3月16日(土)晴れ。
朝食は抜いた。昼に大悲会の志村馨会長が来宅。最近できたという中華料理屋にランチに行く。店主は有名中華で修行したとか。しかし、ホテルや有名中華料理店にいたといっても、いわゆる町中華とは違う。逆に町中華に何年居たからと言っても、ホテルの中華や高級中華料理店では、使えないだろう。今日行ったお店も、そのセオリー通りだった。なぜか料理が皆、甘いのだ。まあ仕方がない。こんな日もあるさ。
一年のうち三月という月は、私にとって、様々な意味で感慨深い日が多い。まず三日は、桜田門外の変と昭和五十二年に恩師らが財界の営利至上主義を撃つ、として財界の総本山である経団連穂襲撃占拠した日。
四日は、平成十年の一月十三日に、いわゆるビック・バンに反対して東京証券取引所に拳銃を持って立てこもり、八年の刑を受けて入所中だった板垣君が、戦線復帰を一月後に控えた、平成十八年の三月四日、肝臓癌にて幽明境を異にした。十五日は、お世話になった野呂道夫氏の御命日。
十一日は東北大震災の日。この日のことは良く覚えている。早いもの・・・。などと言ったら犠牲になられた方々に失礼かもしれない。十三年前の今日、私は友人たちと、後輩の結婚式に出席するために札幌にいた。到着したのは震災の起きる一時間ほど前だった。空港に迎えに来てくれた山本和八君の運転する車で空港から札幌の中心街へと向かっている途中で、山本君が「車が揺れています。地震かも」と言うので、何も感じなかった私が、「太っているから眩暈じゃないの」などと軽口を返した。ホテルのチェックインまで、まだ時間があるので、屋台村のようなところで軽く一杯やろうということになってお店に入った。すると、テレビのある所にいた他の客の「うあっー」、「大変だぁー」とか言って騒いでいる声が聞こえた。我々もテレビの前に行ったら、画面は津波が畑から道路に押し寄せている映像が流れていた。一瞬、そのことが理解できずに周りの人に「どこですか」と聞いたら「宮城県です」。それから、しばらくテレビにくぎ付けになった。
ニューでは、関東地方にも被害が及んでいると言っている。横浜駅付近のビルの壁が落ちたり、人々が座り込んでいる映像に慄然とした。皆で、後輩にお祝いだけ渡して東京に戻ろうと千歳の空港に電話するが、飛行機は飛ばないというし、家族の電話もつながらない。その後、ホテルに入って、ようやく電話がつながり、幸いなことに家族は皆無事だという。その後、ニュースで被害の大きさを知り、暗澹たる気持ちになった。それから十三年。今年も、正月早々能登地方が大地震に見舞われた。月並みな言葉で申し訳ないが、頑張ってほしいと思っている。他に言葉が見つからない。
二十一日は、不肖私の誕生日。今年で満七十三歳となる。早生まれであるから七十四歳の人と同級生である。若い頃は、同級生よりも一歳下というのが嫌だったが、歳を取るにつれ一歳若いというのが値打ちとなっている。
夜は、頂き物の「金霧島」の封を切った。「黒霧島」のファンだが、この「金霧島」と「黒霧島MELT」が特にうまい。しかし中々手に入らないのが残念である。酒とズブズブの関係となって久しいが、中々手を切れない。