那智大社の奥にある門を出ると、そこにあるのが「青岸渡寺」。神社のすぐ隣にお寺がある。神社のすぐ隣にお寺がある。うん、二回言った。
日本では、神様と仏様ってのはとても仲良しなのだ。だったのだ。
仏教という宗教が日本に伝わって来て、それが日本国内に広まった。その時に、まぁ、なんと言うのか・・・かなりぐちゃぐちゃになったんだね。
遥か昔の日本人は、こう考えていた。世の中には数知れない霊魂がある。人間一人に一個の霊魂。動物や植物にも霊魂がある。道具にも霊魂が宿る。空気中にも数えきれない霊魂がある。雨が降ったり風が吹いたりするのは、かれらの働きによるものである。古代の人たちは、様々な霊魂の力で自分が生かされていると感じ、多くのものを神様として祀った。これが、いわゆる精霊崇拝というもの。世界中のあらゆる民族が、かつては精霊崇拝の形をとっていたといわれている。
その後、大和朝廷や豪族たちの思惑や画策が色々とあって、神様の呼び名や形が変わったにせよ、精霊崇拝の基本は崩れぬまま、日本人は仏教の伝来を迎えたのだと想う。
仏教は瞬く間に広まったのだろう。だがしかし、日本人が神社を捨てて仏教に走った訳ではない。ここがポイント。なぜ、仏教を受け入れつつ、神道が残ったのか。精霊崇拝をやめずに、どうやって仏教を受け入れることが出来たのか。ここがポイント。
僕が想うに、それは二つの宗教がともに「優しい宗教」だったからじゃないか?想うに、優しい宗教と優しい宗教の出逢いだったからじゃないか?
民族の特色というものは、文化の至る所に出るものだが・・・神社と仏教、これは分かり易い。日本人は、この二つを合わせてしまったのだ。
例えば、奈良時代には伊勢神宮、鹿島神宮、賀茂神社の境内にお寺が建てられた。宇佐八幡宮の御神体は菩薩の形をしている。興福寺は春日大社を守護神とし、東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を守り神とし、延暦寺は日吉大社、東寺は伏見稲荷大社をそれぞれ守護神に持つ。神社側も寺院側も、互いに歩み寄っている。
それは庶民がそう望んだからなのではないか?と想うのである。
「まぁまぁ、ケンカするなよ。オレたち、両方とも好きなんだからさ。うん、同じ場所に両方あったら便利だよね」的なね。まぁ、宗教観的には、グダグダな感じ。
こんな流れを、「神仏習合」と呼んだりするわけだ。
時は進み、明治維新からワールドウォーツーの時代。政府は「国家神道」を元にする宗教統制を行う。神道の前に「国家」を付けるだけで、まったくの別物になってしまう。キリスト原理主義やイスラム原理主義・・・の「原理」と同じ感覚なのかもね。何かを付け加えると、「優しいもの」が優しくなくなってしまう。
細かい趣旨や歴史はさておき、ここで明治政府が行った政策が「神仏分離」なのである。長い歴史の中で合わさった神仏習合の「慣習」はここで禁止されてしまった。そして・・・今にいたる。
話を「青岸渡寺」に戻そう。
かつては熊野三山の他の二つ、速玉大社と熊野本宮大社にも仏堂があった。それが神仏分離によりすべて壊された。ここ那智山において、那智大社の如意輪堂は破壊を免れた。後に、信者の手によって復興されたのが、青岸渡寺なのである。三重塔越しに見える那智の滝は壮麗だ。
つまり、何が言いたいのか・・・だよね。
そもそも、この二つの建物を隔てる「壁」は必要無いってことだよ。法令により、仕方なく造られた壁。千年以上もの間、共存してきた神社と寺院。これが民族の「願い」の真実だとするならば、この「壁」が持つ意味、この「壁」がある意味ってなんだ?ってことなんだよ。
まぁ、ぶっちゃけて言っちゃうと、その「壁」があろうとなかろうと、民族に流れる血の「根本」が、変わるわけでは無いんだけどね。そう、「壁」なんてあってもなくても関係ない。そう、それは、もはや、「隔ての壁」じゃない。・・・ただの塀だ。
話ついでにもう一つ。
厄よけってどこでやる?・・・普通は神社だよ。でも、厄除大師は?あれはお寺だ。
そこで、テレビのレポーターが、佐野厄除大師のお坊さんに聞きにいった。
「厄除って、神社とお寺、どっちでやったらいいんですか?」って。
お坊さんはこう答えた。
「どっちでもいいんです」
ねっ、これはすごいことなんだよ。これが民族の慣習ってやつだよ。日本人が誇るべき、宗教観ってやつなんだよ。
うん、ビバ、ニッポンジンって感じなんだよ。
那智大社の奥にある門を出ると、そこにあるのが「青岸渡寺」。神社のすぐ隣にお寺がある。神社のすぐ隣にお寺がある。うん、また二回言った。すごく仲が良さそうに、神社とお寺が並んでる。