白雲去来

蜷川正大の日々是口実

初代の「こだま」に乗りたかった。

2014-10-17 10:55:59 | インポート

十月十四日(火)晴れ。

未明の台風の通過で、我が陋屋が揺れて家族は怖かったと言っていたが、私は「黒霧島」のお蔭で白河夜船(しらかわよぶね=熟睡して前後を知らないこと)。起きた時は、台風は去っていて、一過、晴天ではあるが、秋深し。この「秋深し」であるが、実は夏にも春にも冬にも、それぞれ「深し」がある。しかし、やはり「秋深し」が詩的で、何かもの悲しさが漂うようでいい。

朝食は、アコウダイの粕漬け、納豆、竹輪のてんぷらに豆腐の味噌汁。食後は、倉庫代、紙代、印刷機のインク代の支払い。お金のことを「御足」とは良く言ったものだ。ふぅーっとため息が出る。

新幹線が出来てから五十年らしい。初代の「こだま」に乗る機会はなかった。五十年前は中学の二年生だったが、その年、修学旅行で京都に行ったが、横浜駅の東口に集合して、普通の貸切の電車で行った。新幹線に初めて乗ったのは二十歳を過ぎた頃だった。大磯の小早川貞夫先生のお供で、大阪で行われた日本皇民党の結成式に行った時に新横浜から乗車した。以来、この歳になるまで数えきれないほど新幹線に乗ったが、初代の「こだま」に乗れなかったのが悔やまれる。

今日、十四日は「鉄道記念日」。明治五年、新橋、横浜間に鉄道が開業した。東海道線の第一号である。当時は「岡蒸気」と呼ばれたその鉄道は、「汽笛一声新橋を、はやわが汽車は離れたり。愛宕の山に入り残る、月を旅路の友として」海岸沿いを走った。と「歳時記」にある。

電車の旅は好きだが、海外で電車に乗ったことはほとんどない。香港の地下鉄とバンコクのモノレールくらいか。どこかの国に行く機会があったならば、こんどは電車に乗ってみようと思っている。

夜は、良い秋刀魚を仕入れたので、塩焼きとてんぷらにして月下独酌。


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人騒がせな、それでいて心優しい男が死んだ。

2014-10-17 10:16:35 | インポート

十月十三日(日)曇り後雨。未明に台風通過。

昨日、友人夫妻と飲んでいる時に、野村事務所に長く勤めていた木村ゆかりさんから電話が入り、やはり古い付き合いのあった根上隆氏が亡くなられたことを聞いた。昨年の群青忌には元気な姿で参列していただけに、彼の死と言うものがとても信じられなかった。

良く言えば、少し変わった所のある、悪く言えばお騒がせな男ではあったが、野村先生のファンで、先生も何かと気にかけていた。木村ゆかりさんとなぜ気が合うかは、我々の周りで七不思議の一つに数えられていたが、とにかくエピソードと言おうか武勇伝の絶えない人であった。

群青忌や運動関係者の宴席などでたまに見かけては挨拶をするぐらいの付き合いで、彼がそういった席にいると、何か騒動を起こさないかとヒヤヒヤしたものだ。昨年の四月に、何が原因だったかは分からないが、築地市場でマグロ包丁を持って暴れて、魚河岸の人たちに囲まれている動画を見て、とても驚いた。その後、都知事選に立候補するなど、ああ元気にしているな。と思っていた。

思えば彼とは長い付き合い、と言っても個人的には酒席を共にすることも、戦線を共有することもなかったが、気になる存在の知人と言った方が正しいのかもしれない。今回の彼の訃報を聞いて、あらためて思ったことは、そう言えば、彼の個人情報を全く知らないということだった。政経調査会の槇泰智さんのブログを見て、根上氏のオフシャルサイトがあることを知り、開いてみた。彼が大学を卒業後に都の職員に採用され、中野区役所に出向で働いていたことや、結婚歴があり子供さんもいることなどを知ってとても驚いたのと、私などよりも余程まともな人生を歩んでいたことが意外だった。

某社の株主総会がらみで、与党の総会屋に追いかけられて皇居のお堀に飛び込んだことや、阿部勉さんの葬儀で裸で車を運転して乱入、また群青忌の会場で、上半身裸になって奇声を発したり・・・。まあ彼にはそう言うことをする正当な理由があったのだろうが、正直言って私にしてみれば「またか」という感じで多少持て余し気味もあったが、どこか憎めない所のある男でもあった。

随分前に、インド旅行について書かれた本に、「日本から来た革命家」として彼の事が紹介されていて(革命家としての正当な評価ではなかったが)、インドのどこかの駅で警察官に発砲され屋根の上を逃げて行く、といったエピソードが書かれていた。書いた人は、驚いたかもしれないが、私には、さもありなん、とその時の光景が目に浮かんできておかしかったことを覚えている。

