白雲去来

蜷川正大の日々是口実

野村先生の菩提寺にて、得度式に出席。

2009-04-09 11:12:10 | インポート

  四月八日(水)晴れ。潅仏会。

 朝から天気も良いし、何となく気分が良い。午後には「週刊文春」の早刷りも届くだろうし、今から楽しみである。

 今日は、野村先生の菩提寺である、伊勢原の浄発願寺にて、野村先生のご友人だった方の得度式がある。野村先生のご夫人もご招待されているので、お供させて頂いた。お寺には、正午近くに到着。まず野村先生の墓前に、今回の週刊新潮の虚報に対する結末を報告した。「先生。明日を楽しみにしていて下さい。栄光のない勝利ですが、必ず先生の名誉を回復いたします。今後共、一門の戦いにお力を与えて下さい」。お墓の下にある、「闘い地蔵」にも感謝し手を合わせた。

 得度(剃髪して仏門に入ること。出家)式は、厳かな中に行われ、得度される方の並々ならぬ決意の程が列席した人たちにも伝わり、しわぶき一つ聞こえない。仏教の儀式について、私には何の知識もないが、恐らく、長い人生の中で、両手をついて頭を垂れるということの経験をしたことのない人が、剃髪し、僧衣を着し、師匠となられる僧に恭しく頭を垂れる。その姿を見て、感動せぬ者は居ないだろう。新たな法名を授けられた、その方の胸に去来する思いは何か・・・。外に目をやれば満開の桜。ふと、野村先生の、

 誰もしゃべるな 桜が散っているから

 という句が浮かんだ。

 昔からいわゆる出家した人は数多いる。様々な理由があったに違いない。その人たちの懊悩や心の深層を忖度できるほど、人生に達見しているわけではない。すがりつく幼子を蹴落としてまで出家の道を選んだと言う西行。その西行の研究に詳しい、窪田章一郎氏によると、 「(出家の)根本にあったものは、-省略- よりよき生き方をしたいという人間の純粋な希望、要求であり、出家という行為は自身を自由にし、束縛から離つことであり、自己を遂げ、自己を解放することに価値ある生き方を求めることである。そこには政治的な絆や恋愛の苦しみから自己を救うという消極的な自己救済と、作歌と修業という積極的な自己救済」

 二十三歳で出家した西行には、「政治的な絆や恋愛の苦しみから自己を救うという消極的な自己救済」があったかもしれないが、今日得度された方は、「よりよき生き方をしたいという人間の純粋な希望、要求であり、出家という行為は自身を自由にし、束縛から離つことであり、自己を遂げ、自己を解放することに価値ある生き方を求めることである」ことは言うまでもないだろう。

 終了後に頂いた「硯」には、墨痕鮮やかに「一隅を照らす」とあった。大言せず、「一隅を照らす」ことに残りの人生を費やす。俗人の私には、到底、そんな心境にはなり得ない。今は、野村先生の教えを守り、阿修羅の如く、維新運動に邁進するのみ。

 帰宅したら、「週刊文春」の早刷りが届いていた。島村は児玉、野村両先生に関する部分は、さすがに嘘と認めたが、まだ全て本当のことを話していない。文春によれば新潮社は、島村征憲に対して「今後、私の証言が変わるようなことがあった場合、それは『脅迫』によるものです」という念書を取ったと書かれていた。なぜそんな事をする必要があるのだ。これでは新潮側は島村証言を嘘と自ら認めていることと同じではないか。

 更に、新潮社は、島村に対して、「金銭の支払いは一切ない」と我々に言っていたが、これも嘘で、原稿料(取材費)として二十万×四回、合計八十万円プラス十万円の、合計九十万円を支払った事が、確認されている。その他、ホテル代は新潮社負担で、かかった経費は領収書で落としている、ことも確認した。もうそろそろ往生した方がいい。出処進退を明らかにすることが大事と、今まで政治家や大臣に物申して、首を切ってきたのは、新潮社ではなかったのか。正に天に唾するようなものだ。


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木曜日に、ド級の記事が、週刊文春、産経、毎日に出るぞ!

