三月尽(日)曇り。
花曇りの土曜日に家族で私の住む町を流れる大岡川沿いに咲く桜を観に行った。毎年、同じ場所で子供たちの写真を撮る。それをもう八年も続けている。今年はいつになく開花が早く、すでに葉桜となっていたものもあった。桜を見ると、野村先生の獄中句集「銀河蒼茫」の句を思い出す。
独房の茣蓙にも 風よ 花びらよ
葉桜の 風の言葉は 独り聴く
いくたびも鍵を抜けて来て蝶を見き
特に、この三句は、獄中の経験のある者には胸に迫るものがある。もう二十六年も前のことだが、桜があらかた散った四月の後半に東京拘置所の独房に座った。暖房もない古い警察の留置所に三か月以上も入れられていたせいもあって、陽当たりの良い東拘の新舎三階の独房は大げさではなくまるで新築のマンションに越してきたよう感じがした。
初夏の暖かさに身を委ねていたある日、開け放していた窓からタンポポの落下傘が風に乗って独房に入ってきた。それは何も言わずに別れてきた幼い子供が、私の身を案じてタンポポの胞子となって会いに来てくれたような気がして、机の上に落ちた胞子をいつまでも見つめていた。きっと野村先生も同じような思いで独房の茣蓙に落ちた花びらや、いくたびも獄の扉をくぐり抜けて獄舎に迷い込んだ蝶を見たのに違いあるまい。
そして独房で思索しつつ、ふと耳を澄ませば、葉桜となった桜の木が風に揺れて、先生の心を乱したのかもしれない。
私にとって桜は、野村先生、三島・森田両烈士、山口二矢烈士、そして特攻隊の英霊につながる。次の野村先生の桜の三句は、先に逝った人たちへのレクイエムのように感じてならないのだ。
祖国のなみだのやうに桜が散る
誰もしゃべるな 桜が散ってゐるから
花の雨 けむる祖国のさみしさよ
まるで冬に逆戻りしたような寒い一日だった。何処にも出かけずに、原稿、読書、テレビ、そして暗くなったら酒、という幸せな日を過ごした。NHKのBSでロバート・キャパの特集をやっていた。録画しておいて入浴を済ませてからのんびりと見た。何か特別なプレゼントのような気がして、一本残しておいた「赤霧島」の封を切った。