十二月十日(木)曇り後晴れ。
何とか言う芸能人の息子が、不義の子(ちょっと古いか)早い話が自分の子であるか、ないかと血液を調べたり、裁判に訴えたりしたらしい。本来は、そんなことはひっそりとやるのが、大人の流儀と言うものだが、所詮はアホ馬鹿の集まる世界だから、一般の常識は通じないか。
その件の前妻が、その騒動の渦中で引退を表明したが、私のようなおっさんには、えっあなた女優だったの?、引退を表明するほど大したものなの。と。例えば池上季実子さんのような女優が突然引退するとなれば、何があったのだろうと思うが、黙ってフェードアウトした方が本人にも子供さんにも良かったのではと、そう言う世界に疎い私は思うのだが。
そうそう彼女のお母さんは私と同じ歳の人で内藤洋子さん。北鎌倉女学園に在学中から清純派女優として人気があったが、彼女の「白馬のルンナ」という歌を聞いた時に、いっぺんに夢が冷めたことを覚えている。あの歌さえ聞かなかったらもう少しファンでいたかもしれない。後年、内藤洋子の名前を久しぶりに聞いてエッと思ったことがあった。それは戦前の上海でダンサーとして一世を風靡した「マヌエラ」の自伝を読んだ時のこと。その「マヌエラ」こと和田妙子さんが何と内藤洋子さんの伯母にあたる人と知り、へぇー!。
そのマヌエラこと和田さんが九十五年の生涯を閉じたのは、平成十九年の五月の十八日こと。産経新聞の「死亡欄」にこういう記事が掲載された。
「戦前の上海でダンサーとして活躍し、戦後はクラブ経営者として多くのジャズメンを育てた和田妙子さんが18日午後、東京都八王子市の病院で亡くなった。95歳。葬儀・告別式は近親者で済ませた。 和田さんは北九州・小倉の出身。昭和3年、松竹楽劇部1期生に合格し、もらった芸名は『水の江たき子』。『ひらがなが気に入らなかったから』と同期生の『東路道代』と交換し、後に名を滝子とかえた同期生は愛称ターキーの大スターとなった。一方の和田さんは2度の結婚を経て13年に、上海に渡った。
国籍不明のダンサー『ミス・マヌエラ』としてフランス租界のクラブでスパニッシュを踊り、『魔都の花』として人気沸騰。市内一の繁華街、南京路の朝鮮銀行の壁には十八番の「ペルシャンマーケット」を踊るマヌエラの大きな写真が飾られた。国歌を演奏しながら行進していた米海兵隊のマーチングバンドは、写真の前にくると曲を『ペルシャンマーケット』にかえたという。
開戦時には連合国側のスパイと疑われて日本の憲兵隊に身柄を拘束され、終戦時には日本のスパイとして米国の陸軍情報部の取り調べを受けた。帰国後は東京・内幸町でクラブ『マヌエラ』を経営した。上海仕込みの英語と度胸で行儀の悪い進駐軍の兵隊をしかり飛ばし、この店で前田憲男、ジョージ川口、マーサ三宅らが育った。いわば戦後日本のジャズの育ての母でもある。波乱に満ちた和田さんの人生は、西木正明氏の小説『ルーズベルトの刺客』のモデルにもなった。」
私は、個人的に上海が「魔都」と呼ばれていた戦前の上海の小説が好きで随分と読んだ。その中でも『上海ラプソディー―伝説の舞姫マヌエラ自伝』(WAC)は好きな本である。
夜はおとなしく酔狂亭で月下独酌。
何とか言う芸能人の息子が、不義の子(ちょっと古いか)早い話が自分の子であるか、ないかと血液を調べたり、裁判に訴えたりしたらしい。本来は、そんなことはひっそりとやるのが、大人の流儀と言うものだが、所詮はアホ馬鹿の集まる世界だから、一般の常識は通じないか。
その件の前妻が、その騒動の渦中で引退を表明したが、私のようなおっさんには、えっあなた女優だったの?、引退を表明するほど大したものなの。と。例えば池上季実子さんのような女優が突然引退するとなれば、何があったのだろうと思うが、黙ってフェードアウトした方が本人にも子供さんにも良かったのではと、そう言う世界に疎い私は思うのだが。
そうそう彼女のお母さんは私と同じ歳の人で内藤洋子さん。北鎌倉女学園に在学中から清純派女優として人気があったが、彼女の「白馬のルンナ」という歌を聞いた時に、いっぺんに夢が冷めたことを覚えている。あの歌さえ聞かなかったらもう少しファンでいたかもしれない。後年、内藤洋子の名前を久しぶりに聞いてエッと思ったことがあった。それは戦前の上海でダンサーとして一世を風靡した「マヌエラ」の自伝を読んだ時のこと。その「マヌエラ」こと和田妙子さんが何と内藤洋子さんの伯母にあたる人と知り、へぇー!。
そのマヌエラこと和田さんが九十五年の生涯を閉じたのは、平成十九年の五月の十八日こと。産経新聞の「死亡欄」にこういう記事が掲載された。
「戦前の上海でダンサーとして活躍し、戦後はクラブ経営者として多くのジャズメンを育てた和田妙子さんが18日午後、東京都八王子市の病院で亡くなった。95歳。葬儀・告別式は近親者で済ませた。 和田さんは北九州・小倉の出身。昭和3年、松竹楽劇部1期生に合格し、もらった芸名は『水の江たき子』。『ひらがなが気に入らなかったから』と同期生の『東路道代』と交換し、後に名を滝子とかえた同期生は愛称ターキーの大スターとなった。一方の和田さんは2度の結婚を経て13年に、上海に渡った。
国籍不明のダンサー『ミス・マヌエラ』としてフランス租界のクラブでスパニッシュを踊り、『魔都の花』として人気沸騰。市内一の繁華街、南京路の朝鮮銀行の壁には十八番の「ペルシャンマーケット」を踊るマヌエラの大きな写真が飾られた。国歌を演奏しながら行進していた米海兵隊のマーチングバンドは、写真の前にくると曲を『ペルシャンマーケット』にかえたという。
開戦時には連合国側のスパイと疑われて日本の憲兵隊に身柄を拘束され、終戦時には日本のスパイとして米国の陸軍情報部の取り調べを受けた。帰国後は東京・内幸町でクラブ『マヌエラ』を経営した。上海仕込みの英語と度胸で行儀の悪い進駐軍の兵隊をしかり飛ばし、この店で前田憲男、ジョージ川口、マーサ三宅らが育った。いわば戦後日本のジャズの育ての母でもある。波乱に満ちた和田さんの人生は、西木正明氏の小説『ルーズベルトの刺客』のモデルにもなった。」
私は、個人的に上海が「魔都」と呼ばれていた戦前の上海の小説が好きで随分と読んだ。その中でも『上海ラプソディー―伝説の舞姫マヌエラ自伝』(WAC)は好きな本である。
夜はおとなしく酔狂亭で月下独酌。