十月四日(土)曇り。
午後一番で野村先生の奥様に群青忌の段取りを報告に行く。その後、事務所にて機関誌の製作。五時過ぎまでかかって何とか校正が終了。
民族革新会議の犬塚議長から『正論』の今月号の「折節の記」に野村先生のことが掲載されていると言う連絡があった。久しぶりに『正論』を買った。その「折節の記」には署名がないが、多分高山正之氏の筆だと思う。野村先生のことを引用している所だけを掲載させて頂きます。
「河野一郎は朝日新聞記者から政治家になった。そういう忌まわしい出自だから彼には疾しい話ばかりつきまとった。彼は鳩山一郎を担ぎ、権謀術数の限りを尽くして吉田を政権の座から引きずり落とした策士として知られているが、それ以上に『国家より己の利権』を先走らせ、一代で神奈川に河野王国を築いたことの方が有名だった。その傍若無人を怒った憂国道志会の野村秋介に平塚の大邸宅を焼き打ちされたこともあった。吉田茂はその煙を大磯の自邸から眺め、訪ねてきた三木武夫に『河野の家が燃えている』と嬉しそうに話したエピソードが残る」。
と言うもの。今週の『新潮』もそうだが、群青忌を前にして野村先生がかつて放ったボディブローが徐々に効いてきたのかもしれない。『正論』と言えば、事務所に創刊号があったと思うのだが、今度探してみよう。
夜は、機関誌の校正が終了したことへの自分へのご褒美で、「かつお」を仕入れて酔狂亭で独酌。
十月三日(金)晴れ。
アジア大会のマラソンがあるので、終わるまでは電話のスイッチを切ってテレビの前に座った。しかしながら日本の選手が世界のマラソンのトップ争いから遠ざかってから久しいのはマラソンファンとしてはさみしい限りである。瀬古、宗兄弟、中山といった名選手が、常に世界の一流選手と優勝を争っていた時代が懐かしい。
失礼ながら、今のマラソン界は中の上で、上の下といったレベルの選手が多い。アジア大会に出場した選手の顔ぶれを見ても、そんな感じがしてしまう。レースも皆、勝を意識過ぎてスローペースで、見ごたえがあったのは競技場内だけだった。それにしても難コースとはいえ二時間十二分台ではねェ-。まっそれでも日本選手が二位と三位。おめでとうございます。また千六百メートルリレーの優勝など他の種目での日本選手の活躍が嬉しかった。
後日、行われたベルリンマラソンでケニアのキメトが二時間二分五十七秒と言う驚異的な世界新で優勝した。いくらフラットで走りやすいコースとはいえ二分台とは、ちょっと常識では考えられない記録だ。五キロの平均タイムが十四分四十秒ぐらいで、三十キロから三十五キロの五千メートルのラップタイムが何と十四分九秒。日本に限らず他の国の選手も対応は無理に違いあるまい。女子の五千メートルの日本記録がワコールの福士加代子の十四分五十三秒であることを考えてもいかに驚異的な記録かが分かる。
夕方、みなとみらいにあるスーパーで晩酌の肴の仕入れ。結局は、仕事をほんの少しだけやって、ほとんどアジア大会に釘付けとなった一日だった。
十月二日(木)曇り。
冷ご飯が沢山残っているので、一人土鍋でおじやを作って食べた。午前中に「アサヒ芸能」から、今回の朝日の問題に関して「電話取材」を受ける。大して勉強もしていないので、私などで良いのかと思ってしまう。有難うございました。
現在発売されている『週刊新潮』(10月9日号)に石原慎太郎氏が「国を貶めて新聞を売った『朝日』の罪と罰」という物を書いている。その中に野村先生に触れている所があるので、その部分に限って転載してみる。
「私と親しかった右翼活動家の野村秋介さんが、朝日新聞東京本社に乗り込んだ事件がありました。九十三年十月のことで、当時の中江利忠社長らに説教して謝罪させたあと、社長の目の前で自分のわき腹に向けて拳銃を放ち、自殺してしまいました。
私は通夜に行って、「野村なんでこんな死に方をしたんだ、なんで相手と刺し違わなかったんだ」と言いました。彼は朝日新聞に対して、命がけで決肴をつけるべきだったのです。そうすれば、彼らはもう少しまともな会社になっていたのではないか。朝日が国を売った慰安婦報道をひっくり返した今、なおさらそう思います。
