3月3日(日)晴れ。経団連事件の日。
起床後、食欲がなく、買っておいたパンにウインナーを挟んだホットドッグ1個。昼は、井土ヶ谷駅の近くのマックでエビフィレオ。夜は、ミスジ肉、マグロとネギの塩焼き、レタスのナムル。お供は、久しぶりに「伊佐美」。酔狂亭にて上の子供と対酌。
成10(1998)年の1月13日に、いわゆるビック・バンに反対して東京証券取引所に拳銃を持って立てこもり、八年の刑を受けて入所中だった板垣君が、戦線復帰を1月後に控えた、平成18年3月4日に八王子の医療刑務所にて薬石の功なく肝臓癌で亡くなった。同志らと彼を荼毘に付し、葬儀を行ってから早いもので満26年となる。明日の命日を前に、志村馨、松本佳展の両君と共に墓所である港北区の三会寺にお墓参りに行った。
野村先生が同志らと「財界の営利至上主義を撃つ」として財界の総本山である経団連会館を襲撃・占拠したのが昭和52(1977)年の3月3日の事。この日は「桜田門義挙」の日でもある。昭和52年当時、私は二十六歳。何気なくテレビを見ていたら臨時ニュースで「右翼が経団連を襲撃」というテロップが流れた。すぐに野村先生たちの行動とピンと来た。居ても立っても居られなかったが、何をして良いか分からなかった。何で、俺が家にいるのかと、いたたまれなかった。何年たっても今日の日が来ると、あの時の忸怩たる思いが甦る。その頃、城山三郎の『一歩の距離』を読んだことにより、一歩踏み出すことが出来た。最も十年の歳月を必要としたが・・・。早いもので、経団連事件から47年が過ぎた。
先駆けて 散りにし人の 悲しみを 我がものとせむ この道を行く。この歌は、経団連事件の前日に野村先生が詠んだ歌である。※平成3年2月、函館、土方歳三終焉の地の碑の前で。