一月十日(木)晴れ。
久しぶりに、飲みに行くだけのために東京行き。(こういう用事が一番嬉しい)築地にある連合艦隊司令長官であった山本五十六大将の縁の料亭「小すが」へ新年会を兼ねて、お世話になっている方にご招待された。
その「小すが」と山本五十六大将との縁は、月刊「文藝春秋」の特集「激動の90年・歴史を動かした90人」の中に、「料亭・小すが女将、丹羽政子」のインタビュー記事として掲載されている。
「小すが」の女将の母である丹羽ミチさんは、「小須賀」という名前で芸者となり、昭和十三年に料亭「和光」を開店した。ミチさんと山本大将は芸者時代からの付き合いで、「和光」も贔屓にしていた。その「和光」の看板を書いたのも山本大将であった。
※看板が日に焼けたというと、裏にも書いてくれたそうだ。「和」の崩し方が分かる。
現在の女将である丹羽政子さんのお孫さんである順子さんが、「文藝春秋」に書いた山本大将からの手紙の写しを見せて頂いた。その手紙は、昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃から帰り、広島の呉の軍港に停泊中の「長門」で書いたものであり、その証拠に封筒の裏には「長門」とあった。
緒戦の勝利に湧く日本人にこう警告している。「いまに東京に爆弾の雨が降ると、もうおしまいでしょう。そうなるとさすがの和光も落ち着いて商売も出来なくなりますから、その時は、その時になどとという呑気でなく、考えておくことですね。(こんなことを人に言っては困るが)」
昭和十七年の一月に、山本大将は、この時点で日本の敗戦を予測していたのかもしれない。英米派といわれた井上成美や米内光政らとその「和光」に良く来ていたともいう。
女将の政子さんに代わって、現在料亭を取し切っている順子さんが、山本大将の他の書についても丁寧に解説をして頂いた。嬉しくなってつい酒が勧む。
その後は、新橋の一流の芸子さんが正月らしい踊りを披露して頂き。とても贅沢な正月となった。
また、特攻隊の生みの親と言われる大西瀧治郎中将が自決なされたのちに、ご夫人が親しい方たちに形見分けとして、大西中将の辞世の句「これでよし百万年の仮寝かな」をプリントした風呂敷も見せて頂きとても感激をした。正月の築地の海風に吹かれながら「小すが」を後にした。こんなビッグな正月のプレゼントをして頂いたI氏に感謝。
※大西中将の辞世がプリントされた風呂敷を順子さんに見せて頂いた。