この二、三年は、今の季節になるととても大きな梨を送って頂いた。我が家では「根上梨」と呼んでいたそれは甘く、とても美味しかった。元気でいる証拠の「根上梨」が今年はまだかと思っていた矢先の彼の訃報だった。それも野村先生の亡くなられた十月に。今頃、天国で野村先生や阿部さんから、「あんまり早く来なくたって良かったんだよ」と言われているかもしれない。人騒がせな、そして心優しい一人の男が、静かに旅立った。合掌。

ニュースでは台風が未明に関東地方に上陸とか。戸締りをしていたら、子供たちが、「台風よりも、酔っぱらった時のお父さんの方がウルサイね」と陰口をたたいていた。そうか大型の台風よりも、酔っぱらいの私は、迷惑な存在だったのか。子供に教わった怒りの表現。ゲキオコ。プンプン。


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関内と関外と野毛のことなど。

2014-10-15 10:17:34 | インポート

十月十二(日)晴れ。

朝食は、大好きなサバの文化干しと筋子。血圧に良くないと知りつつも、まっいいかと、フフフな気分で食べる。何と言っても味噌汁は「あさり」である。一時は、血圧を気にして味噌汁を控えていたが、何とか落ち着いたので、復活した。

味噌汁で一番好きな具は、①あさり②しじみ③大根(お揚げ入り)④豆腐⑤玉ねぎ⑥ジャガイモ⑦茄子。といった順である。夏前までは、糠で野菜を漬けていたが、我が家では糠漬けを食べるのは私だけなので、面倒なのでやめた。折角糠床も良い味になって来ただけに残念だったが、何も漬けないと糠床が傷むので、毎日何かを漬ける。すると当たり前だが、どんどん漬かって、食べなくてはと言う強迫観念に駆られて、プレッシャーになった。せめて朝食にはお新香を付けたいのだが、スーパーで売っているのはろくな物はないので、最近はたまに「一夜漬け」を作っている。

お新香と言えるかどうかは分からないが、かぼちゃの漬物が意外に美味しい。かぼちゃを薄く一口サイズに切る。厚いと食べるのが大変なので、歯触りが良いくらいの暑さがちょうどいい。太千切りもよいが好み次第。麺つゆ六、リンゴ酢四に鷹の爪一本を入れて、ビニール袋に入れてから、軽く揉んで、空気を抜いてから冷蔵庫で二日。酒の肴にも良いし、かぼちゃを沢山頂いたので、最近は毎日食卓に上がる。

昼間は、家族で伊勢佐木町に出た。私が小さい頃には、伊勢佐木町にも海の香りがしたものだが、全くしなくなった。伊勢佐木町の入口、つまり吉田橋を境に、伊勢佐木町側が「関外」(かんがい)で吉田橋を渡り、馬車道を通って海側が「関内」と呼ばれている。幕末の頃、この吉田橋に関所を設けて、右翼ではない不逞の浪士を取り締まった。関内には当時、外国人が暮らす居留地があったからだ。すなわち関所の内側ゆえ「関内」。伊勢佐木町などは関所の外にあるので「関外」と呼ばれたが、今では「関外」はほとんど死語となっている。

因みに横浜には「関内」という住所表記はない。あるのは駅名と通称である。今では「関内に行く」と言えば、そのまま飲み屋街へ行く、ということの通称となっている。横浜の繁華街である中区には福富町と関内という二大飲食街があるが、福富町は韓国や中国、フイリピンといったお店も多く、庶民的な町だが、反対に関内には落ち着いた感じのクラブがひしめいている。しかし最近は関内も老舗の大箱のクラブが相次いで閉店し、かつてのような活気が感じられないのが関内を愛する者の一人として寂しい限りである。

その福富町や関内に代わって活気を帯びているのが野毛である。私が子供の頃は野毛と言えば労働者が集う場所であった。現在のぴおシティーのあるすぐ近くには、ウナギの寝床のように飲み屋が入っていた「桜木デパート」というものがあった。野毛一帯は、港湾労働者や現在の「みなとみらい」の場所にあった「三菱横浜造船所」、通称「三横ドック」などで働く人たちが仕事帰りに立ち寄るようなお店が沢山あった。もちろん現在もその昭和の名残を残している。オシャレになった「立ち飲み屋」に女の子同士で飲んでいる姿など珍しくなくなった現在の野毛であるが、私が十五、十六歳の頃は、一人で立ち入るには少し勇気のいる街でもあった。