2009-04-08 07:34:23 | インポート

四月七日(火)晴れ。

 いい天気である。子供達は、元気に登校していった。

 今日の産経新聞に、また「週刊新潮」の「阪神支局銃撃事件」の特集記事が掲載されている。異例の事だろう。その中で、新潮側のコメントとして「右翼団体や元米国大使館職員については、双方が納得する形で話し合いを終えている。こちらが誤報を認めて謝罪するようなことはしていない」とコメントしているが、これは明らかに違う。我々は、決して納得した形で話し合いを終えてはいない。それは、抗議団の方々との約束や、仁義もあるので、今は明らかにすることはできないが、新潮側の今後の対応如何によってはキチンと公開するつもりでいる。この産経の記事では、何か裏取引をしたように思われかねない。どこまで自分達のメンツが大事なのか。近々、その化けの皮が剥がされる。

 現在「WiLL」の編集長をしている花田紀凱氏も「間違い徹底検証し公表を」として、同じく産経に書いている。是非ご一読して頂きたい。

 正午から、伊勢原の浄発願寺へお墓参り。今回の「週刊新潮」の顛末を野村先生の墓前に報告に行った。今週の木曜日に、週刊文春、産経新聞、毎日新聞に、今回の週刊新潮の「赤報隊報道」に対する度肝を抜く記事がでる。楽しみにしていてください。我々は栄光なき、この戦いに勝利するのだ。

 夜は、恒例の「蜷川政経懇話会」を開催。場所は、伊勢佐木町の炉端焼「花笠」。ここのオーナーの保君とは、もう三十年以上のつきあいである。「鯛しゃぶ」で一杯やった。土曜日に華燭の宴を終えた、スゴウ君がご夫妻で出席。和やかな会だった。終了後は、社友会の隠岐康氏と二軒転戦して十二時前に帰宅。中破・良飲。


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友人の記者氏と一献

2009-04-07 17:32:01 | インポート

四月六日(月)晴れ。

 今日は、午後から子供の入学式がある。下の子供も始業式。午前中に、近くの大岡川のほとりの桜を見学に出かけた。最近は、この大岡川沿いの桜並木が観光コースとなっているが、私の子供の頃は、桜並木などなく、川沿いには柳の木がポツン、ポツンとあるだけだった。私の通う中学も、その大岡川を渡って行くのだが、その頃は、川沿いにバラックが沢山建っていた。そのほとんどが家の半分が川にせり出た格好で建っていて、黄金町から日の出町にいたる川沿いには、そのバラックでモツを売っていたりする店が並んでいた。

 従って、桜の木など植えようがなかった。桜並木が整備されたのは、ここ二十年ぐらいの事ではないだろうか。満開の桜の下で家族で記念写真を撮った。

Dsc_0041

 ※大岡川の桜です。クリックしてください。

夜は、知り合いのY新聞社のY氏と待ち合わせての一献会。久し振りに中華街の「安記」へ寄った。紹興酒にお決まりのつまみ。モツ皿、レバ皿、シュウマイ、イカとインゲン炒め、螺貝のニンニク炒め。チョット疲れていたのかも、紹興酒一本が精一杯だった。食後は、これまたお決まりのコースで「サリーズバー」へ転戦。

 Y記者が、北朝鮮のミサイル発射に関して、朝鮮総連に取材に行ったが、総連側の得意そうな顔を見て、フザケルナと思ったそうだ。それでいい。わが国も、早く「非核三原則」などを撤廃して、普通の国にならなければならない。ダダッ子のミサイル外交が何時までも続くと思ったら大間違い。

 十一時に解散して、早めに寝てしまった。

コメント (2)
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野村先生の句集が、「われらのインター」に紹介されていた。

2009-04-07 09:51:08 | インポート

四月五日(日)曇り。

 朝食後は、家族全員で自宅の掃除。何処の町もそうだろうが、ゴミが分別になって以来、どうしてこんなにプラや紙のゴミが出るのかと思うほどの量が出る。プラ、紙類、ビンと缶、スプレー、生ゴミなど、狭い台所がまるでゴミ置き場のようだ。集配日まで待ちきれないときは、仕方がないので事務所に持って行き捨てる。これが本当に資源になるのかは分からないが、ルールは守らなければと、分別にいそしむ。

