想った。行きたい場所がある。イザナミノミコトに逢いに行きたい。花の窟(ハナノイワヤ)は、目と鼻の先だ。