夜は、カメちゃん&アコちゃん夫妻と一緒に、平沼の「角平」で一杯。先日行った時に、美味しそうな肴のメニューが貼ってあり「三時から賜ります」とあったので、三時過ぎに行ってみた。しかしながら、肴はイマイチだった。考えてみれば当たり前で、老舗の蕎麦屋であっても居酒屋ではない。次は、正しくお銚子一本ぐらいにしようと反省した次第。

口直しに野毛に転戦。「福田フライ」で一杯だけ飲んでから「むさし」へ。やはりここが落ち着く。一時間ほどいてから、藤棚に戻って「一休」で〆。ちょっと体調が良くなるとこれだ。分かっちゃいるけど、やめられねぇー。か。帰宅後は沈思反省の眠りについた。


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三浦和義氏の七回忌。

2014-10-14 13:29:02 | インポート

十月十一日(土)晴れ。

今日は、私が道の兄と慕った元楯の会の阿部勉さんと、「ロス疑惑」で有名な三浦和義さんのご命日である。阿部さんは平成十一年に五十三歳という若さで亡くなられた。辞世ではないが、平成十年に、共同出版した歌集「国風(くにぶり)」(展転社)の中で詠んだ「春も酒」と題した歌が、今では阿部さんの辞世のように膾炙されている。

われ死なば火にはくぶるな「栄川」の二級に浸して土に埋めよ。

三浦和義さんとは、私がある事件を起こして東京拘置所にいる時に文通をしていた。連合赤軍の植垣康博さんも同時期に東拘にいて色々と中での過ごし方などをアドバイスして頂いた。出所なされた三浦さんが「群青忌」に出席して以来、様々な場所で一緒になった。そう言えば、松山の矢野隆三さんを訪ねて、一緒にお祭りを見に行ったこともあった。最後の旅行はサイパン。そのサイパンで拘束されるとは思わなかった。面会に行ったことなどが懐かしく思い出される。脚本家の河村シゲルさんが企画して開催していた代官山のライブハウスでの三浦さんとのトークショーに私も出たことがある。ゲストとして来た人たちと三浦さんの対談形式のトークショーが一冊の本になったこともあった。

Sim1 ※この本に私と三浦さんの対談が掲載されています。

平成の二十年に移送されたロスで謎の死を遂げた。今日はご命日で七回忌となる。その法要に出席するためにお墓のある平塚に行った。同行の人たちとの待ち合わせの時間を一時間間違えてしまい、仕方なく「七夕祭り」で有名な商店街を散策してみた。知らない街へ行くと古書店に入るのが楽しみの一つだが、残念ながら見当たらなかった。驚いたのは、その商店街の周りにはパチンコ屋が一軒もないことだ。良いことだ。

十二時過ぎに、脚本家の河村シゲルさんや冤罪をなくすために尽力をしている今井恭平さん、映画監督の山際永三さんや自らの冤罪で戦った福井雅樹さんなどと合流。一時から法要。その後墓所で手を合わせてから直会。三浦さんの弁護を担当した、弘中淳一郎弁護士が挨拶と献杯の後に、久しぶりの人たちとの懇親。

帰宅後は、事務所にて仕事。夜は酔狂亭で月下独酌。 


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機関誌の最新号。

2014-10-14 12:36:57 | インポート

十月十日(金)晴れ。

東京オリンピックから五十年か。オリンピックが開催されたのは私が中学二年生の時だった。陸上部に所属していて、努力すればいつかはあの大観衆の見守る中で走ることが出来る、などと不遜な夢を見ていた。開会式で入場行進をする日本の選手団の姿をテレビで見て、とても感動した。大東亜戦争の敗戦からわずか十九年で、アジア初となるオリンピックを開催するまでの国になったのだ。私のこれまでの人生を振り返って、一番感動した出来事と言えば、やはりオリンピックに尽きる。

聖火の最終ランナーであった坂井義則氏がちょうど一か月前に亡くなられた。マラソンの円谷幸吉さんや八十メートルハードルの依田郁子さんなどオリンピックのスターもすでに亡くなれている。昭和は遠くになりにけりか。

私が発行している機関誌「燃えよ祖国」の第二〇六号が完成、発送した。毎月、新しい機関誌が出来ると、嬉しい反面ホッとする。本来ならば、もっと安価にしてより多くの人たちに読んで頂きたいのだが、何せ事務所や私の活動費をねん出させなければならない。読者の皆さんにはご迷惑をお掛けいたしますが、何卒よろしくお願い致します。

Photo_2 ※第206号です。

Photo_3 ※目次と、巻頭は野村先生が昭和47年に獄中から愛国党の総裁、赤尾敏先生のご夫人に宛てた手紙を掲載させて頂いた。


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