 夕方、事務所に郵便物の確認に行ったら、鈴木邦男さんから雑誌が二冊届いていた。中を見たらJR総連関係の機関誌で「われらのインター」というもの。JR総連の人たちとは、以前、三浦さんの支援集会や、私達がゲストで行ったトークショーを本にした出版記念会の席などで一緒になったことがある。三浦さんが、かつてJR総連の裁判の支援をしたことが縁となり、お付き合いが始まったと仄聞している。三浦さんは、左右に関わらず、「冤罪」の裁判を支援していた。そこには自らの体験から来る権力への不信感があったに違いあるまい。日本の権力との不条理との戦いに勝利しながら、その報復とも思われる米国の権力の手によって死を余儀なくされた三浦さんの憤怒と悲しみが伝わってくるようだ。

 三浦さんがサイパンで逮捕されてからは、今度は反対に、彼等が三浦さんの支援に廻った。たとえ思想信条の違いはあれど、不条理に対する戦い、反体制、反権力への思いは、どこか共通する思いがある。かつて大逆事件で刑死した幸徳秋水の著書の跋文を書いた三宅雪嶺。頭山満と中江兆民。まあ三浦さんは右翼ではないが、娑婆にいるときは、必ず、野村先生の追悼祭「群青忌」には出席してくれた。

 そうか、「われらのインター」話だった。その雑誌の2009年の17,18号に松崎明氏が何と野村先生の句集「銀河蒼茫」取り上げて書いているのである。いやはやたまげた。松崎氏と言えば今更説明の必要はないだろうが、元革マル派の副委員長とも言われ、動労の委員長だった人だ。第十七号の表紙の裏には「銀河蒼茫」の写真が、そして松崎氏が書いたタイトルは「銀河蒼茫ー野村秋介獄中句集にふれて」と言うもの。

 「右翼の過激派、悪い奴ら、としばらく前まで、この私も思っていた。私自身左翼過激派、悪い奴、言われているにもかかわらず。今では「週刊現代」によってテロリストとまで、「格上げ」されている。『野村秋介獄中句集』を読みながら背筋がぞくぞくする程の感動をおぼえた。早速『インター』の仲間に紹介しなければと思い〆切り後にもかかわらず無理を言って突っ込ませてもらった」。と書いている。きっと天上で野村先生もニヤリとしながら、若い鬼と冷えたビールでも飲んでいるのに違いあるまい。

 今日は、嬉しい事がもう一つあった。DVDを借りに「TUTAYA」に行った。時間があったので「ブックオフ」で暇をつぶしていたら、山平重樹さんが書いた「最後の浪人・阿部勉伝」を見つけた。元楯の会の故阿部勉さんは、私が道の兄として慕った人だ。先日、古い友人で、長野でスキーペンションを経営していた、S氏の話に触れたが、そのS氏も阿部さんの弟分を自認している。阿部さんが「オイ蜷川よ、Sを頼むよ」と言っているような気がして、これまで遠路を理由に、開店したお店にも顔を出さず、疎遠にしていた事を反省した。

 野村先生が、「河野邸焼き討ち事件」にて、戦線復帰して最初に書いたものが、「人の一生は邂逅の一語に尽きる」というもの。あらためて、その「邂逅」という言葉を考えさせられた一日だった。休肝日とした。 


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ヘロヘロな一日だった。

2009-04-05 09:43:16 | インポート

四月四日(土)晴れ。札幌から帰宅。

 いやはや、昨夜は見事木村三浩氏の姦計にはまって、寝たのが深夜二時半。議論好きなのを忘れて、つい付き合ってしまった。六時に起きるのは、気力、体力、酒臭との戦いに、体力を要した。シャワーも浴びる暇もなく、荷物の整理。下を向くと吐きそうになる。フラフラになりながら、ベルボーイを呼んで、パッケージダウンが終わったのは、六時五十分。ロビーには梶浦直樹君、石澤博文君、大翔君らがすでに待っていた。すぐに千歳に向かうが、車の中で目を開けているのが辛かった。運転をしている梶浦君に悪いと思いつつも、つい居眠りをしてしまう。七時に空港着。皆で、お茶でもと思ったが、とてもそんな気分ではなく、三人にお礼を言って、早々に手続きを済ませゲート前の椅子で寝た。

