スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第二部定理九系の援用についての弁明

2007-02-20 22:00:27 | 哲学
 個人的にある質問を受けました。これが哲学に関係していましたのでここで答えます。これは長くなりますし、またちょうどきりもいいところですので、昨日の予告通り、今日はテーマの方は1日お休みにして、明日から新しいテーマに入ります。
 質問の主旨は次のようなものでした。僕は第二部定理三八証明の過程において、第二部定理九系を援用しましたが、定理九系は観念の対象の中に生じる現象についての系であって、共通概念は、いわば観念の対象の中にある要素なので、これを援用するのは誤りではないかということです。
 実際にスピノザは定理三八の証明には第二部定理一一系を用いていて、定理九系には訴えません。そしてもしも定理九系をエチカにおいて論証されている通りの意味に理解するなら、確かにこの指摘は妥当なもので、僕の定理三八の証明方法は無効であるということになると思います。ただ、この場合にも、定理三八は少なくともスピノザがそうしているようなやり方では証明が可能なわけで、そちらの証明方法を採用するならば、この定理の内容が正しいことは明らかですから、第二部定義二の考察そのものは有効であろうと考えます。
 しかし、僕がこの過程において定理九系を援用したのには、僕なりの理由というものがあります。僕は定理九系の内容について、エチカで論証されているのとは異なった観点から解釈しているのです。というのは、定理九系というからにはこれは第二部定理九から直接的に帰結する筈なのですが、僕にはどうもその論証が正しくないように思われるのです。なぜなら、定理九から定理九系が帰結するためには、定理九系で観念の対象の中に起こることといわれていることの原因が、観念の対象そのものであるということ、かつそれは第三部定義一でいう十全な原因であるということが前提されていなければならないとしか僕には思えないのですが、これを無条件に前提することはできないのではないかと僕は疑問を抱いているのです。
 たとえば、Aというものがあって、このAがBと何らかの関係をすることによってAの内部にある変化Xが生じると仮定します。このXというのは明らかにAの中に起こることだと僕は思うのですが、同時に、このXはAとBが関係することによってのみ、その必然的な結果としてAの中にもたらされるわけです。するとXに対してAは十全な原因ではなく部分的原因であるということになります。またこのXの観念を神と関係づければ、第一部公理四からして、Xの観念はAの観念を有する限りでの神のうちにあるのではなく、Aの観念と共にBの観念をも有する限りでの神のうちにあるということになるのではないかと思うのです。そしてこうしたことを認めなければ、人間身体が外部の物体と関係することによって、人間精神が事物を表象する、すなわちある混乱した観念を有するということが説明できなくなってしまうように思います。このゆえに僕は、定理九系は定理九から直接的に帰結することはないと考えているのです。
 しかし一方で、第二部定理七を実在的に解釈した場合には、定理九系でいわれている内容のうちには、なお保持するべきものがあるようにも僕は思います。というのは、Aというのが形相的にあって、このAの中にある固有の事柄としてXがあるなら、この形相的なAの秩序と連結はAの観念の秩序と連結に同一というわけですから、Aの観念の中にはやはり固有の観念としてXの観念があるということになるからです。そしてこの場合には、Xの観念はAの観念を有する限りで神のうちにあるというべきであって、Aとほかのものの観念を有する限りでの神のうちにあるという方が不自然だと思えるからです。したがって、この観点から考えた場合には、定理九系は有効だと思うのです。
 つまり、僕は定理九系は定理九から帰結するのではなく、定理七に訴えることによって論証されるべきだと考えています。そして定理七というのは、スピノザがそうしているように、まず認識論的に第一部公理四から帰結するのです。したがってここで核となってるのはこの公理四で、定理九系を定理九から論証する仮定で、この公理四によって僕には不具合が生じるように思えますので、やはり定理九と定理九系でいわれていることの間には、観念の対象の中に起こることというのをどのように解釈するべきかという問題は残っているものの、少なくともそれを常識的なことばの使われ方から判断する限りでは、ある隔たりがあるとしか考えられません。
 僕が定理三八の証明の過程で定理九系を援用したのは、僕が定理九系をこのように解釈しているからであって、もしも定理九系がこのように定理七から論証されるべきだと考える場合には、それが対象の中に起こることといわれようと、対象の中にあらかじめあると仮定されるような要素だと考えようと、とくに差異が生じるものではないと思うのです。

 明日は大井金盃。ここはパーソナルラッシュ◎とボンネビルレコード○の首位争いと思いますが、これではつまらないのでマズルブラスト△かチョウサンタイアー△を絡めます。
コメント
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