白雲去来

蜷川正大の日々是口実

冷奴の美味しい食べ方。

2013-04-25 10:18:51 | インポート

四月二十四日(水)雨。

 深夜に突然何か書きたくなって時計を見ると二時半。どうしようかとも思ったが、このノリを大切にしようと思って、そのまま起きてPCに向かった。さてと・・・。機関誌「燃えよ祖国」に掲載する原稿、「志士と壮士の歌」を仕上げてから「野村先生語録」の準備をした。五時半になって上の子供が起きてきたので、一緒に朝食。

 先日、アメ横に行った折に買って来たワカメ(二度目だがこれが美味しい。五百円で山ほどある)の味噌汁に納豆、赤魚のかす漬け。が朝のメニュー。十一時近くに事務所に行き郵便物の確認と様々な手紙を五通。

 まず、先日のふぐをご馳走になった初対面の方お二人、國學院大學を退職した大原康男先生が、以前書いた原稿をまとめた「お国のために」(転展社刊・非売品)をご恵送頂いたお礼状、購読料を振り込んで頂いた方へのお礼状、そして映画関係者に試写版を送って頂いたことへのお礼状の五通を書いた。文章は下手くそだし、字は金釘流だが、真心が伝わればと思って、なるべく電話やメールではなくて手紙でお礼をするように心がけている。

 五時から下の子供を連れて歯医者へ。長いこと付けていた下の歯の「矯正器具」が取れた。子供の歯や歯並びは親の責任。私がズボラして歯が悪いので、子供だけには小さい頃から、歯医者に連れて行った。ちょっとほっとした。

 夜は、魚屋に「柳かれい」の干物があったので買った。そして「冷奴」に、「わかめサラダ」に「筍のから揚げ」を肴に晩酌。筍はセブンイレブンで水煮を売っていたので買ってみた。定価は百円以下。それに醤油、酒、みりんに鷹の爪を入れたダシに三十分ほど漬けて置いてから小麦粉をまぶして、から揚げにしてみた。先日、松原商店街で茹でたての筍を買ってから揚げにして食べたことが忘れられずに再挑戦してみたのである。しかし、予想通りダメだった。まあ値段が値段だから仕方がない。期待する方が無理というもの。

 冷奴は、この時期には、ネギとミョウガをみじん切りにしたものをたっぷり載せて、ポン酢しょうゆで食べる。そう言えば、嵐山光三郎センセイの「素人包丁記」(講談社)に美味しい冷奴の食べ方が書いてあった。それによると、「豆腐を茹でてからすぐに冷やす」と良いそうだ。「まず鍋に張った水に塩を一つまみ入れ、豆腐がゆらりと動いたら氷水へ移し、しばらくさましてから冷蔵庫へ入れて一時間ほどで食べる。豆腐のアクがとれ、ほのかな塩味が染みわたり、純白の豆腐は味も色艶も柔らかさも一段と輝きをます」そうだ。

 うーん一度やってみるか。友人から頂いた焼酎「河童の誘い水」を飲んだ。何でも「モンドセレクション」最高金賞を二回、「国際優秀品質賞」を受賞したと言う宮崎のもの。飲んでみると、まあ美味しいのだが、パンチが足りない。上品すぎる、ガツンと来ないのだ。ラベルを見ると度数が二十度。それが原因か。やはり二十五度くらいのものが私にはちょうど良い。しかし「モンドセレクション」ってなんだ。

Photo_2※面白いですよ。


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野村秋介と寺山修司

2013-04-25 05:17:07 | インポート

四月二十三日(火)曇り。

 上の子供が体調が悪くて学校を休んだ。昼近くになって「お粥」を作ってあげたら何とか全部食べてくれたので、一日寝ていれば大丈夫だろう。

 上の子供がまだ小さい頃、熱が出てもおでこにタオルや「ヒエピタ」を貼るのをとても嫌がった。仕方がないので、洗面器に水を入れて自分の手を冷やして、おでこをさわってあげると、安心して眠った。それこそ熱が下がるまで、眠らずにそうやって看病したのがつい最近の事のように思い出す。

 夜も大事をとってお粥にした。すると子供が、「お粥」と「おじや」はどう違うのかと聞いてきたので、「お粥」は、本来はお米から作り、「おじや」は、鍋物の後に作るものと教えてあげた。夜になって大分元気になって来たので一安心。もう何十年も浪人暮らしなので、家事全般は私の担当となっている。何処にも出かけずに自宅にいることが苦にならない。

 週刊朝日の最新号(5・3/10合併号)に「没後30年・寺山修司を語り尽くす」という特集が掲載されていて興味深い。実は、寺山と野村先生は同い年である。野村先生が亡くなられる十年前に寺山は死んだ。若い人のために寺山の簡単なプロフィールを掲載すると、『寺山 修司 (てらやま しゅうじ、1935年12月10日 - 1983年5月4日)は日本の詩人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。「下町の錬金術師」の異名をとり、上記の他に歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、俳人、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」と返すのが常だった。』(ウィキペディア)より。

 私は、演劇にまったく興味がなかったので、彼の主催する「天井桟敷」の公演も観に行ったこともなく、様々な媒体で活躍するマルチな人、程度の認識しかなかった。私が十八歳の時に、彼の劇団にいたカルメン・マキの歌った「時には母のない子のように」がヒットした。伊勢佐木町のはずれにあった美音堂というレコード店で彼女のLPを買った。ジャケットのデザインがとても良かったのを覚えている。歌詞カードを見た時に、その歌の作詞者が寺山であるということを知り、色々な才能のある人、という認識を持ったのが彼を意識した最初だと思う。

 週刊朝日には、グラビアと共に「寺山修司を囲む8人の『とっておきの話』」が掲載されている。その中で映画監督の篠田正浩氏が、寺山の「マッチ擦るつかぬま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の歌について書いていた。篠田氏が終戦を迎えたのは十四歳の時。敗戦で焦土となった光景の中で出会ったのが、寺山の歌であったと。

 その寺山の歌は、「祖国喪失」と題された一連の中に収められている。野村先生は、自決の際に同志らに宛てた「檄文」、「天の怒りか、地の声か」の中で、『私は寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」という詩と十数年にわたって心の中で対峠し続けてきた。そして今「ある !」と腹の底から思うようになっている。私には親も妻も子も、友もいる。山川草木、石ころの一つひとつに至るまで私にとっては、すべて祖国そのものである。寺山は「ない」と一言った。私は「ある」と言う。それ故に、細川護煕の発言を断じて許せないのである。これは、私一人の思いではないと思う。ちなみに、神風特攻機は二千八百四十三機飛び立ち、二百四十四機が敵艦に突入したと記録にある。英霊よ、安らかに眠れ。いつの日か必ず有色人種である日本人が、白色人種と三年半にわたって死闘を展開した、真なる意味が何であったのかは、後世の史家が明らかにしてくれるであろう。

 さだめなき世なりと知るも草莽の
   一筋の道かはることなし 」

と書いた。今年は、野村先生の没後二十年。我々門下生は追悼集会「群青忌」を予定している。寺山修司は没後三十年。お二人は、現在の「祖国」を天上からどのように眺めているのだろうか。

Photo※週刊朝日のグラビアより。カッコイイな。


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