 九時の飛行機で羽田へ。気持ちよく寝ていたら、客室乗務員の「誰か来て下さい」との悲鳴で起こされた。私のすぐ後ろでバタバタしている。すわっハイジャックか、と思ったら、若い人が顔面蒼白で通路に倒れて乗務員に助けられている。手伝ってあげて、私の席の前に寝かす。一番年上と思われる乗務員が酸素ボンベなどを持ってくるなどして、他の若い乗務員に指示を与えて、きぱきと処置している。さすがだナァー、と思った。何でも、軽い貧血だったそうだ。仕事に、命を賭けている、というその姿に接し、二日酔いで死にそうになっている自分を恥ずかしく思った次第。これも何もかも、山浦、木村両先生にお付き合いしたせいだ、と責任を転嫁して、また寝た。

 十時半に、羽田着。故三浦和義氏が所属していたプロダクションのA社長から、花見の誘いがあったが、今日は、午後一時から行われる後輩の結婚披露宴に出席しなければならない。迎えに来た車で、急いで自宅に戻った。

 自宅で着替えを済ませて、披露宴の会場となったホテルに着き、受付を済ませたのが、開宴の五分前。セーフだった。統一戦線義勇軍の針谷大輔議長や清和、米倉の同志等と同席。披露宴は新郎新婦のアイデアであろう。中々内容の濃いものであった。歳のせいもあってか、新婦が両親に対してお礼の言葉を言う場面では、わが子と重なり、思わず落涙してしまった。爽やかで感動的な披露宴だった。特に感心したのは、新郎の挨拶の後に、「横浜市歌」が流れたことだ。私は、この歌が好きだ。何度もこのブログに書いたが、歌詞の中の「されば港の数は多かれど、この横浜に勝るあらめや」というくだりがいい。よその港に行くことがあると、必ず、この歌詞が浮かぶ。ヨコハマの波止場の風景と共に。ちなみに明治四十一年に制定されたこの歌の作詞は、森鴎外です。

 ここのホテルには、知り合いが多い。先日も、ここの社員でもあり社友のY氏と会った折に、酔っ払った勢いで、「当日は、私のテーブルに『黒霧島』を置いておくように」とリクエストしたのが、今回はアダとなった。二日酔いと寝不足で、とても昼間から「黒霧島」の気分ではない。しかし、テーブルの係りの人も「黒霧島」をご用意してあります。と耳元で囁く。隣の針谷議長も「威勢悪いですネェー」。えーいままよ。とロックで飲んだ。不思議なことに、この一杯で二日酔いがあっという間に吹き飛んだ。

 披露宴が、終了後に二次会に誘われたが、若い人たちばかりなので、さすがに遠慮した。引き出物の入った、「ティファニー」の手提げ袋を持って、横浜を歩くのは、田舎者のガキようで、さすがに気恥ずかしかったが、まあいいか。

 帰りの車中で爆睡。自宅に戻って夕食後に、レンタルしたDVDで三国志の赤壁の戦いを題材にした「レッド・クリフ」を見た。金のかかった良い映画だが、個人的に言えば、CGを多用したこの監督の映画が余り好きではない。なぜかこの監督の映画を見た後に、CGなどない時代の映画を見ると、とても新鮮に感じてしまう。品の良いCMを見ているような気がしてならない。まぁ所詮、素人のたわごとです。孔明の活躍がクローズアップされていなかったのは、日本人が演じていたせいなのだろうか。

 夜は、酒を避けて寝た。今日は、一日、難しいこと、ややこしい事を考えずに過ごした。

コメント (2)
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