四月十九日(日)晴れ。
良い天気である。今年初めて、半袖を着た。午前中は、家族総出で自宅の掃除。午後からは、山下町の「ドンキホーテ」へ買い物に行ったが、結局、目当ての物が無くて、近くの家電量販店に行った。ついでに夕食の買い物を済ませて帰宅。夜は、七時に松本佳展、サエちゃん両名が来訪しての食事会。十時過ぎに解散。
「週刊新潮」の四月二十三日号、「『週刊新潮』は、こうして『ニセ実行犯』に騙された」という十頁に渡る、「謝罪・検証記事」が発表された当日、五大新聞の全てが、その事に触れて書き、私が知る限りでは、NHKや民放のニュースでも取り上げていた。皆、一様に新潮の「謝罪記事」を批判しており、あらためて「責任」を追及する論調に終始している。
例えば、当事者である、朝日新聞は、「同誌(注・「週刊新潮」)は、『だまされた』と被害者であるかのような立場を強調し続ける。こうした対応が雑誌ジャーナリズム全体への信用低下を招きかれない」。と厳しく批判し、翌、十七日の「社説」にも、「『騙されただけではすまぬ」として取り上げていてる。
東京新聞も、社説に「雑誌報道の自殺行為だ」との見出しで、「謝罪しながらも『誤報から100%免れることは不可能」などと被害者めいた言い訳をつづるのは読者に失礼だろう。こんなタイトルで十ページも使った特ダネ級の扱いには商魂すら疑ってしまう。(中略)『売れさえすれば』とセンセーショナリズムで雑誌をつくるとしたら、自殺行為だ」と批判。さらに「こちら特報部」で二ページにもわたって、「ジャーナリズムの危機」「メディア劣化の懸念」との特集記事を掲載した。
産経は、一面に「新潮、誤報認める」とのタイトルで、「スクープ扱いの記事が一転、メディアのありか方に禍根を残す結果となり、同誌のの信用失墜は避けられない」と書いた。さらに三面に、「病根の深さ噴出」として様々な分野のジャーナリストの意見を掲載している。当然、コメントを寄せた方々の意見も、「ジャーナリズムの在り方について憂慮」し、新潮の姿勢に批判的である。
毎日は、一面に「新潮、誤報認め謝罪」「編集長『うそ見抜けず』」との見出しで、新潮社の姿勢を批判。社会面では「編集長『被害者』強調」と、早川編集長とのインタビューの様子を書いている。
読売も大きく報じた。まず早川編集長との一問一答を掲載し、島村の手記を巡る動きと新潮社側の見解の推移を対照表にして表し、「早川編集長は、『手記』の掲載に踏み切った判断について『真実相当性』をあげた。だが、このような釈明をすることこそが前代未聞の虚報を生んだといえないだろうか」と、週刊新潮のスクープが、「誤報」ではなく「虚報」であると、断定している。
今回、週刊新潮に引導を渡したのは、何と言っても島村の「オレは実行犯ではない」という証言であったことは言うまでもない。詳細については言えないが、私には、島村が、絶対に他社に逃げ込むとの確信があった。そしてその通りになった。新潮社が「スクープ」を行うという執念よりも、我々の「恩師が辱められた」ことの名誉を晴らす、執念と信念が勝った、ということだろう。しかし「勝った」とか「嬉しい」とかの感慨はないし、決して満足をしているわけではない。野村先生の門下生として当然のことをしただけだ。 敢えて言うならば、先生の墓前に報告できることが一番嬉しい。