四月五日(日)曇り。
朝食後は、家族全員で自宅の掃除。何処の町もそうだろうが、ゴミが分別になって以来、どうしてこんなにプラや紙のゴミが出るのかと思うほどの量が出る。プラ、紙類、ビンと缶、スプレー、生ゴミなど、狭い台所がまるでゴミ置き場のようだ。集配日まで待ちきれないときは、仕方がないので事務所に持って行き捨てる。これが本当に資源になるのかは分からないが、ルールは守らなければと、分別にいそしむ。
夕方、事務所に郵便物の確認に行ったら、鈴木邦男さんから雑誌が二冊届いていた。中を見たらJR総連関係の機関誌で「われらのインター」というもの。JR総連の人たちとは、以前、三浦さんの支援集会や、私達がゲストで行ったトークショーを本にした出版記念会の席などで一緒になったことがある。三浦さんが、かつてJR総連の裁判の支援をしたことが縁となり、お付き合いが始まったと仄聞している。三浦さんは、左右に関わらず、「冤罪」の裁判を支援していた。そこには自らの体験から来る権力への不信感があったに違いあるまい。日本の権力との不条理との戦いに勝利しながら、その報復とも思われる米国の権力の手によって死を余儀なくされた三浦さんの憤怒と悲しみが伝わってくるようだ。
三浦さんがサイパンで逮捕されてからは、今度は反対に、彼等が三浦さんの支援に廻った。たとえ思想信条の違いはあれど、不条理に対する戦い、反体制、反権力への思いは、どこか共通する思いがある。かつて大逆事件で刑死した幸徳秋水の著書の跋文を書いた三宅雪嶺。頭山満と中江兆民。まあ三浦さんは右翼ではないが、娑婆にいるときは、必ず、野村先生の追悼祭「群青忌」には出席してくれた。
そうか、「われらのインター」話だった。その雑誌の2009年の17,18号に松崎明氏が何と野村先生の句集「銀河蒼茫」取り上げて書いているのである。いやはやたまげた。松崎氏と言えば今更説明の必要はないだろうが、元革マル派の副委員長とも言われ、動労の委員長だった人だ。第十七号の表紙の裏には「銀河蒼茫」の写真が、そして松崎氏が書いたタイトルは「銀河蒼茫ー野村秋介獄中句集にふれて」と言うもの。
「右翼の過激派、悪い奴ら、としばらく前まで、この私も思っていた。私自身左翼過激派、悪い奴、言われているにもかかわらず。今では「週刊現代」によってテロリストとまで、「格上げ」されている。『野村秋介獄中句集』を読みながら背筋がぞくぞくする程の感動をおぼえた。早速『インター』の仲間に紹介しなければと思い〆切り後にもかかわらず無理を言って突っ込ませてもらった」。と書いている。きっと天上で野村先生もニヤリとしながら、若い鬼と冷えたビールでも飲んでいるのに違いあるまい。
今日は、嬉しい事がもう一つあった。DVDを借りに「TUTAYA」に行った。時間があったので「ブックオフ」で暇をつぶしていたら、山平重樹さんが書いた「最後の浪人・阿部勉伝」を見つけた。元楯の会の故阿部勉さんは、私が道の兄として慕った人だ。先日、古い友人で、長野でスキーペンションを経営していた、S氏の話に触れたが、そのS氏も阿部さんの弟分を自認している。阿部さんが「オイ蜷川よ、Sを頼むよ」と言っているような気がして、これまで遠路を理由に、開店したお店にも顔を出さず、疎遠にしていた事を反省した。
野村先生が、「河野邸焼き討ち事件」にて、戦線復帰して最初に書いたものが、「人の一生は邂逅の一語に尽きる」というもの。あらためて、その「邂逅」という言葉を考えさせられた一日だった。休肝日とした。