ライオンの詩 ~sing's word & diary 2

~永遠に生きるつもりで僕は生きる~by sing 1.26.2012

山伏、現る現る。

2010-04-22 19:28:55 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記


桜並木の道をくねくねと下っていく。那智の御神体への道。いよいよ那智の神様に逢える。
飛瀧神社。鳥居をくぐって、階段を下りる。高く生い茂る杉の木の合間、豪快な音、滝が見えてくる。





落差133メートル、滝幅13メートル、滝壺の深さ10メートル。日光の華厳の滝、茨城の袋田の滝と共に日本三大瀑布の一つ。那智の大滝。

高い。強い。壮大だ。大迫力だ。そして、美しい。
滝に対する自然崇拝の聖地。否が応でも、手を合わせたくなる。



滝見台に上がるには入場料が必要だ。200円。滝見台と言っても、4、5メートルしか高くないので、入場しても入場しなくても、見える滝の姿はほとんど変わらない。でも入場料を払うと、「那智御瀧飛瀧神社延命御守」がもらえる。ちょっと嬉しい。
延命長寿の水があり、「一口飲むと何年」といったものだろうか?・・・せっかくだから、手のひらに掬って三口くらい飲んでおく。



那智には四十八の滝があり、その昔、多くの修験者たちが滝行を行った。花山法皇は二の滝の断崖上に庵を設けて、千日間滝籠行をしたらしい。千日ったら・・・三年近く・・・。断崖上に庵を設けてって・・・あんまり意味がわかんないけど、すごいんだろうな・・・きっと。千日、籠るってだけですごいもんな。千日テレビだけを観て過ごす・・・無理だな。夏も冬もだもんな・・・無理だ。海に行きたい!とか、バイクに乗りたい!とか・・・想っちゃうもんな。
その花山法皇の滝籠行のおかげで、ここの水が延命長寿の水になったらしい。

明治政府が出した神仏分離令、それとともに修験道禁止令が発布された。これによって、神仏集合的な信仰が失われてしまい、以降熊野古道周辺の神社の数は激減、熊野詣での風習もほとんどなくなってしまったということだ。


もしも、神仏分離が行われていなかったら・・・
今でも山の中で修行をする修験者がたくさんいて、山道でばったり山伏に出くわす・・・なんてことがちょくちょくあったのかもしれないな。政治や企業経営にも陰陽道が使われたりしてね。・・・今とは違う国になっていたのかもな。。。惜しいなぁ。

シングの・・・ちょっと歴史探訪はいかが?の時間

2010-04-22 08:07:42 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
那智大社の奥にある門を出ると、そこにあるのが「青岸渡寺」。神社のすぐ隣にお寺がある。神社のすぐ隣にお寺がある。うん、二回言った。



日本では、神様と仏様ってのはとても仲良しなのだ。だったのだ。
仏教という宗教が日本に伝わって来て、それが日本国内に広まった。その時に、まぁ、なんと言うのか・・・かなりぐちゃぐちゃになったんだね。

遥か昔の日本人は、こう考えていた。世の中には数知れない霊魂がある。人間一人に一個の霊魂。動物や植物にも霊魂がある。道具にも霊魂が宿る。空気中にも数えきれない霊魂がある。雨が降ったり風が吹いたりするのは、かれらの働きによるものである。古代の人たちは、様々な霊魂の力で自分が生かされていると感じ、多くのものを神様として祀った。これが、いわゆる精霊崇拝というもの。世界中のあらゆる民族が、かつては精霊崇拝の形をとっていたといわれている。
その後、大和朝廷や豪族たちの思惑や画策が色々とあって、神様の呼び名や形が変わったにせよ、精霊崇拝の基本は崩れぬまま、日本人は仏教の伝来を迎えたのだと想う。
仏教は瞬く間に広まったのだろう。だがしかし、日本人が神社を捨てて仏教に走った訳ではない。ここがポイント。なぜ、仏教を受け入れつつ、神道が残ったのか。精霊崇拝をやめずに、どうやって仏教を受け入れることが出来たのか。ここがポイント。
僕が想うに、それは二つの宗教がともに「優しい宗教」だったからじゃないか?想うに、優しい宗教と優しい宗教の出逢いだったからじゃないか?

民族の特色というものは、文化の至る所に出るものだが・・・神社と仏教、これは分かり易い。日本人は、この二つを合わせてしまったのだ。
例えば、奈良時代には伊勢神宮、鹿島神宮、賀茂神社の境内にお寺が建てられた。宇佐八幡宮の御神体は菩薩の形をしている。興福寺は春日大社を守護神とし、東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を守り神とし、延暦寺は日吉大社、東寺は伏見稲荷大社をそれぞれ守護神に持つ。神社側も寺院側も、互いに歩み寄っている。
それは庶民がそう望んだからなのではないか?と想うのである。

「まぁまぁ、ケンカするなよ。オレたち、両方とも好きなんだからさ。うん、同じ場所に両方あったら便利だよね」的なね。まぁ、宗教観的には、グダグダな感じ。

こんな流れを、「神仏習合」と呼んだりするわけだ。


時は進み、明治維新からワールドウォーツーの時代。政府は「国家神道」を元にする宗教統制を行う。神道の前に「国家」を付けるだけで、まったくの別物になってしまう。キリスト原理主義やイスラム原理主義・・・の「原理」と同じ感覚なのかもね。何かを付け加えると、「優しいもの」が優しくなくなってしまう。
細かい趣旨や歴史はさておき、ここで明治政府が行った政策が「神仏分離」なのである。長い歴史の中で合わさった神仏習合の「慣習」はここで禁止されてしまった。そして・・・今にいたる。

話を「青岸渡寺」に戻そう。
かつては熊野三山の他の二つ、速玉大社と熊野本宮大社にも仏堂があった。それが神仏分離によりすべて壊された。ここ那智山において、那智大社の如意輪堂は破壊を免れた。後に、信者の手によって復興されたのが、青岸渡寺なのである。三重塔越しに見える那智の滝は壮麗だ。

つまり、何が言いたいのか・・・だよね。

そもそも、この二つの建物を隔てる「壁」は必要無いってことだよ。法令により、仕方なく造られた壁。千年以上もの間、共存してきた神社と寺院。これが民族の「願い」の真実だとするならば、この「壁」が持つ意味、この「壁」がある意味ってなんだ?ってことなんだよ。

まぁ、ぶっちゃけて言っちゃうと、その「壁」があろうとなかろうと、民族に流れる血の「根本」が、変わるわけでは無いんだけどね。そう、「壁」なんてあってもなくても関係ない。そう、それは、もはや、「隔ての壁」じゃない。・・・ただの塀だ。


話ついでにもう一つ。

厄よけってどこでやる?・・・普通は神社だよ。でも、厄除大師は?あれはお寺だ。
そこで、テレビのレポーターが、佐野厄除大師のお坊さんに聞きにいった。

「厄除って、神社とお寺、どっちでやったらいいんですか?」って。

お坊さんはこう答えた。

「どっちでもいいんです」



ねっ、これはすごいことなんだよ。これが民族の慣習ってやつだよ。日本人が誇るべき、宗教観ってやつなんだよ。
うん、ビバ、ニッポンジンって感じなんだよ。


那智大社の奥にある門を出ると、そこにあるのが「青岸渡寺」。神社のすぐ隣にお寺がある。神社のすぐ隣にお寺がある。うん、また二回言った。すごく仲が良さそうに、神社とお寺が並んでる。