十月十二(日)晴れ。
朝食は、大好きなサバの文化干しと筋子。血圧に良くないと知りつつも、まっいいかと、フフフな気分で食べる。何と言っても味噌汁は「あさり」である。一時は、血圧を気にして味噌汁を控えていたが、何とか落ち着いたので、復活した。
味噌汁で一番好きな具は、①あさり②しじみ③大根(お揚げ入り)④豆腐⑤玉ねぎ⑥ジャガイモ⑦茄子。といった順である。夏前までは、糠で野菜を漬けていたが、我が家では糠漬けを食べるのは私だけなので、面倒なのでやめた。折角糠床も良い味になって来ただけに残念だったが、何も漬けないと糠床が傷むので、毎日何かを漬ける。すると当たり前だが、どんどん漬かって、食べなくてはと言う強迫観念に駆られて、プレッシャーになった。せめて朝食にはお新香を付けたいのだが、スーパーで売っているのはろくな物はないので、最近はたまに「一夜漬け」を作っている。
お新香と言えるかどうかは分からないが、かぼちゃの漬物が意外に美味しい。かぼちゃを薄く一口サイズに切る。厚いと食べるのが大変なので、歯触りが良いくらいの暑さがちょうどいい。太千切りもよいが好み次第。麺つゆ六、リンゴ酢四に鷹の爪一本を入れて、ビニール袋に入れてから、軽く揉んで、空気を抜いてから冷蔵庫で二日。酒の肴にも良いし、かぼちゃを沢山頂いたので、最近は毎日食卓に上がる。
昼間は、家族で伊勢佐木町に出た。私が小さい頃には、伊勢佐木町にも海の香りがしたものだが、全くしなくなった。伊勢佐木町の入口、つまり吉田橋を境に、伊勢佐木町側が「関外」(かんがい)で吉田橋を渡り、馬車道を通って海側が「関内」と呼ばれている。幕末の頃、この吉田橋に関所を設けて、右翼ではない不逞の浪士を取り締まった。関内には当時、外国人が暮らす居留地があったからだ。すなわち関所の内側ゆえ「関内」。伊勢佐木町などは関所の外にあるので「関外」と呼ばれたが、今では「関外」はほとんど死語となっている。
因みに横浜には「関内」という住所表記はない。あるのは駅名と通称である。今では「関内に行く」と言えば、そのまま飲み屋街へ行く、ということの通称となっている。横浜の繁華街である中区には福富町と関内という二大飲食街があるが、福富町は韓国や中国、フイリピンといったお店も多く、庶民的な町だが、反対に関内には落ち着いた感じのクラブがひしめいている。しかし最近は関内も老舗の大箱のクラブが相次いで閉店し、かつてのような活気が感じられないのが関内を愛する者の一人として寂しい限りである。
その福富町や関内に代わって活気を帯びているのが野毛である。私が子供の頃は野毛と言えば労働者が集う場所であった。現在のぴおシティーのあるすぐ近くには、ウナギの寝床のように飲み屋が入っていた「桜木デパート」というものがあった。野毛一帯は、港湾労働者や現在の「みなとみらい」の場所にあった「三菱横浜造船所」、通称「三横ドック」などで働く人たちが仕事帰りに立ち寄るようなお店が沢山あった。もちろん現在もその昭和の名残を残している。オシャレになった「立ち飲み屋」に女の子同士で飲んでいる姿など珍しくなくなった現在の野毛であるが、私が十五、十六歳の頃は、一人で立ち入るには少し勇気のいる街でもあった。
夜は、カメちゃん&アコちゃん夫妻と一緒に、平沼の「角平」で一杯。先日行った時に、美味しそうな肴のメニューが貼ってあり「三時から賜ります」とあったので、三時過ぎに行ってみた。しかしながら、肴はイマイチだった。考えてみれば当たり前で、老舗の蕎麦屋であっても居酒屋ではない。次は、正しくお銚子一本ぐらいにしようと反省した次第。
口直しに野毛に転戦。「福田フライ」で一杯だけ飲んでから「むさし」へ。やはりここが落ち着く。一時間ほどいてから、藤棚に戻って「一休」で〆。ちょっと体調が良くなるとこれだ。分かっちゃいるけど、やめられねぇー。か。帰宅後は沈思反省の眠りについた。