朝日新聞は、これだけ国家と民族を辱めました。彼らがやったことは国家を殺すのと同じことで、国家を殺すというのは、同胞民族を殺すことと同じです。彼らはいつもああいうマソヒズム的な姿勢をとることで、エクスタシーを感じているのかもしれませんが、朝日の木村伊量社長は、世が世なら腹を切って死ななけれぱならないはずだ。彼らの責任はそれくらい重いと思います。三島由紀夫は生前、『健全なテロがないかぎり、健全な民主主義は育たない』と言いました。私は、これにはパラドックスとして正しい面があると思います。
野村秋介は六十三年に、当時建設大臣だった河野一郎邸に火をつけました。河野は代議士になる前は朝日新聞の記者で、典型的な売国奴のような男でしたが、那須の御用邸に隣接する上地を持っていて、御用邸との境界線争いが起きたとき、境界をうやむやにするために雑木林に火をつけさせたといわれた。
それで御用邸の森の一部も燃えてしまい、泉も涸れてしまい、天皇陛下も大変悲しまれました。そのことが右翼全体の怒りを招き、結局、児玉誉士夫が騒ぎを収めたのですが、野村はそれでは納得できず、河野邸を燃やしたのです。
野村はそれで十二年間、刑務所に入りました。もちろん放火という行為は推奨できないが、命懸けだった。少なくとも昔の言論人は命懸けで、最近、そういう志の高い右翼はまったくいなくなりました。今は、朝日が何をしようと安穏と過ごせる、結局うやむやにして過ごせる時代です。」。
石原氏が野村先生の行為をどうとらえるかは勝手であるが、「なぜ殺さなかった」は、あまりにも無責任な発言ではないだろうか。そう思ったならば自分がやれば良いだけの話だ。ご高齢で、もう余り現世に未練もないことと思うので、三島、野村両烈士の後に続いたらいかが、と思うのは私だけだろうか。まっいいか。
夜は、友人がたっぷりの刺身を持って来訪。秋の夜長、ほろほろと飲んだ。
十月一日(水)雨。
朝食は、赤ウインナー、マルシンのハンバーグ、目玉焼きにキャベツの千切り。ウォーキングに出ようかとも思ったが、外はあいにくの雨。なぜかホッとしてしまう自分がいる。ジョギングもウォーキングも楽しんでやらないと続かない。
今日は、夜にお世話になっている現代アートのディレクターであり、ミズマ・アートギャラリーを主宰している三潴末雄さんが幻冬舎より「アートにとって価値とは何か」という本を上梓され、その出版記念会が行われ、出席した。
三潴さんとの出会いは、今から三十年以上前の選挙で新自由クラブから立候補した工藤晃氏の手伝いをした時に、選挙アドバイザーとして来ていた三潴さんと知り合った。その後、三潴さんが私の道の兄であった元楯の会の故阿部勉さんともお付き合いがあることを知り、親交が深まった。親交と言っても阿部さんが酒代欲しさに、どこからか持って来た掛け軸を法外な値段で三潴さんに買って貰ったり、カンパをして頂いたりで、こちらはお世話になりっぱなしのお付き合いだ。
出版記念会は、ミヅマ・アートギャラリーで行われたが、二百人を超える人たちが出席したが、私は三潴さん以外に誰一人として知っている人はいない。手持無沙汰で、かつ混み合って来たので二十分ぐらいでお暇した。
帰りの車中で頂いた本を読んでみたが、「アート」について書かれた部分の半分くらいは理解の外だったが、第二章の三潴さんの自分史にはとても感動した。学生時代はブントの活動家であった三潴さんは、様々な葛藤の末に運動から離れるが、文中にドキッとする言葉があった。
「あさま山荘事件などを経て、新左翼的な運動に対する社会の理解は決定的に失われてしまっていた。こうなると、闘争への関わりは単なる前科でしかない」。と言うものだ。それは、今日、右翼・民族派の活動をしている我々にも当てはまるかもしれない。
例の「暴排条例」によって今まで応援をして頂いた企業や個人事業者からひとくくりにされて、支援が受けにくくなった。こうなると、過去の過激な運動歴などは、三潴さんが言うように「単なる前科」でしかない。しかし生活が苦しいからと言って、生き方を変えるわけには行かない。先に逝った人たちのためにも。
横浜駅で降りて、「やまと」へ寄り夕食代わりに一杯。店のお馴染みさんと談笑しつつ一時間ほどで帰宅。